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ベストフレンズ  作者: 菊池まりな


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第5話 名前のない感情

 七月の半ば。


 梅雨が明けた。


 朝から空が高くて、光が鋭くて、影がくっきりしていた。夏が来た、という感じがした。悠真は登校しながら、空を一度見上げた。こういう光の日は写真が撮りたくなる。コントラストが強くて、何を撮っても絵になる気がするから。


 気がするだけで、実際はそうでもないのだけれど。




 朝のホームルームの前、玲奈が悠真の席に来た。


「写真部、正式に入ろうと思います」


「決めたんですね」


「はい。西川さんにも話しました」


「いつ話したんですか」


「昨日の放課後に」と玲奈は言った。「朝比奈くんに言う前に、先に部長に確認しようと思って」


「順番が逆な気もするけど」


「そうですか? 筋は通ってると思いますけど」


 悠真は少し笑った。


「まあ、そうですね」


「よろしくお願いします」


 玲奈はそれだけ言って、自分の席に戻った。


 短い会話だった。


 でも悠真は、なんとなく嬉しかった。写真の話ができる人間が増えることへの、素直な嬉しさだった。


 ──そのはずだった。



 その日の昼休み。


 踊り場に来ると、紗奈がすでに弁当を開けていた。


 悠真が座ると、紗奈は顔を上げた。


「橘さん、写真部に入るんだって」


「さっき言ってた」


「クラスで話してたよ」


「そうか」


 紗奈は箸でつまんだブロッコリーを見ながら言った。


「悠真が誘ったの?」


「見学の案内はしたけど、決めたのは本人だよ」


「そっか」


 紗奈はブロッコリーを食べた。


 それ以上は何も言わなかった。


 悠真は自分の弁当を開けながら、紗奈の横顔を見た。


 いつも通りの顔だった。


 いつも通り、だった。


 でも──最近、「いつも通り」という言葉を自分に言い聞かせる回数が、少し増えている気がした。


「なんか、気になる?」と悠真は聞いた。


「何が」


「橘さんが写真部に入ること」


 紗奈は少し間を置いた。


「別に」


「本当に?」


「何が言いたいの」


「いや、なんとなく」


 紗奈は悠真を見た。


「私が気にする理由、ある?」


 悠真は答えなかった。


 ない、と言えばよかった。でも言えなかった。


「ない、よな」と自分で言った。


「うん」と紗奈は言った。


 それで終わりだった。


 また他愛ない話が始まった。今日の授業のこと、小テストの結果、来週の予定。


 悠真はその会話をしながら、さっきの「うん」が頭の中に残っていた。


 肯定の「うん」だった。


 それなのになぜか、どこかに小さな棘が刺さったような感覚があった。



 放課後、写真部の部室に行くと、玲奈がすでに来ていた。


 西川さんに入部届を渡しているところだった。


「改めてよろしく」と西川さんが言った。「自由にやっていい部だから、気楽にね」


「ありがとうございます」と玲奈は答えた。


 悠真が入ると、玲奈が振り返った。


「来ましたね」


「来ました」


 悠真はロッカーからカメラを出した。今日は外に撮りに行こうと思っていた。夏の光を使いたかった。


「一緒に行きますか」と玲奈が言った。


「外、撮りに行くつもりなんですけど」


「私も行っていいですか。カメラ持ってきました」


 玲奈が鞄から取り出したのは、小さなフィルムカメラだった。古いモデルだったが、手入れされていてきれいだった。


「フィルムなんですね」と悠真が言った。


「昔から使ってて。デジタルより好きで」


「なんで」


「失敗できないから」と玲奈は言った。「一枚一枚、ちゃんと考えて撮らないといけないので」


「デジタルの方が気楽じゃないですか」


「気楽すぎると、考えなくなる気がして」


 悠真はその言い方を、少し面白いと思った。


 自分とは逆の考え方だった。悠真はたくさん撮って、後で選ぶタイプだった。でも玲奈の言う「失敗できないから考える」という感覚は、分かる気もした。



 校舎の裏手から、川沿いの道に出た。


 夏の午後の光は強くて、木の影が地面に濃く落ちていた。川の水面が光を弾いてきらきらしていた。


 悠真は歩きながら撮った。植え込みの影、自動販売機の横に置かれた空き缶、誰かが書いた落書き。


 玲奈は立ち止まって撮った。一か所でじっくり構えて、一枚だけ切った。また少し歩いて、立ち止まる。


 二人のリズムは違ったが、不思議と邪魔し合わなかった。


 しばらくして、ベンチで休んだ。


 川が見える場所だった。


「何枚撮りましたか」と悠真が聞いた。


「六枚」


「少ない」


「多いですか?」


「俺はもう四十枚くらい撮ってます」


「すごいですね」


「ほとんど没にするやつですけど」


 玲奈はフィルムカメラを膝の上に置いて、川を見た。


「六枚のうち、何枚残るか分からないですけど」と玲奈は言った。「でも全部、ちゃんと撮ったので」


「全部残ればいいですね」


「そうなるといいですけど」


 少し沈黙があった。


 川の音がした。遠くで子供の声がした。夏の午後の音だった。


「一つ聞いていいですか」と玲奈が言った。


「どうぞ」


「柊さんとは、毎日一緒にいるんですか」


 悠真は少し考えた。


「毎日というか……自然にそうなることが多いですね」


「付き合ってるわけじゃないのに?」


「ないです」


「不思議ですね」と玲奈は言った。批判ではなく、純粋に不思議がっている口調だった。「そんなに近くにいるのに、どっちも踏み込まないって」


「踏み込む必要がないというか」


