第26話 一人の話ではない
朝稽古で木剣を構えた時から、右肩に昨日の名残があった。痛むというほどではない。ただ、腕を上げると少し重い。
ドランの突きをかわし、返ってきた木剣を受け流す。次へ動こうとしたところで、肩へ軽い衝撃が入った。
「痛っ」
木剣の柄頭だった。ドランはそのまま構えを解く。
「右肩が上がってる」
「昨日、獣の突進を受けたせいですかね」
「知らん。上がってるのは今のお前だ」
「はい」
余計な説明は通じなかった。肩を回してみる。昨日、旧採石場で獣の進路を剣でずらした時、思った以上に力が入っていたのかもしれない。
「今日はここまでだ」
「ありがとうございました」
木剣を戻していると、ドランが油布を手に取ったまま口を開いた。
「今日は仕事か」
「いいえ。エルザさんと、セイさんに会いに行こうと思っています」
「セイに?」
「固定パーティーを組んだことも、一度伝えておこうかと。それと、リンのことで聞きたいこともあるので」
「あの光るやつか」
「昨日から、お腹が空いたと言っていまして」
ドランの手が止まる。
「精霊が何を食うかなんぞ知らん」
「ですよね」
「セイも知ってるとは限らんぞ」
「聞くだけ聞いてみます」
ドランはそれ以上興味を示さず、刃へ油布を滑らせ始めた。
◆
宿で汗を拭いてから、冒険者ギルドへ向かった。エルザは一階の窓際にいた。耳の上には、白と薄緑の小さな髪飾り――にしか見えないリンが収まっている。
「おはようございます」
「おはようございます、ノワールさん」
ちりん。
「リンも、おはようございます」
ちりん。
「今日は普通ですね」
エルザがリンへ目を向ける。
「『おはよう』だそうです」
「昨日より仲良くなった気がします」
ちりん。
「……『べつに』」
「前言撤回します」
エルザの口元が緩んだ。俺は空いている椅子へ腰を下ろす。俺はリンを見ながらエルザに話しかけた。
「ミラさんもリンの食事については知らなかったですね」
昨日、リンの食事についてミラに確認したが知らなかった。
「はい。でも、詳しい方を探してみるとは言ってくださいました」
「……俺の知り合いにも聞いてみましょうか」
「どなたですか?」
「俺がこの街へ来た頃から世話になっている人です。落人のことも、この世界のことも、俺よりずっと長く知っています」
「精霊にも詳しいのですか?」
「そこは分かりません」
エルザが一度だけ瞬きをした。
「では、精霊の相談だけというわけではないのですね?」
「ええ」
俺は言葉を選んでから続けた。
「固定パーティーを組んだことも、紹介しておきたいんです」
「私を?」
「はい。俺が頼りにしている人の一人なので」
エルザはすぐには返事をせず、膝の上の鞄へ手を置いた。それから小さく頷く。
「分かりました」
ちりん。
「リンも行くそうです」
リンがついてくるのはわかりきっているが、余計なことは言わないでおく。
「決まりですね」
◆
ギルド併設の半地下酒場を覗いたが、セイの姿はなかった。酒場の客に聞いてみた。昼前なら大通りの脇にある店にいるかもしれないと教えられ、そちらへ向かう。表に看板もない、小さな食堂兼安酒場だった。
扉を開けると、酒と煮込みの匂いが混ざって流れてくる。客はまだ少ない。奥の壁際、出入口の見える席に灰銀の髪があった。
セイはこちらへ目を向け、まず俺を見た。次にエルザ。最後に、その髪へ留まっているリンで視線が止まる。
「……坊やか」
「はい」
「向こうでやり残したことでも、こっちでやってるのかい?」
セイが楽しそうにくつくつと笑う。
「言われると思ってました……違いますよ」
エルザは不思議そうにこちらを見るが、ここで説明するわけにもいかない。
ちりん。
エルザがリンを見て、少し固まった。セイの眉が動いた。リンを見つめながらセイが口を開く。
「その子が失礼なことを言ったね?」
「……はい……『こわい』と」
