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ベストフレンズ  作者: 菊池まりな


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第89話 母の手紙

 七月に入り、大学は前期試験を控えた慌ただしい時期に入っていた。紗奈は図書館に通いながら、着実にノートを積み重ねていた。


 ある日、実家から小さな荷物が届いた。母からの差し入れ──お茶菓子と、常備薬、そして一冊のノートだった。


 紗奈は荷物を開けながら、同封されていた一枚の便箋に気づいた。母の字だった。




紗奈へ


荷物の整理をしていたら、去年の夏に買ったまま渡しそびれていたノートが出てきました。渡すタイミングがなくて、ずっと持っていました。


あの夏、救急車の中で、あなたの手を握りながら、私はずっと考えていました。


「もっと早く、気づいてあげられなかったのか」って。


でも今は、少し違うことを思っています。


気づけなかったことより、こうしてまた一緒に晩ご飯を食べられる日が来たこと。それだけで、私は十分だと思っています。


紗奈は、生きていてくれるだけで、お母さんの誇りです。


大学も、恋も、将来のことも、全部ゆっくりでいい。


ただ、これからも、つらい時は「つらい」と言ってください。それだけが、お母さんのお願いです。


母より



 紗奈は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。


 文字が滲んでいく。気づけば、頬を涙が伝っていた。声を殺すこともできず、紗奈はそのまま畳に座り込んで泣いた。


(誇りだなんて。何もできなかったのに)


(迷惑ばっかりかけたのに)


 そう思う自分と、母の言葉をそのまま受け止めたい自分が、胸の中でせめぎ合っていた。


 だが涙が止まらないまま、紗奈は気づいていた。これは悲しみの涙ではなく、もっと別の何かだということに。


 長い間、誰かに「生きているだけでいい」と言われることを、紗奈は自分に許してこなかった。役に立たなければ、誰かの期待に応えなければ、価値がないと、どこかでずっと思い込んでいた。


 その思い込みが、母のたった数行の手紙で、少しずつ崩れていくのを感じた。



 紗奈は震える手でスマホを取り、母に電話をかけた。


「……もしもし」


「お母さん、手紙……」


 それ以上、言葉が続かなかった。電話の向こうで、母がしばらく黙っていた。


「読んでくれたんだね」


「うん」


「ちゃんと言葉にできてたか、自信なかったんだけど」


「できてた。……できてたよ」


 紗奈は嗚咽を堪えながら、なんとか言葉を絞り出した。


「ありがとう、お母さん」


「こちらこそ。……ありがとう、紗奈。生きててくれて」


 その一言で、紗奈の涙腺は完全に決壊した。電話越しに、母も静かに泣いているのが分かった。


 言葉にならないまま、二人はしばらく、ただ電話を繋いだまま、互いの息遣いだけを感じていた。



 その夜、紗奈は悠真にも手紙のことを話した。


〈お母さんから、手紙もらった〉

〈読んだら、めちゃくちゃ泣いた〉


〈どんな手紙だった?〉


 紗奈は少し迷ってから、手紙の一部を打ち込んだ。


〈「生きていてくれるだけで、誇り」って書いてあった〉


 しばらく返信が来なかった。紗奈が少し心配になった頃、悠真からメッセージが届いた。


〈俺も、今、ちょっと泣いてる〉

〈紗奈のお母さん、すごいな〉

〈俺も同じこと、いつでも紗奈に言うから。忘れないで〉


 紗奈は画面を見つめながら、また涙がこぼれるのを感じた。今度は、悲しみでも喜びでもない、もっと温かい何かだった。




 その晩、紗奈は久しぶりにノートの一番新しいページに、長く文字を書いた。


今日、初めて「生きているだけでいい」を、本当に信じられた気がする。


役に立たなくても、期待に応えられなくても。

 

ただ生きていることに、意味があると言ってくれる人がいる。


母がいて、悠真がいて、佐伯がいて、恒一がいて、玲奈がいる。


去年の私は、自分が誰かの重荷になっていると思っていた。

 

でも本当は、生きているだけで、誰かを支えていたのかもしれない。


そのことに、今日、やっと気づけた。


 窓の外、七月の夜風が、そっとカーテンを揺らしていた。紗奈は手紙をノートの間に挟み、大切にしまった。


 明日からも、まだ途中の日々が続く。でも今夜だけは、その途中にいることが、少しも怖くなかった。


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