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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第一章 この世界で生きる

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第18話 待つ場所

 今日も職人区の稽古場には冷ややかな空気が満ちていた。板垣をくぐり、いつものように平らな石へ銅貨を三枚置いた。木剣を取ろうと庇の脇へ手を伸ばしたところで、低い声が飛んだ。


「待て」


 振り返ると、ドランは腰掛けに座ったまま俺の右脇腹を顎で示した。


「昨日、そこへ入れた」


「入りましたね」


「動いてみろ」


 言われた通りに上体を左右へ捻る。深く息を吸うと、脇腹の奥に鈍い張りが残っていた。顔には出さなかったつもりだったが、ドランは短く鼻を鳴らした。


「今日は休め」


「まだ振れますが……」


「振れるうちに休めば、明日も振れる」


 ドランは油布を手に取り、それきりこちらを見なかった。


「痛いところを庇って振れば、庇った形で身体が覚える。直すのに余計な日がかかる」


 返す言葉はなかった。無理を通した患者ほど治りが遅い。俺は現実で、何度も同じことを言ってきた側だった。


「……分かりました」


 石の上の銅貨をドランが指で弾いて、こちらへ寄こした。


「教えていない日の金は取らん」


「律儀なんですね」


「さっさと行け」


 銅貨を拾って板垣の外へ出る。肩にも腕にも、今日は何の重さも残っていない。それが妙に落ち着かない。いつの間にか、身体の方が朝の稽古を当たり前にし始めていた。


 宿で身支度を整え、冒険者ギルドへ向かった。


◆


 朝の混雑が落ち着き始めたギルドの広間へ入ると、受付のミラが手招きをしていた。


「ノワールさん。おはようございます。ちょうどお話ししたいことがありました」


「おはようございます、ミラさん。もしかして医務室の件でしょうか」


「ええ。オーラさんから預かっていた条件を整理しまして、ギルドからの正式な依頼票を作成いたしました」


 ミラが一枚の羊皮紙をカウンターへ滑らせた。


『冒険者医務室・混雑時待合補助』


 依頼名にはそう記されていた。目を通すと、仕事内容と禁止事項が細かく並んでいる。


 ・待合における患者の状態観察および声かけ


 ・本人の訴えや様子の変化の確認


 ・緊急性が疑われる状態の者についての医務室職員への情報伝達


 ※診断、治療、傷口への処置、薬の処方・手渡しは一切禁止とする。


 ※患者の診察順番の決定・変更権限は医務室側に帰属する。


 ※勤務は医務室が混雑した時間帯のみ。


 拘束時間と報酬額も明確に書かれている。一日拘束されるわけではなく、早朝や昼過ぎなど、怪我人が重なった時間帯に限った補助の仕事だった。


「どうでしょうか。不都合な点や、疑問に思う部分はございますか」


 ミラに尋ねられ、依頼票の注意書きを指でなぞり直してから頷いた。


「診断や治療が含まれないこと、順番の判断を俺がしなくていいこと、対応が難しい場合はすぐ職員へ渡せること。……この条件であれば、問題ありません。お受けします」


「助かります。では、本日の分として受諾手続きを行いますね。さっそく東棟の医務室が混み合い始めていますので、よろしくお願いします」


 ミラは手際よく書類に印を押し、受付の手続きを完了させた。受付を離れ、広間の奥から東棟へ続く静かな廊下へ足を進めた。


◆


 東棟の医務室はすでに混み合い、待合には湿らせた布と薬草、汗と土の匂いが重なっていた。診療室の扉が開くたび、名前を呼ばれた者が一人立ち上がり、残された者たちが小さく息を漏らした。俺は長椅子の端から順に、顔色と呼吸、座り方を確かめていった。


 その中で、長椅子の中ほどに座った二人の冒険者が目に留まった。一人は二十代前半ほどの若い男で、額に小さな擦り傷があるものの、へらへらと笑いながら連れの男と話していた。