エルザが申し訳なさそうに答える。
「失礼な子だね」
「聞こえたんですか?」
「聞こえるわけないだろ。なんとなく感じただけだ」
俺もリンに碌でもないことを言われている気がすることは多い。納得だ。セイは顎で向かいの席を示す。
「座りな」
俺たちは卓を挟んで腰を下ろした。
「こちら、エルザさんです」
エルザが背筋を伸ばす。
「石級冒険者のエルザです。ノワールさんと固定パーティーを組んでいます」
「セイだよ」
それだけだった。セイは改めてリンを見る。
「で。その子は?」
「リンです。数日前からエルザさんについてきている精霊です」
「契約は?」
「していません」
エルザが答える。
「勝手についてきました」
ちりん。
「『かってじゃない』だそうです」
「だそうです」
ちりん。
「『いっしょ』」
セイが鼻から息を抜いた。
「面倒そうなのに好かれたね」
「私も、まだよく分かっていません」
「それで?」
「昨日から、お腹が空いたと言っているんです」
セイの目がリンへ向く。
「精霊が?」
「はい」
「何を食うか本人に聞かなかったのかい」
「聞きました」
「何て?」
エルザが困ったように眉を寄せた。
「『わからない』と」
しばらく沈黙したあと、セイが湯飲みへ手を伸ばした。
「役に立たないね」
ちりん、ちりん。
「……今のは訳せません」
「そうかい」
セイは気にせず茶を飲んだ。
「悪いけど、あたしも精霊の餌なんざ知らないよ。昔、森で見たことはあるが、皿を持って飯を食ってるところまでは見ちゃいない」
「やっぱりそうですか」
「ギルドで詳しい奴を探してもらいな。それまでは、本人が食いたがるものを勝手に食わせようとするんじゃないよ」
「分かりました」
エルザが頷く。リンは何を思ったのか、エルザの髪から離れて湯飲みの上を一周した。
「それは飲まない方がいいですよ」
ちりん。
セイが片眉を上げる。
「飲ませなよ。苦いってことくらい覚えるだろ」
さっきと言ってることが違う気がする。店員が追加の薬草茶を二つ置いていった。エルザが一口飲む。止まった。
セイが見る。
「苦いかい」
「……かなり」
以前なら、もっと遠回しな答えをしそうだった。
「正直でよろしい」
「セイさんは平気なんですか?」
「慣れだよ」
俺も飲む。舌の奥に、乾いた草を煮出したような苦みが残った。やっぱり苦い。リンは近寄らなかった。
「それで、坊や」
セイが湯飲みを置いて、エルザとリンに目を向ける。
「その子たちを見せに来ただけじゃないんだろ」
「はい」
俺は昨日の旧採石場の仕事について話した。崩れた通路を確認したこと。奥に獣が棲みついていたこと。俺が前へ出て突進の向きをずらし、エルザが横から音を立てて逃げ道へ追い込んだこと。討伐はせず、二人とも怪我なく戻ったこと。
セイは途中で口を挟まずに聞いていた。
「その獣が、もう少し重かったら?」
話し終えたところで聞かれた。
「……押し切られていたかもしれません」
「剣が滑ったら?」
「同じです」
「この子が横へ回れなかったら?」
俺はエルザを見る。
「……その時は、次を考えていませんでした」
「だろうね」
セイはそれ以上広げなかった。湯飲みの縁を指でなぞる。
「一回うまくいった形を、正解にするんじゃないよ」
「……似たようなこと、ドランさんにも言われました」
セイが露骨に嫌そうな顔をした。
「あの親父にも似たようなこと言われてて、それかい」
思わず身を縮めてしまう。
「……そうなりますね」
「坊や」
「……はい」
「特に坊やは、自分が前へ出りゃ話が早いと思ってるだろ」
「そこまで単純では――」
「じゃあ昨日、最初に前へ出たのは誰だい」
言葉が止まった。エルザが隣で小さく息を吐く。セイの目がそちらへ移った。
「止めなかったのかい」
「止めるより、私が動いた方が早いと判断しました」
「次も?」
「状況次第です」
「坊やがまた勝手に前へ出ても?」
