第25話 最初の仕事
朝、〈鈍色亭〉の階下へ降りると、女将が鍋の湯気を払いながらこちらを見た。
「今日は早いね」
「おはようございます。固定パーティーとして、最初の仕事です」
「へえ。じゃあ昼までは戻らないのかい」
「ええ。その予定です」
「なら、先に食べていきな」
温かなスープと黒パンが置かれた。女将は棚へ手を伸ばし、布に包まれた小さなパンを一つ取り出した。
「昼用に持っていくなら、これもあるよ。昨日の残りだけど、まだ固くはなってない」
「それは助かります」
「水筒は?」
「持っています」
いつもの朝だ。飯を腹へ入れ、女将にもらったパンを道具袋へ収める。腰の剣、水筒、警笛、縄、応急用の布も確かめて宿を出た。
◆
東門にはエルザが先に来ていた。今日も耳の上にリンがいる。白い雫のような光が髪に収まり、薄緑の羽だけが小さく覗いていた。
「おはようございます」
「おはようございます。リンは寝てるんですか?」
エルザが目だけを上へ向ける。
「たぶん」
ちりん。
「あれ? 起きてましたね」
「『おきてる』」
「それは失礼しました」
リンが髪からふわりと浮く。衛兵へ冒険者証と依頼控えを見せると、門番はエルザの横の光に一瞬眉を上げた。昨日の記録が回っているのか、それ以上止められずに城門を抜けた。
「さっきの門番さんはリンについて触れませんでしたね」
エルザが言う。
「噂がもう広まったのかもしれませんね」
「……良いような悪いような」
ちりん。
エルザがリンへ目を向けた。
「リンは気にしてなさそうですね」
「たぶん、私たちほどは」
リンはそのままエルザの髪へ戻った。
◆
東街道を進み、途中で北東の山裾へ向かう。土の道は石屑が増え、やがて古い石敷きに変わった。踏むたび乾いた音が返ってくる。
しばらくすると、旧採石場が見えてきた。
切り立った岩壁。砕けた白い石粉。倒れかけた警告板。錆びた鉄具と、草に半分埋もれた古い滑車。人が働いていた場所が、そのまま止まって置き去りにされている。
「ここですね」
エルザが帳面を開く。
「入口の柵は壊れています。警告板もほとんど読めません」
「上も見てください。岩壁に割れ目があります」
エルザが顔を上げた。
「……ありますね」
木炭が走る。リンが警笛の近くを漂う間に、足場と頭上を見ながらゆっくり内部へ進んだ。
◆
奥へ続く細い通路の手前で足が止まった。先日の雨で一部が崩れ、かなり狭くなっている。崩れた石の下は斜面だった。
「縄を使いますか」
エルザが言った。崩れた縁と、その向こうの平らな石を見比べる。壁際には、一人なら通れそうな幅が残っていた。
「俺が先に行ってみます。危なそうなら縄にしましょう」
「分かりました」
壁へ身体を寄せ、残った足場へ片足を置く。一歩進む。二歩目を置いたところで、靴の下から小石がぱらぱらと斜面へ落ちた。
足を止める。
少し体重を戻すと、それ以上は崩れなかった。壁へ手を添えて慎重に進み、向こう側の平石まで渡ってから振り返る。さっき踏んだ石が少しずれ、縁から細かな土がこぼれていた。
「エルザさんは、ここを通らない方がよさそうです」
「そうですね」
足元の平石を踏んでみる。こちらはぐらつかない。
「身体強化で、ここまで直接来られますか?」
エルザが距離を見る。
「はい。このくらいなら」
エルザが着地できるよう、平石の横へ退いた。
「ここへ」
「分かりました」
エルザが踏み込む。
ざっ。
身体強化を使った一歩で崩れた部分を越え、俺が空けた平石へ着地した。
「ありがとうございました」
髪に留まっていたリンが、遅れてふわりと浮いた。
ちりん。
「また置いていかれましたね」
俺が言うと、リンがこちらを向いた。エルザの口元が少し緩む。俺たちは先へ進んだ。
◆
採石場の奥には、浅い坑道のようなくぼみがあった。近づく前につんとした獣の臭いが鼻へ入り、手を上げるとエルザも止まった。
柔らかい土に掘り返した跡。毛。小さな骨。
「寝床みたいですね」
「一頭……だと思います」
エルザが声を落とした。
その時、リンがエルザの肩側へ寄った。
ちりん。
「リンが『きらい』と言っています」
「めずらしく気が合いますね」
「ノワールさんは剣を抜いてください」
「はい」
俺は鞘から剣を抜く。
くぼみの奥で低い唸り声がした。灰色の毛をした大型犬ほどの獣が姿を現す。痩せていて、牙を見せながらこちらを睨んでいた。
逃げ道は右後方にある。俺たちが完全に塞がなければ、外へ出られる。
「討伐は必須じゃありません」
「はい」