「だから平気だって言ってるだろ。ただ倒木に頭をぶつけただけだ。血も大して出てねえ」


 だが、隣の連れの男は険しい顔で首を振っていた。


「平気なわけあるか。お前、さっきから同じ話を三回もしてるんだぞ」


 若い男は「そうだっけか?」と首を傾げ、不自然にまばたきを繰り返した。顔色は一見悪くないが、視線が定まらず、言葉の語尾がかすかに揺れている。


 二人の前へ近づき、ゆっくり腰を落とした。


「失礼します。待合の手伝いをしているノワールといいます」


「あ? なんだよ。俺はなんともねえぞ。早く中へ入れろってんなら話は別だが」


 若い男が強い口調で言った。俺は彼の顔を正面から見て、声を落とした。


「頭を打ったのはいつ頃ですか。倒木にぶつかった時、一瞬でも意識が遠のいたり、周囲の音が聞こえなくなったりしましたか」


「いつって……今朝の依頼中だよ。意識? 遠のくわけねえだろ。……ただ、なんか胃のあたりがムカムカするがな」


 若い男は言いながら、胸元に手を当てて眉をひそめた。連れの男が身を乗り出した。


「そうなんだよ。戻ってくる途中も、急に立ち止まって『今どこだ』って聞いてきたりしてな。なのに本人は『かすり傷だ』って言って聞きやがらねえ」


 頭を打った直後のことは分からない。帰る途中で同じ話を繰り返し、現在地を尋ね、今は吐き気がある。待合には、強い痛みにうめいている者や、血を流している者が他にもいた。目の前の男は会話ができており、自力で座っている。


 順番を決めるのは俺ではない。だが、聞いたことを中へ伝えるのは俺の仕事だ。


「少し待っていてください」


 立ち上がって診療室の扉を軽く叩き、隙間から顔を出した職員へ声を落として伝えた。


「待合の頭を打った方ですが、同行者の話では、移動中に同じ会話を繰り返し、今いる場所を尋ねたことがあるそうです。本人も現在、吐き気を訴えています」


 職員の表情が引き締まった。


「分かりました。その方を次に中へ入れます。知らせてくれて助かりました」


 扉が閉まった。二人のもとへ戻る。


「次に中へ通してもらえます。気分が悪くなったら、すぐ声をかけてください」


 連れの男は深く息を吐いた。若い男も何も言わず、長椅子に背を預けた。次は、向かい側の長椅子に座る小柄な職人風の男へ向かった。


 右の前腕に布をきつく巻いているが、隙間から赤く腫れた皮膚が覗いていた。男は苛立った手つきで腰の小瓶を取り出し、中の油のような薬を布の上から塗ろうとしている。俺は男の手元へ視線を送り、静かに声をかけた。


