勿忘草③
私には、思い出したくもない過去がある。
あれは小学5年生の時、私には6歳年下、つまり5歳の弟がいた。
年月を重ねてやっと世界に慣れ始め、自分で考える事や友達と仲良くすることを覚え始める時期。
そこまで離れれば弟というのは可愛いもので、私はこの子、黛竜胆を猫可愛がりしていた。名前の由来は植物学者である両親が名付けているため、私も弟も花由来である。
さて、そんな竜胆は、竜ちゃんは可愛がる私を、姉だと慕ってくれていた。
「おねーたん!おねーたん!」
そう言いながら、足と腕を同じ方向に放り出しながら、一生懸命わたしの後ろをついてきていた。私の歩幅に合うことはないため、よく竜ちゃんを抱き上げて、近くの公園に行くことが多かった。
「おねーたん!おねーたん!でけた!」
公園に来るたびに、竜ちゃんは決まって私にシロツメクサの花冠を作ってくれた。
私が最初に作った時によほど感動したのか、それからずっと私にくれるのだ。
「へへっ!おねーたんは綺麗だから、花が似合うね」
そうやって顔をくしゃくしゃにしながら満足げに笑う竜ちゃんを見るために、私は毎回冠を授けてもらう。
「おねーたん」
手を繋ぎ、いつもかけてもらう声。
笑いかけながら、言ってもらう名称。
私を姉であることを自覚させる言葉。
それを聞くことができたのは、小学5年生の冬までだった。
とてもとても寒い朝だったことを覚えている。
「おねーたん!今日はどこに行くのん?」
「今日はね、おつかいに行くんだよ」
父と母の結婚記念日が近いこともあり、私が小学生から続けている薔薇を花屋さんへと買いに向かっていた。
10度を下回っていることもあり、私と弟は防寒着の身を包み、手袋越しに手を繋いで本来徒歩20分もの距離を、2倍の時間をかけながら歩いていた。
「おねーたん、寒いね」
「そうだね。あっ、竜ちゃん、下気をつけてね」
前日、雪が降っていた。
路面は残っている雪が中途半端に溶けているため、凍結が起きてしまっていた。それは歩道にも言えることであり、少しでも気を抜けば私でも滑ってしまうほどだった。
「あっ!」
「危ない!」
滑る勢いそのままこけるはずだった竜ちゃんを、私は繋いでいた手を引っ張り上げて、勢いを削ぐ。それでも勢いは完全に削ぐことはできなかったため、その場で尻餅をついてしまう。
「うぅ…………」
痛みを感じて、涙を溜める。
「竜ちゃん!痛かったろう!」
「う………、ううん。痛いけど、我慢する」
「そうか、偉いね」
「うん!」
涙を振り払い、再びポテポテと歩き始める。
痛みに顔を歪ませながら暫く歩くと、目の前には花屋さんが見えてくる。竜ちゃんはそれを確認するように頷いた後、ぐるりと私の方に振り返った。
「おねーたん、僕一人で花屋さんに買いに行きたい」
「え?」
「僕も小学生になるんだよ。おつかいぐらい、一人だってできるんだよ」
ふんすと鼻息荒くしながら、意気揚々に語る弟を見て、私は姉らしく答える。
「そう。なら、お姉ちゃんはお店の外で待とうかな」
「うん!そうして!」
私は弟がわかるように、ポケットからメモ帳とボールペンを取り出して、買うべき花の色と種類を書き出して渡す。
「はい、これ無くさないようにね」
「目の前にお店あるんだから、無くしてりしないよう」
「そっか、そうだよね。なら、いってらっしゃい」
「うん!いってきます!」
小さい手足を一生懸命振りながら、お店の方へと竜ちゃんは向かっていく。
「ふふふ、甘いね」
わたしはそう呟きながら、物陰に隠れつつもお店へと近づいていく。
そう、お店の外で待っていると言ったんだ。
なら、お店の目の前で待っていたとしてもおかしな話ではない。
隠れんぼしながら近づいていると、竜ちゃんはお店の中へと入っていき、店員さんが視線を合わせようとしゃがむ。
「えーっと、えーっと」
何かもそもそと探す竜ちゃんを前に手持ち無沙汰になってしまったのか、店員さんが周囲をキョロキョロと見ていた。
