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ベストフレンズ  作者: 菊池まりな


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9/95

第9話 準備と、その隙間に

 九月になった。


 二学期が始まった最初の朝、悠真は登校しながら空を見上げた。


 高かった。


 夏の空とは違う高さだった。雲の形も変わっていた。丸くて重そうな入道雲ではなく、薄く引き伸ばされたような雲が、遠くの方に流れていた。


 同じ空なのに、季節によってこんなに違う。


 カメラを持ってくればよかった、と思いながら、持ってこなかったことを後悔した。毎回そうだった。



 教室に入ると、すでに文化祭の空気があった。


 黒板に「文化祭まであと28日」と誰かが書いていた。


 恒一が悠真の席に来た。


「夏休み、どうだった」


「まあまあ」


「合宿行ったんだろ、写真部の」


「行った」


「橘さんも一緒だったんだって?」と恒一は言った。何気ない口調で、でも少しだけ探るような感じがあった。


「部員だから」


「楽しかった?」


「楽しかった」


「ふうん」


 恒一は自分の席に戻りながら、「ふうん」と繰り返した。


 その「ふうん」が、紗奈のものとどこか似ていた。


 悠真は気づかないふりをした。




 朝のホームルームで、城島先生が文化祭の準備について話した。


 今月中に準備を終わらせて、本番に臨むこと。授業に支障が出ないように、放課後の時間を有効に使うこと。


 形式的な話だったが、クラスの空気は明らかに浮いていた。


 文化祭、という言葉が持つ力は、高校生にとって特別だと悠真は思う。日常の延長線上にあるのに、少しだけ非日常になれる時間。そういうものへの期待が、教室の中に充満していた。