「それとも、踏み込めない?」


 悠真は答えなかった。


 玲奈は川を見たまま続けた。


「外から見てると、二人の間に見えない線がある感じがします。お互いがその線を、ちゃんと知ってて、超えないようにしてる」


「……そう見えますか」


「そう見えます」


「超えない方がいいと思ってるから、かもしれないです」


「なんで」


「超えたら、何かが変わるから」


「変わることが怖い?」


 悠真はしばらく黙った。


 川の水面を見た。光が揺れていた。


「怖い、というより」と悠真は言った。「変わった後のことが、想像できないんです。今の形が壊れたら、どうなるのか」


「壊れるとは限らないですよね」と玲奈は言った。


「そうかもしれない。でも壊れるかもしれない」


「それって」と玲奈は少し間を置いた。「変わることへの怖さじゃなくて、失うことへの怖さですよね」


 悠真は返事ができなかった。


 正確だった。怖いのはそっちだった。変化じゃなくて、喪失。


 「そうかもしれないです」とだけ、悠真は言った。



 部室に戻った頃には、夕方になっていた。


 西川さんはもういなかった。二人で後片付けをして、部室を出た。


 廊下を歩きながら、玲奈が言った。


「朝比奈くんって、紗奈さんのことが好きなんだと思います」


 悠真は足を止めなかった。止めたら負けな気がした。


「そういう話になりますか」


「なりますよね、あれだけ話したら」


「……好き、という感情が、どういう種類のものか分からなくて」


「友情と恋愛の区別が、ということですか」


「そうです」


「長すぎると分からなくなるんですかね」と玲奈は言った。独り言のような口調で。「最初からそこにいると、それが当たり前になって、感情に名前をつける必要がなくなる」


「そういうことかもしれないです」


「でも」と玲奈は言った。「名前をつけなくても、感情はそこにあるから」


 悠真は何も言わなかった。


 玲奈もそれ以上は言わなかった。


 昇降口まで並んで歩いた。




 校門を出たところで、紗奈がいた。


 今日は待っていなかった。偶然、帰るタイミングが重なっただけだった。


 紗奈は悠真と玲奈が並んで出てきたのを見て、一瞬だけ何かを飲み込んだような顔をした。


 本当に一瞬だった。


 すぐに普通の顔に戻って、「お疲れ」と言った。


「橘さんも入部したんだって?」と紗奈が玲奈に言った。


「はい。今日から」


「よかったね」


「ありがとうございます」


 三人で少し歩いた。玲奈が「こっちなので」と別れていった。


 悠真と紗奈が二人になった。


 しばらく無言だった。


 珍しかった。二人の間に沈黙が不自然に感じられることは、あまりなかった。でも今日の沈黙は、少しだけ質が違う気がした。


「楽しそうだった」と紗奈が言った。


「何が?」


「写真部」


「ああ」と悠真は言った。「まあ、好きなことしてるから」


「橘さんとも話が合うみたいだし」


「写真の話は合いますね」


「そっか」


 また沈黙。


 信号待ちで並んで立っている間、悠真は紗奈の横顔を盗み見た。


 前を向いていた。いつも通りの横顔だった。


 でも──どこかに、ほんの少しだけ、いつもと違う何かがあった。


 なんと呼べばいいのか、分からなかった。


 紗奈自身も、たぶん分かっていない。


 信号が青になった。


「今日、電話する?」と悠真が聞いた。


「する」と紗奈は即答した。


 その即答が、悠真には少しだけ安心した。


 何に安心したのかは、考えないことにした。



 その夜。


 電話をつないだまま、それぞれの部屋で過ごした。


 紗奈はしばらく黙って教科書を読んでいた。


 悠真は今日撮った写真を見返していた。四十三枚。その中から、いいと思うものを選んでいく。


 十分くらい経って、紗奈が言った。


「ねえ」


「うん」


「橘さんって、どんな子だと思う?」


 悠真は手を止めた。


「どんな、というのは」


「性格とか。話してて、どんな感じの子か」


「落ち着いてて、よく見てる子、かな。人のことをちゃんと観察してる感じがある」


「観察」


「悪い意味じゃなくて。空気を読むのが上手い、というか。場の状況を把握するのが自然とできる感じ」


「ふうん」


 また、「ふうん」だった。


 でも今夜の「ふうん」は昼間のものと少し違った。


 考えているような、「ふうん」だった。


「気になる?」と悠真が聞いた。


「別に」と紗奈は言った。「ただ、クラスに新しい子が来たから、どんな子か知りたかっただけ」


「そっか」


「うん」


 また沈黙。


 電話の向こうで、紗奈がページをめくる音がした。


 悠真は写真の選別を再開した。


 でも頭の中は半分、別のことを考えていた。


 今日、玲奈に言われたことを。


名前をつけなくても、感情はそこにある。


 紗奈は、今夜、何かを感じている。


 それは悠真には分かった。


 十年以上、隣にいた。だから分かる。


 ただ──それが何かは、紗奈自身が一番分かっていないのだろうと思った。


 名前をつけることを、恐れているから。


 それは──悠真も、同じだった。




 電話は日付が変わる少し前に切れた。


 「おやすみ」と言って、「おやすみ」と返した。


 それだけで、今夜は終わった。


 悠真はスマホを置いて、天井を見た。


 玲奈の言葉と、紗奈の「ふうん」が、頭の中に並んでいた。


 どちらも、答えを求めていない言葉だった。


 でも確実に、何かを動かしていた。


 夏が来た。


 悠真は目を閉じた。


 答えのないまま、今夜も眠ることにした。




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