「すみません。その薬を使おうとしていることを、中へ伝えます。塗る前に待てますか」


 男は不機嫌そうに顔を上げた。


「ああん? これはいつもの火傷薬だぞ。痛くてたまらんから塗るんだよ。あんた医者か?」


「いえ。待合の手伝いです。診断も手当てもしません」


「じゃあ、俺が薬を塗ろうが勝手だろ」


「止めることはできません。ただ、薬を使おうとしていることは中へ伝えられます。少しだけ待てませんか」


 男は俺の顔と小瓶を見比べ、舌打ちして栓を閉めると腰へ戻した。


「……分かったよ。じゃあ早く順番を回してくれ」


「ありがとうございます。薬のことは、すぐに伝えます」


 男はぶつぶつと文句を言いながら、長椅子に座り直した。昼過ぎには、待合の混雑も和らいでいった。


◆


 空いた長椅子を整えていると、診療室からオーラが出てきた。顔を覆っていた布を外し、長椅子の脇へ歩み寄ってくる。


「お疲れ様でした、ノワールさん。今日の手伝い、本当に助かりました」


「いえ。決められた範囲で、気になったことを中に伝えただけです」


 オーラは手にしていた布を小さく畳んだ。


「それで十分です。頭を打たれた方も、早めに知らせていただけて助かりました。中で確認したところ、しばらく安静にして様子を見る必要がありました」


「そう言っていただけると、この役割を選んだ甲斐があります」


 苦笑交じりに返すと、オーラは小さく笑った。


「また混雑する日がありましたら、依頼を出させていただきますね。もちろん、ご自身の予定が最優先ですが」


「ええ。条件が合えば、またお受けします」


 オーラに礼を言って医務室を後にした。朝から休ませていた右脇腹には、まだ鈍い張りが残っている。それでも、東棟へ来た時より足取りは軽かった。


◆


 ギルドの広間へ戻り、ミラから報酬を受け取った。出口へ向かう途中、後ろから声をかけられた。


「ノワールさん」


 振り返ると、広間の端にある掲示板の前で、エルザがこちらを見ていた。小さな帳面を抱えている。


「お疲れ様です」


「エルザさん、お疲れ様です。今日は何か依頼を探しているのですか」


「いえ。今日はギルドの倉庫で、古い書類の分類と在庫確認の補助を行っていました。先ほど作業が終了したところです」


 エルザは帳面を閉じて鞄へ収めた。


「ノワールさんは、本日も運搬依頼ですか」


「いえ、今日は医務室の待合補助でした。待っている人たちに声をかけて、気づいたことを中へ伝える仕事です」


 エルザが首を傾げた。


「治療や手当てではないのですね」


 それは俺の役目ではない。


「ええ。気になることを拾って、中の人へつなぐだけです」


「……なるほど。範囲が決まっているのですね」


 ギルドの重い扉を押して外へ出ると、昼下がりの風が通りを吹き抜けていた。傾き始めた日差しが、石畳の荷車の轍を照らしていた。俺たちは、そのまま同じ向きへ歩き出した。


「エルザさんの今日の仕事はどうでしたか」


「書類を分けること自体は、順調でした。ただ、古い紙と新しい紙で大きさが違っていまして」


 エルザは両手で四角を作り、その片方を狭めてみせた。


「同じ束にすると端が揃いませんし、大きい方は棚にも収まりませんでした」


「それは、分け直すしかなさそうですね」


「はい。最初に大きさを確かめていれば、二度運ばずに済みました」


「二度運ぶのは大変でしたね」


 エルザは足元へ視線を落とした。


「……はい。最初に確認しておけばよかったです」


 俺は苦笑した。


「エルザさんでも失敗をするんですね」


 エルザは俺を見上げ、少し考えてから「もちろんです」と少し不服そうに答えた。言い方がまずかっただろうか。


「ノワールさんの待合補助は、いかがでしたか」


「頭を打ったのに『平気だ』と言い張る若い冒険者がいまして。連れの方から話を聞いて、気になったことを中へ伝えました」


「本人が平気だと言っていても、それだけでは分からないのですね」


「ええ。本人の言葉も大事ですが、隣にいた人の話も同じくらい大事です」


 二人の足音に荷車の軋む音が重なる。やがて職人区の路地と大通りが交わる分かれ道に着いた。


「私はこちらの路地へ向かいます」


 エルザが足を止め、こちらへ向き直った。


「ノワールさん。明日も、稽古の後にギルドへ来ますか」


「ええ。また何か仕事を探しには行くと思います」


「よかった」


 俺は意外な返答に驚いた。それに気づいたのかエルザは口を閉じ、視線を路地の方へ逸らした。


「……いえ。共同受注の候補を確保しやすい、という意味です」


「そうでしたか」


 エルザの視線が戻る。鞄の紐を握り直してから、小さく頷いた。


「では、失礼いたします」


 丁寧に頭を下げ、エルザは路地へ歩いていった。少し歩調が速い。


 ――共同受注の候補を確保しやすい、という意味です。


 さっきの言い直しを思い出すと、笑いが漏れた。



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