獣が地面を蹴った。俺は一歩前へ出て、刃を立てずに剣の腹を斜めにし、鼻先へ差し出した。がん、と腕に衝撃が走る。
右肩まで重い感触が抜ける。靴底が白い石粉の上を半足ほど滑った。思った以上に重い。押し込まれながら剣の腹を外さないよう横へずらすと、獣の頭がそれにつられて外へ流れた。
「右へ!」
エルザが動く。身体強化で獣の横へ回り、短剣の柄頭を岩壁へ打ちつけた。ぱん、と乾いた音が響く。
獣が身体を震わせた。俺とエルザが正面を塞ぎ、右後方の通路だけを空けている。獣はそちらへ向きを変えて駆け出した。石を蹴る音が遠ざかる。
追わない。俺たちはその場に残り、しばらく耳を澄ませたが、足音は戻ってこなかった。
剣を収める前に、右肩を一度だけ回した。痛みはない。少し重い程度だった。
そのまま鞘へ戻す。少しして、エルザの肩の後ろに隠れていたリンが浮いた。
ちりん。
「『にげた』」
「リンも逃げてました?」
ちりん。
「『うるさい』」
「戻ってきた途端それですか」
エルザが息を吐いて笑みを浮かべた。
◆
残りの確認を進めた。
奥まで見て回ったが、別の獣の姿や新しい痕跡はなかった。坑道の入口は一部が崩れ、立入禁止にした方がいい。水溜まり。壊れた石段。落石の危険がある場所。
エルザが必要な分だけ書き留めていく。途中、リンが岩壁の小さな穴へ寄っていった。
「リン。そこに何かありますか?」
ちりん。
エルザがリンを見る。
「……『むし』」
「食べる気ですか? お腹壊しますよ」
リンは俺の周りを飛び回り、ちりんちりんと音を鳴らし続ける。
「ずいぶん抗議されてますね」
エルザが言う。
「やっぱり文句でしたか、何て言ってます?」
エルザは一度だけ口を開きかけた。
「……言わないでおきます」
「余計気になるんですけど」
耳元を飛び回るリンの騒音を無視して来た道を戻った。エルザは俯いて肩を震わせていたが、気にしないことにする。入口近くの日陰で倒木に腰を下ろし、パンと干し肉を食べた。日の当たる場所だけ、石粉の白さがやけに明るい。
「固定パーティーとしての最初の仕事は、問題なさそうです」
エルザが帳面を見ながら言う。
「まだ帰って報告するまでが仕事ですよ」
「はい」
リンがエルザの髪へ留まった。昼寝だろうか。
◆
午後、王都へ戻った。ギルドへ入り、ミラへ報告書を渡す。
「通路の崩落、奥の坑道、それから獣が一頭」
ミラが順番に確認する。
「討伐せず、逃げ道を残して追い出したのですね」
「ええ。追う必要はありませんでしたから」
「十分です。職人さんが入る前に分かっていれば助かります」
完了印が押され、代表として二人分の報酬を受け取った。
「固定パーティーとして、最初の依頼完了ですね。お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
エルザは完了控えを帳面へ挟んだ。その頭にはリンがまだ留まっている。
「……そうしていると髪飾りみたいですね、リンさんは寝ているんですか?」
ミラが小声で聞く。
ちりん。
「起きてますね」
「『きいてる』と言ってます」
「失礼しました。少し気になっただけです」
ミラは笑顔で謝り、帳簿を閉じる前に思い出したように言った。
「そういえば、《翠緑の円卓》の方が新人向けの案内を置いていかれました。炊き出しや装備相談の案内です。必要なら持っていってください」
「円卓が?」
「新人さんへ声をかけているそうですよ。希望者だけだそうです」
エルザへ目を向けた。
「今のところ検討しなくても良さそうですね」
「はい」
一応、案内だけ受け取った。
◆
ギルドを出る。西へ傾いた日差しが石畳を照らしている。
エルザは帳面を開き、今日の完了控えをもう一度見る。そこには俺とエルザの名前が並び、パーティー名は空欄のままだった。
「最初の仕事、終わりましたね」
「ええ。無事に終わって何よりです」
伸びをしながら答える。右肩には少し重さが残っているが、動かすのに支障はない。
「不都合もありませんでした」
「俺もです」
ちりん。
リンが髪から浮いた。
「リンは?」
エルザが聞く。
ちりん、ちりん。
「『おなかすいた』?」
「精霊って何を食べるんですか?」
そういえば、何を食べるのか考えたこともなかった。エルザが足を止めた。
「そういえば何を食べるのでしょう……分かりません」
俺も止まる。リンだけが何事もないように漂っていた。
「先に、それを調べた方が良さそうですね」
「そうですね……戻ってミラさんに聞いてみましょうか?」
今出てきたばかりのギルドへ、二人で戻った。




