追憶、弟との日常
悲劇のヒロインを気取るわけじゃないけど、私の過去はそれなりに悲惨だと思う。
少なからず、弟を亡くしている時点で、一定の悲惨さは担保されていると言っていい。
いや、弟が死んだことを絶対評価の指標として示したいわけではないが、こうやってネタバレをしていた方が後で語る悲劇の精神的負荷は軽減できるだろうと推測できるからだ。
さて、語ってあげよう。
私の過去を、ありふれた悲劇を。
事は私が小学生四年生、弟が年長の時まで遡る。
その時、私はこの世に生まれて10年という長い目で見ればとてつもなく短い人生を過ごしているわけだが、弟はもっとだ。
純粋無垢な赤子というわけではないが、世の穢れを知る感性は未だ備わっていないため、純粋無垢ではあった。
そんな弟は、『おねーたん』と舌たらずな口調で、私のことを姉だと認識した上で、そう慕ってくれていた。
5歳も離れていれば姉弟特有の鬱陶しさなど皆目なく、私ら家族は弟を全力で甘やかしていた。
弟の名前は黛竜胆。
私の名前が紫苑で、弟が竜胆。
どちらも花が元であり、植物由来なのは、それを専門とする学者が両親であることが起因する。
さて、自己紹介は終わり、状況説明を始めるとしよう。
あの時は、とても寒い、冬の日だと今でも強く覚えている。
「今日はなんの日かわかるかな?」
「はい!おねーたん!」
「はい!竜ちゃん」
「ママとパパの、けーこんきーびでしゅ!」
「そうだね!正解!」
発音が怪しいのはもちろんのとこだけど、結婚記念日だと言ったのは間違いない。
それが違くても、竜ちゃんがいうことに間違いなんてない。
「今日はいつも通り公園に行ってから、お花屋さんに行って、ママとパパに花を買ってあげようね」
「あい!」
公園行くというのは私たち姉弟の土日の恒例行事である。と言っても、互いに何も予定がなければというのがもちろん大前提だけど、ブラコンである私が1日も欠かすはずがない。
「おねーたん!雪!積もってる!」
「本当だね、昨日の夜降ってたんだね」
公園につけば、雪が地面を埋め尽くしていた。踏めば足が埋まるほどではなかったが、それでもわずかに沈むほどには積もっていた。
「おねーたん!」
その声と共に、パシャリと顔に雪が張り付けられる。どうやら、竜ちゃんが雪を投げてきたようだ。
ならば、姉である私もそれに応えなければ。
「やったな!」
女とはいえ、流石に10歳の筋力は馬鹿にはならず、雪を固めてそのまま弟に投げつけるわけにもいかない。と言うか、そんなことしない。
やるとすれば、地面の雪を掬い上げ、そのまま竜ちゃんの方に走るーー。
「待て!待て待て!」
「きゃー!おねーたんはやーい」
数分もすれば私が追いつき、竜ちゃんの頬にペトリと雪をつけて、かけっこは終了となる。
「はぁはぁ、おねーたんにかてない」
「あはは、まだまだ竜ちゃんには負けないよ」
このまま成長をすれば、5歳離れたとしてもフィジカル的には負けるだろう。性差というのは絶対的ではないが、幾らかの指標にはなる。
私が竜ちゃんに全てにおいて優位に立てるのは、あと数年の期間だけ。
だから、それまでは精一杯姉ぶるのだ。
「おねーたん」
「なぁに?」
「まいにち、たのしいね」
「うん、そうだね」
「おねーたんがいるからだね」
「私は、竜ちゃんのおかげで幸せだよ」
「ほんと?おねーたん大好き」
「ふふ、私も」
公園のベンチに座り、かけっこの疲れを癒しながら空を仰ぎ見る。現在は雲ひとつない快晴。午後からは天気が崩れるかもとニュースキャスターは言っていたが、降水確率10%という確率だったため、そんな事はないだろう。
「さて、竜ちゃん。そろそろ花屋に行く?」
「行く!」
そうして、私と竜ちゃんは手を繋いで、公園を後にする。公園と道路の境目には階段があり、竜ちゃんは
未だ足が短いため、「よいしょ、よいしょ……」と小さく言いながら、階段を下る。
はい、うちの弟可愛い。
勿論私がそれに対して何もしないわけにいかず、いつも通り握っている手に竜ちゃんが痛くないように力を込めて、負担が減るように上方向に力を加えている。そして、私が手伝っていることがわかっているの
か、階段を降り切った後に、決まって私の方向を見て。
「おねーたん、ありがとう!」
この笑顔である。
はい、可愛い。うちの弟世界一。
そうやって弟を全力で享受しながら、花屋への道を歩き始める。
ポテポテと懸命に足と手を投げ出しながら、姉の私にペースを合わせようと歩く。
いや違う、私が幼稚園児の弟と歩くために情け容赦なくいつものペースで歩いているわけではなく、それを理解している竜ちゃんがそのペースに達しようと懸命に歩いてくるているのだ。私はそれに気づいた時、感涙してその場に崩れてしまいそうになったが、弟がいる反面そんな事はできない。自慢の姉として紹介されるために、外ではちゃんと振る舞わねばならない。
だから、感動してもそれを家以外で出してはいけないのだ。
「おねーたん、お顔どうしたの?」
「いや、大丈夫、何でもないよ」
そんなこんなで、私達は二十分ほど歩き続け、ようやく花屋がその視界へと入る。
「はぁはぁ」
竜ちゃんはハイペースで歩いたせいで少し息切れを起こしている。近くのベンチに座らせて、私が花屋に行こうかな。