 悠真は窓の外を見た。


 九月の空が、高かった。




 放課後、広報班のミーティングがあった。


 図書室の隅のテーブル。メンバーは悠真、玲奈、それから女子が二人。


 夏休みの間に悠真が撮った写真の素材と、玲奈がまとめたデザイン案を合わせて、ポスターの形を決めていった。


 玲奈のデザインは、夏休みの間にさらに洗練されていた。


「いつ作ったんですか、これ」と悠真が聞いた。


「夏休みの間に、少しずつ」


「帰省とかしなかったんですか」


「東京には帰りました。でも向こうでも作業してたので」


「東京でも?」


「友達に会いながら、空き時間に」


 女子の一人が「器用ですね」と言った。玲奈は「暇だったので」と短く答えた。


 ミーティングは一時間ほどで終わった。


 方向性が決まった。後は各自で作業を進めて、来週末に合わせる形になった。



 ミーティングが終わって、女子二人が先に帰った。


 悠真と玲奈が残った。


 いつものパターンになってきた。


「夏休み、どうでしたか」と玲奈が言った。


「まあまあでした。橘さんは?」


「東京に帰れたので、よかったです」


「友達に会えた?」


「会えました」と玲奈は言った。少しだけ表情が柔らかくなった。「久しぶりで、話したいことがたくさんあって」


「それはよかった」


「でも」と玲奈は続けた。「会ってみたら、少し変わってた気がして」


「友達が?」


「お互いに」と玲奈は言った。「向こうも新しい生活があって、私もここでの生活があって。同じ時間を過ごせないと、少しずつ違う人間になっていく」


「それは悲しくないですか」


「悲しくないとは言えないですけど」と玲奈は言った。「でも変わっていくこと自体は、悪いことじゃないとも思って」


「変化を怖がらない人ですね、橘さんは」


 玲奈は少し考えてから言った。


「怖くないわけじゃないですよ。ただ、変化に慣れているというか」


「転校が多いから」


「そうですね」


 悠真は机の上のデザイン案を片付けながら言った。


「それって、やっぱり寂しくないですか。変わっていくことに慣れるって」


 玲奈は少しの間、答えなかった。


 窓の外を見た。


「寂しいですよ」と玲奈は言った。静かな声で。「慣れることと、寂しくなくなることは、別のことだから」


 悠真は玲奈を見た。


 玲奈はまだ窓の外を見ていた。その横顔が、いつもより少しだけ遠い感じがした。


「ごめんなさい、変なことを言いました」と玲奈が言った。


「変じゃないですよ」と悠真は言った。「正直に言ってくれた方が、俺は好きです」


 玲奈が悠真を見た。


 一瞬だけ、何かを確かめるような目だった。


 それからすぐ、いつもの落ち着いた表情に戻った。


「朝比奈くんって」と玲奈は言った。


「うん」


「自分が正直じゃないから、人の正直さを好むんじゃないですか」


 悠真は少し黙った。


「……そうかもしれないです」


「自覚あるんですね」


「薄々は」


「柊さんに対しても?」


 また紗奈の名前が出た。


 今日は早かった、と悠真は思った。


「紗奈に対しても、正直じゃないと思ってます」と悠真は言った。「言えてないことが、いくつかある」


「言えない理由は分かってますよね」


「分かってます」


「でも言わない」


「言えない」


「言えない、と言わない、は違いますよ」と玲奈は言った。


 悠真は返せなかった。


 玲奈は立ち上がって、鞄を持った。


「言えない、は自分を守ってる言葉だと思います」と玲奈は言った。責めているのではなく、ただ言っているだけの口調で。「言わない、と認めた方が、正直かもしれない」


 悠真はその言葉を、胸の中に落とした。


 重かった。


 重いけれど、逃げられない言葉だった。




 翌日から、文化祭の準備が本格化した。


 放課後のたびに教室で作業が続いた。


 縁日の小道具を作る人、看板のデザインを考える人、調理の手順を確認する人。クラス全体が少しずつ同じ方向に動いていく感じがあった。


 紗奈は調理班の取りまとめとして、動き回っていた。


 誰かに何かを聞かれれば答えて、問題があれば考えて、足りないものがあれば補う。自然にそういう役割を担っていた。


 悠真はそれを、離れたところから見ていた。


 見ていた、というより──目が行った。


 紗奈が誰かと話している時。笑っている時。困った顔をしている時。


 そのたびに目が行く。


 (また見てる)