エルザは少し考えた。
「必要なら止めます」
「どうやって」
「声をかけます。それで止まらなければ、別の動きをします」
「それでも駄目なら?」
「退きます」
セイは短く鼻を鳴らした。
「答えられるなら、それでいい。坊やより考えてる」
意外とあっさり終わった。俺は思わずセイを見る。
「もっと何か言われるかと思いました」
「何を期待してるんだい」
「説教を」
「金にならないことを長々やるほど暇じゃないよ」
ちりん。
セイがリンへ目を向ける。リンは何事もなかったように、エルザの髪へ戻った。
「……今の、何て言ったんです?」
俺が聞くと、エルザは少し考えた。
「言わないでおきます」
「またかい」
セイが鼻で笑った。
◆
しばらくして、セイが俺へ視線を戻した。
「坊や」
「はい」
「あれのことは?」
何を指しているかは分かった。身体の中の流れが分かる、あの感覚のことだ。
「話していません」
エルザがこちらを見る。だが、何も聞かなかった。セイもその反応を見ていた。
「なら、話す時は自分で決めな」
「はい」
「ただし、一緒に外へ出るなら、相手が知らないせいで危なくなることまで黙るんじゃないよ」
それだけ言って、セイは茶を飲んだ。エルザが間を置いてから口を開く。
「私から確認してもいいですか」
「どうぞ」
「今すぐ知らなくても、依頼中の判断には支障がないことですか?」
俺は考える。現時点で、あの感覚を頼らなければ成立しない仕事を、エルザと受けるつもりはない。あの感覚を使って、彼女の身体へ勝手に何かするつもりもない。
「今のところ、支障はありません」
「分かりました」
それだけだった。
「聞かないんですか?」
「今は必要ないと、ノワールさんが判断したのでしょう?」
「そうですけど」
「必要になった時には教えてください」
「はい」
セイが小さく笑った。
「やっぱり坊やより話が早いね」
「そうなんですよ」
「誰のせいでしょうか」
エルザが真顔で言った。
ちりん。
エルザがこちらを見てから訳したので、先に嫌な予感がした。
「『あやまれ』」
「空気が読める精霊だね」
セイは面白そうに目を細めながら、俺たちを見ていた。
◆
店を出る頃には、昼を少し過ぎていた。裏路地へ出ると、エルザが大きく息を吐いた。
「緊張しました」
「してたんですか?」
「しました」
「全然分かりませんでした」
「それは良かったです」
リンが髪から浮き、エルザの前をふわふわ飛ぶ。
ちりん。
「『にがい』」
「飲んでないですよね?」
ちりん。
「……『にがい』」
「覚えた言葉を使いたいのでしょうか」
大通りへ向かって歩く。しばらくして、エルザが口を開いた。
「セイさんは、ノワールさんのことをよく見ていますね」
「長い付き合いではないんですけど、いろいろ知られています」
「少し安心しました」
「何がです?」
「ノワールさんが一人で何かを決めようとした時、止める人が私以外にもいるので」
「そんなに信用がないですか」
「信用とは別の話です」
言い終わるより先に返ってきた。責める声ではない。そこを間違えるな、と言われた気がした。
リンがちりんと鳴る。
「訳さなくていいです」
エルザは律儀に耳を傾け、それから小さく首を傾げた。眉が寄り、口が半分開いて、そのまま閉じる。
「今のは、私にも意味が分かりませんでした」
「そういうこともあるんですね」
「はい。ただの鈴の音に聞こえる時もあります」
そのまま歩いていると、リンが俺たちの間へ降りてきた。
ちりん、ちりん。
「今度は?」
「『おなかすいた』」
「戻りましたね、その問題」
結局、何を食べるのかは分からないままだ。
「ミラさんが詳しい人を探してくれるまで、変な物を食べさせないようにしましょう」
「はい」
ちりん。
「『おなかすいた』」
「分かりましたから」
リンの鈴音を聞きながら、俺たちはギルドへ戻る道を歩いた。