やがて隠れていた私と目が合い、咄嗟にズボンのポケットを叩く仕草をした。
店員さんが伝えてくれたのか、竜ちゃんはポケットをまさぐり、先ほどのメモを取り出す。
「えーっと、えーっと、黄色の薔薇をくだしゃい!」
竜ちゃんが元気よく注文できた。
「うんうん、よくやった!」
急いで抱きしめて撫でてあげたい。
けど、それをすると見張ってきたことがバレてしまうため、再びどこかへ隠れようと周囲を見渡す。
すると、自販機が目に入ったため、私はお使いのご褒美と自分の喉を潤すために歩き始める。
250歩ほど歩き、店から200メートル遠ざかり、自販機の前へと辿り着く。
ポケットから財布を取り出して、100円を入れようとしたまさにその時、それは起こった。
「キャアアアア!」
どこからともなく、女性の絶叫が聞こえた。
私はすぐさまペットボトルを下から取り出し、目線を上げると、スリップで制御を失ったトラックが近づいていた。
「う、うわぁぁぁぁぁ!」
私はそんなトラックを前にして絶叫するしかなかったが、運転手であろうと人が焦りながらも避けるために勢いよくハンドルを左に切るところが見えた。そのおかげか、サイドミラーで私の頬にかすり傷をつけながら、トラックは私の左方向に軌道を逸らす。
「よか…………」
安堵共に、私は嫌な胸騒ぎを覚えた。
その時だった。
ドォォォン!!!!
後ろから、爆音が鳴り響いた。
吹き抜ける爆風で私は吹き飛ばされ、地面をゴロゴロと転がる。
「痛ぅ………ッ!?」
痛みに悶えながら目を開く。
その視線の先には、大破したトラックと、爆発によって焼き焦げた花屋だった。
「…………あ、あぁ」
弟が助かっていないことは明瞭だった。
トラックによって店の中央が蹂躙されており、それ以外のスペースは爆破によって灼き払われていたからだ。
「あぁ、そんな。そんな、あぁ」
行かなきゃ。
助けに。行かなきゃ。
フラフラと立ち上がる私を前に、ひらひらと焼き焦げた花びらが宙を舞う。
それら全て、黄色の薔薇だった。
「アアアッ!竜ちゃああああん!」
私は絶叫を上げながら、花屋へと行こうとした。だが、爆発を見た周辺住民がやけを起こしていると思い、私を止めた。
そこから、数日が経った。
葬式を終え、先祖代々の墓に納骨式で竜ちゃんの遺骨を入れた。
「……………………」
仕方がなかった。
事件を調べた警察官の人はそう言っていた。
運転手の方はトラックがスリップによって制御が効かないことを悟った瞬間、ブレーキをこれ以上なく効かせていたようだ。歩道に突っ込んだのも、車への衝突による玉突きを防ぐ意味合いもあったのだろうと言っていた。
そして、私を轢かないようにギリギリにハンドルを切った結果、あの惨状が生まれてしまったと。
そう、しょうがない。
状況が出来上がってしまっている以上、起こりうる惨劇だったと言うわけだ。
でも、私は子供ながらに思った。
私が大人しく轢かれていれば、お店が無くなることも、弟が死ぬこともなかった。
「おねーたん」
弟の墓で、私はそんな幻聴を聞く。
「おねーたん」
「………」
「おねーたん」
「…………」
「おねーたん」
「うわああああッ!」
私は泣きながら走るしかなかった。
走って、泣いて、泣いて、走って。
喚くしかなかった。
泣いて、喚いて、叫んで。
そして、私は不登校になった。
そこから半年が経った。
「しーちゃん、今日のご飯。部屋の前に置いとくから」
母の声を、今日もベッドの上で聞き流してた。
布団を被り、ただ罪悪感に苛んでいる日々を過ごし、朝が来ることを呪う。
「………どーして」
そんな言葉が口からまろび出るが、過去に戻れぬ以上は、何を言っても無駄。
そんなものはわかっている。
わかっているはずだ。
しかし、行動が伴っていないため、真の意味でそれを理解していないのだろう。
恒例の自己批判に折り合いをつけながら、部屋の外に置かれた食事に手をつける。
白ごはんに箸を入れ、味噌汁を啜り、おかずを口の中に運ぶ。