竜ちゃんをおんぶできればよかったんだけど、大きくなり始めた竜ちゃんを背負うには、今一つ筋力がない……。姉として、鍛えるべきかな。
そんなことを考えながら、私は竜ちゃんと視線を合わせるために少し屈んで口を開こうとする。
「竜ちゃんーー」
「はぁはぁ、おねーたん。おねがい、あるんだ」
そう言って、竜ちゃんは私の言葉を遮った。
それすら珍しい事だが、お願い事なんてもっと珍しい。
「どうしたの?」
私はわずかに緊張しながらも竜ちゃんに聞くと、息を整えながら口を開く。
「お花、ぼくが買いに行ってもいい?」
「でも、疲れてるでしょ?」
「ううん、大丈夫。このぐらい、なんてことないよ」
どこかで覚えてきたのだろうか、竜ちゃんは胸を張りながらそう言った。
「………わかった、でもお姉ちゃんここにいるから、何かあったらすぐ戻ってくるんだよ」
それを言うのはとても息苦しかった。
でも、成長を妨げるのは、もっとダメだ。
私は弟の成長を、姉として応援しなきゃ。
「これ、メモだから。しっかり、これの通り買ってきてね」
「うん!ありがとう!おねーたん!」
花屋までは一本道。迷うことも、間違うこともないだろう。
それでいい、これでいい。
だから、成長するために懸命に歩いていく弟の背に、涙を流すのは許してほしい。
「うぅ……」
だが、ここで私がするのは涙を流すことではなく、一緒に歩いていくことだった。それがたとえ、今後の成長を阻害しても、何としてもそうすべきだったのだ。
そんな事は、弟が死ぬことを前にすれば、些事なのだから。
やがて、竜ちゃんは花屋さんへと入り、店員さんにポケットに突っ込んだせいでくしゃくしゃになってしまったメモ用紙を見る。
店員さんは疑問符を浮かべながらも、そのメモ用紙を見て買い物であると納得する。
店員さんも小さい子供の扱いに慣れているのか、膝を抱えながら竜ちゃんの話を聞いてくれている。とても、平和的な光景だ。
だが、それを切り裂くように、事は起きる。
「キャアアアッ!危ない!」
そんな声をふと、近くで耳にした。
左を見ると、女性は顔いっぱいに絶望を張り付けながら、私の方を指さしていたのだ。
いや、厳密に言うと、私の前方を指していた。
それを察した私が前方を見ると、路面凍結によるスリップで暴走したトラックが迫っていたのだ。
「あーーーー」
終わった。そんな思考も間に合わず私の肉体は圧倒的な質量の前に蹂躙されるだろう。
弟や両親への先立つ不幸の謝罪を述べねばならないーーーー所だったが、それは裏切られる。
それはなぜか、運転手が私に気づいて左へと勢いよくハンドルを切ったからだ。
「ふぅ、危なーーーー」
ゾクリ。安心したのも束の間、私は何やら得体の知れない恐怖感に心臓を撫でられたような気がした。
その瞬間、だった。
ドォン!
轟音と共に爆発が起きた。
私の体重は軽かったため、爆風に巻き上げられ、無抵抗に地面に叩きつけられた。
「・・・・つぅ」
頭を切ったのだろうか、視界にどろりと血が混じり、視野を狭めようとしてくる。
それをぬぐって現状確認に努めようと改めて視界を開くーーーー。
「え・・・・・・・・」
そこには信じ難い光景が広がっていた。
花屋にトラックが突っ込んでおり、炎上していたのだ。
炎の勢いは強く、花屋とトラックは接触部分がすでに黒ずみになっていた。
弟が、竜ちゃんが死んでいることなんて、その惨状を見ればわかった。理解できた。
「あ、そんな、嘘、嘘だよ、こんなの、だって、そんなどうして」
そんな動揺とは裏腹に、火は次々と燃やす。
無事だった花を、黒ずんだ何かを。
「竜ちゃん……、竜ちゃん!」
その時の私は、右肩を脱臼していて、左足の関節にヒビも入っていた。だが、アドレナリンが出ているのだろうか、私は全身を引きずりながらも立って現場へと歩こうとする。
「竜ちゃん!竜ちゃん!」
端的に言えば、私が現場に辿り着くことはなかった。それはなぜか、近隣住民の人が騒ぎを知って集まり、火へと飛び込もうとする小学生女児を止めたからだ。
「離して!離してよ!あそこには!竜ちゃんが!竜ちゃん!竜ちゃんっ!」
慟哭であり、絶叫だった。
何度も弟の名前を叫んだが、その度に止める人々は涙を呑み、私は涙を流した。
そうして、翌日。
黒い暗い部屋で、私と両親は黒炭と化した竜ちゃんのであろう骨と対面した。
両親は涙を流している最中、私は押し黙ってそれを見ているしかなかった。
どれだけ涙を流しても、弟が帰ってくることはないため、それは無意味なことであると理解してしまったからだ。
肉体も包帯でぐるぐる巻きにされ、精神も弟を失うと言う悲劇を最前線で目撃したため、私はその両方をザクザクに蹂躙された。
両親はそれを理解しているのか、私を一度たりとも弟を失ったくせに泣かなかった酷い人間、なんて扱うことはなく、むしろ引きこもってしまった私を気遣っていた。
心で涙を流しながら、肉体はただ空虚を眺めるばかり。
空いた穴はあまりにも大きく、膝を抱える時間は一日でも足らなかった。
そんな引きこもり生活を続ける最中、私が頼ったのは両親の学術本である。
これが、更なる悲劇の撃鉄だとは知らずに。
だが、後に振り返っても私は何度もそうするだろう。そう思ってしまうのは、私がきっと呪縛に囚われているからだ。
さて、ここまでは前哨戦。
ここから、私と勿忘草の物語が始まる。