 自分でも分かっていた。


 でも止められなかった。




 三日目の放課後。


 作業の区切りがついて、少し休憩になった。


 悠真が廊下に出ると、窓際に玲奈がいた。


 外を見ていた。


 悠真が近づくと、玲奈は気づいた。


「お疲れ様です」


「橘さんも」


 二人で窓の外を見た。


 グラウンドで体育の授業をしていた。サッカーをしていた。遠くで声がした。


「紗奈のこと、ずっと見てましたね」と玲奈が言った。


 悠真は少し間を置いた。


「見えてましたか」


「見えました」


「……隠せてないな」


「全然」と玲奈は言った。でも嫌な感じではなかった。むしろ少し、優しいような声だった。


「橘さんから見て、どう見えますか」と悠真は聞いた。


「何が?」


「俺と紗奈が」


 玲奈はしばらく考えた。グラウンドのサッカーを見ながら。


「恋人みたいには見えないです」と玲奈は言った。「でも友達にも見えない」


「どう見える?」


「一番近くにいるのに、一番肝心なことを言えていない二人、に見えます」


 悠真は窓の外を見たまま、何も言わなかった。


「朝比奈くんが紗奈さんを見る時の目は」と玲奈は続けた。「心配してる目と、好きっていう目が、混ざってる感じがします」


「好きっていう目」


「そう見えます」


「俺自身は、まだ分からないんですけど」


「分からなくても、出るんですよ、目に」と玲奈は言った。少しだけ、何かを抑えているような間を置いて。「感情って、自分が認める前に外に出ることがあるから」


 悠真は玲奈を見た。


 玲奈はグラウンドを見ていた。


 さっきの間が、悠真には少し気になった。


「橘さん」と悠真は言った。


「はい」


「合宿の夜に言ってたこと、覚えてますか」


「何を?」


「自分の感情の理由は、そのうち言えるかもしれないって」


 玲奈は少し笑った。


「覚えてます」


「そのうち、はまだですか」


「まだです」と玲奈は言った。「でも、そのうちは来ると思います」


「待ちます」


「待たなくていいって言いましたよ」


「でも待ちます」


 玲奈は悠真を見た。


 少しの間、何かを考えるような目だった。


 それから、静かに笑った。


「困った人ですね」


「よく言われます」


「誰に」


「紗奈に」


 玲奈はまた笑った。今度は少しだけ、違う笑い方だった。


 悠真には、その違いの意味が、少しだけ分かった気がした。


 でも確かめることは、しなかった。




 教室に戻ると、紗奈が悠真を見た。


 目が合った。


「どこ行ってたの」と紗奈が言った。


「廊下で橘さんと話してた」


 紗奈の表情が、一瞬だけ動いた。


 ほんの少しだった。気づかない人は気づかない程度の変化だった。


 でも悠真には見えた。


「そっか」と紗奈は言った。


 いつもの「そっか」だった。


 でも悠真には、それがいつもと少しだけ違う温度を持っていることが、分かった。




 作業が終わって、片付けをした。


 帰り際、悠真と紗奈が並んで廊下を歩いた。


 しばらく無言だった。


「橘さんと、何を話してたの」と紗奈が言った。


「文化祭のこととか」


「他には?」


「いろいろ」


「いろいろって」


「写真の話とか」


 紗奈は少し間を置いた。


「橘さんって、悠真のことが好きなのかな」


 唐突だった。


 悠真は足を止めそうになって、止めなかった。


「なんで」


「なんとなく、そう見えるから」


「見えるって」


「見てる目が、違う気がして」と紗奈は言った。窓の外を見ながら。「うまく言えないんだけど」


 悠真は答えなかった。


 答えられなかった、というより──何と答えるべきか、分からなかった。


「どう思う?」と紗奈が聞いた。


「俺には分からない」と悠真は言った。


「本当に?」


「本当に」


 紗奈は少し黙った。


「もし橘さんが好きだって言ったら、悠真はどうするの」


 悠真は紗奈を見た。


 紗奈はまだ窓の外を見ていた。


「それは、その時に考える」と悠真は言った。


「いまは考えない?」


「考えても、答えが出ないから」


 紗奈は小さく頷いた。


 それから少しして、静かに言った。


「……私ね」


「うん」


「悠真に、誰かができたら嫌だなって、思ってる」


 悠真は何も言えなかった。


 紗奈は言ってから、少し困ったような顔をした。


「なんか変なこと言った、ごめん」


「変じゃない」


「でも」


「変じゃないよ」と悠真は繰り返した。


 紗奈は少し下を向いた。


 廊下の窓から、夕方の光が細く入っていた。


「友達として、そう思ってるんだけど」と紗奈は言った。


 また、注釈だった。


 友達として。


 その注釈を、今日で何回聞いただろう。


 悠真はその注釈の薄さを、今日初めてはっきりと感じた。


 紗奈自身にとっても、その言葉は、もうあまり機能していないのかもしれない。


 でも使い続けている。


 使い続けることで、何かを守ろうとしている。


「分かった」と悠真は言った。


「うん」


「俺も、紗奈に誰かができたら嫌だ」


 紗奈が悠真を見た。


「それも、友達として?」と紗奈は聞いた。


 少しだけ、試すような口調だった。


 悠真は一瞬だけ考えた。


「……まだ、分からない」と悠真は言った。


 紗奈は少しの間、悠真を見た。


 それから、小さく笑った。


「正直じゃないね」


「正直に答えられない」


「それも正直か」


「そう」


 紗奈はまた前を向いた。


 昇降口に向かって歩き始めた。


 悠真もその隣に並んだ。



 分かれ道で別れた。


 「また明日」と言って、「また明日」と返った。


 悠真は帰りながら、玲奈の言葉を思い出していた。


言えない、は自分を守ってる言葉だと思います。言わない、と認めた方が、正直かもしれない。


 そうかもしれない、と思った。


 言えないんじゃなくて、言わないんだ。


 言ったら変わるから、言わない。


 失いたくないから、言わない。


 それが今の自分だった。


 でも──紗奈も同じだった。


 二人とも、言わないことで今の形を守っている。


 それがいつまで続くのかは、分からなかった。


 ただ──今日、紗奈が言った言葉は、今までより少しだけ内側から来ていた気がした。


悠真に、誰かができたら嫌だなって、思ってる。


 友達として、という注釈つきで。


 でもその注釈は、もう薄くなっていた。


 二人ともそれを、知っていた。




 家に帰って、ベッドに横になった。


 しばらくして、スマホが鳴った。



玲奈 20:03

今日はお疲れ様でした

ポスターの件、来週までに仕上げます




悠真 20:05

ありがとうございます

よろしくお願いします




玲奈 20:06

あと一つだけ


悠真 20:06

何ですか


玲奈 20:07

今日、廊下で話した後

紗奈さんの顔、見ましたか



 悠真は少し考えた。



悠真 20:08

見ました


玲奈 20:08

どんな顔でしたか


悠真 20:10

……複雑な顔でした


玲奈 20:11

そうですね

私もそう見えました


玲奈 20:11

おやすみなさい


悠真 20:12

おやすみなさい


 画面が暗くなった。


 悠真は天井を見た。


 紗奈の複雑な顔が、頭の中にあった。


 玲奈の、少しだけ違った笑い方も。


 二人の顔が、交互に浮かんだ。


 文化祭まで、あと二十五日。


 何かが、少しずつ動き始めていた。




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