三角食べをしろと両親から常々注意されているためか、自己放棄した今でも、それは習慣として残っていた。
味のしない食事を終え、私は立ち上がり、のそのそと歩き始める。自室の扉を開けた後、隣の部屋の扉を開ける。
そこは、弟の部屋だ。
机の上には花瓶があり、そこには竜胆が差してあった。
「…………母さんか」
近くのランドセルへと手を置き、それを背負っていた弟を追憶する。
「…………うん」
毎日やっているおかげか、その記憶の一切が色褪せることなく、鮮明に思い出すことができる。
弟の身長、体温、匂い、言葉遣い。
その全てが。
私は胸を撫で下ろしながら、机の前にある椅子へと、静かに腰を下ろす。
窓から入ってくる風を感じながらも、ぼーっと外を眺める。
「いい天気ね」
こんなよく晴れた日には、竜ちゃんと公園に行っていた。一緒に駆け回って、一緒に笑い合って、そしてーーー。
「あ………れ…………」
何かをやっていたはずなのに、毎回やっていた大事なことのはずなのに、それを思い出せない。
思い出そうとするたび、そこだけ白く濁る。
「なん………で…………」
人間は忘れる生き物である。
心理学者エビングハウスが示したとおり、人は忘れるようにできている。
私から弟の記憶が薄らいでいくのも、私が生物として、人間として、生きていかねばならないために、脳が痛みから遠ざけようとしたのだ。
だが、当時の私に、子供だった私に、そんな論理的な話など通じるわけもない。
「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
私は頭を抱え、動揺のまま叫び散らし、家を飛び出た。両親が待ちなさいと叫ぶような制止をしたが、私はそれに振り返ることもせずに、裸足のままに弟の墓まで走った。
整備されているとは言え、石が散乱していないわけもなく、私はそれらを裸足で思いっきり踏んづける。たまらず皮膚は破け、血が飛び散るが、それに構わず走る。周囲に飛び散らせながらも血の足跡は墓園へと続き、息を切らしながら弟の墓の前へとつき、私は膝から崩れ落ちる。
「お願い、お願いだから。神様仏様、こうなったら悪魔でもいい、なんでもいい。誰でもいいから、私のなんでも持っていっていいから。だから、せめて、弟との記憶だけは、それだけは」
私は嗚咽混じりに言葉を続ける。
「忘れさせないで欲しい」
顔をぐちゃぐちゃにしながら泣く私をよそに、曇天だった空はポツポツと雨を降らせ、それはやがて豪雨となる。雷も遠くで鳴り始め、その苛烈さを物語る。
「お願い、お願いよ、お願いなのよ」
馬鹿みたいに土下座して、何かに縋りつづける私。
傍目から見れば滑稽以外の何ものでもないが、そんな私に救いの手が、いや悪魔の手が差し伸べられる。
「それ、私であれば叶えてあげられる」
それは、男とも女とも言えぬ声だった。
「だ、誰」
「誰?君は私の正体が気になるのかい?さっきまで、救ってくれればなんでもいいって言ってたのに」
「…………ッ。何をすればいいの」
「契約だよ。契約」
墓石の影から、細い根が這い出した。
それは私の膝元まで伸びると、枝先に小さな黒い粒を乗せて差し出した。
「これだよ。これを飲むんだ」
「これは?」
「私の種子だよ。君が飲むことによって寄生することができるからね」
「寄生して、どうするのよ」
「成長するのさ。成長して、強くなりたいのさ」
「成長してどうーーー」
「あのさぁ、君は過去に縋っているくせに、そんなに未来が大事なのかい?質問ばかりしているけど、それは契約してみればわかることだよ」
私の視界の端を、根が黒い種子を弄ぶ。
「いるのかい、いらないのかい。どっちなんだい?」
喉が詰まった。
けれど、私は口を開いた。
「いる」
私がそう答えた瞬間、根が笑った気がした。
「契約成立だ」
根は黒い種子を私の掌に静かにおいて、こう続ける。
「君が自分の意思で、その種を飲むんだ。さぁ、速く」
「うん」
私は短い決意を終え。
種子を飲み込んだ。




