五話 告白
子どもたちの告白、民族の悲しい歴史、そして国家の裏側で暗躍する教師たち。点と点が繋がり、物語はいよいよ最終局面へ。
イズマイールがデニースの淹れた中国茶を飲んでいると、イリーナがクリミアから帰ってきた。子どもたちも一緒だった。
「寮で二人きりだと不安だから、君たちの部屋に泊まらせてあげてほしい。私はここのリビングで寝るから。とりあえず疲れた……。私たちにも、お茶入れてくれる?」
目の下にクマのできているイリーナを見た途端、デニースはすでにお茶を準備していた。香りから察するに、夜にぴったりなハーブティーだ。
イズマイールは園芸家の癖として箱を見てみた。カモミール、リンデン、エルダーフラワー。じっと視線を注いでいたので「イーラ少佐もいかがっすか」と言われた。ポットから黄色い澄んだお茶が注がれた。砂糖は入っていないのに、甘い香りと味がした。美味しかった。
「ほっとするなぁ」とイリーナも言った。子どもたちは、まだ玄関で立ちすくんだままだった。
「気が滅入っただろう、ほら、こっちへ座って。先生の入れてくれたお茶を飲んでごらん。よく眠れる効果があるんだよ」
イリーナが手招きした。デニースが二人分の磁器のカップにお茶を注いだ。
先に口をつけたのはイワンだった。目が泣きはらしたように真っ赤だった。気丈で成績優秀な子が、こんなにも気落ちしている。イズマイールは、二人がまだ繊細な心を抱く年齢だということを思い出した。
二十六番は、座りはしたものの、痛々しい綿と包帯だらけの顔をぴくりとも動かさなかった。どうぞ、とイリーナが勧めても、手を付けなかった。痛くて口を開けづらいのかもしれなかった。
しばらく五人とも黙ったまま過ごして、一時間ほど経った。
時計が二十一時を過ぎた頃、イリーナが子どもたちを寝かしに連れて行った。部屋はデニースのところだった。イズマイールの部屋より散らかっていない、十分眠れる場所。
(デーニャはオーデコロンを使わないから、刺激が少ないくて良いんだろうな)
さっきの時間は子どもたちへ、この大人たちの空間が安心できる場所だと思ってもらうためのものだった。
「疲れているところ悪いんだが」とイズマイールが口をきいた。
「イワンは君に何を告白したんだ? 告白と言えるだけのことが、やはり学校で起こったのか? 二十六番の火傷は本当に日焼けだけが原因なのか?」
「矢継ぎ早に質問されるとしんどいね」とイリーナはソファにぐったりとして、ぼんやり呟いた。
「何から話そうか……。まず、イワンが話したことをそのまま聞かせよう」
イリーナは、その口にするのもおぞましい出来事を話して聞かせた。
体育教師が森としきりに言ったのは、そういうことだったのか。信じられない。子どもたちに、囚人を撃たせるなんて。
イズマイールの表情を読み取ってイリーナが付け足した。
「イワンは、夕方になると水が血に見えると言った。どうか信じてあげて欲しい」
(二十六番やイワンたちは、辛い体験のフラッシュバックを起こして毎夕不安定になっていたのか。二十六番はその後も、学校長に呼び出しを受けていなかったか? 親子だからだと不自然には思わなかった。しかし、この話を聞いた感覚では、何のための呼び出しなのか気になる。実の子にそんな非道な真似をさせるのか? 二十六番はもっと別の、自殺に追い込む出来事があったのだろうか)
たまりかねて、イズマイールはうめきに似た声を発した。
「イワンの告白したことは、犯罪の証拠になるだろうか」
「いや……」とイリーナは片手を額に当てて、深く溜息をついた。
「子どもの話は、信じてもらえないのを知っているだろう」
その通りだった。物的証拠が発見できれば、希望があるかもしれないが。あの傷ついた子どもたちを、忌まわしい森へ連れて行き、詳しく思い出してもらうことは、酷く良心が痛む行いだった。大人の身勝手に思われた。
イリーナは思い出したように、意外な名前を出した。クリミアにいた時、アラムが接触してきた。彼が話した内容はこうだった。「子どもたちから目を離さないように」と、それからもう一言あった。
「あなたは見た感じ、新しい医務官かな? 普通ではない子どもたち専門の。僕の後輩のイズマイールに会うことがあれば、渡したいものがあると伝えて欲しい。場所はクイビシェフで宜しく」
イズマイールは自室から戻ってきたデニースに、子どもたちの様子を聞いてみた。今は安心して、こんこんと眠っているそうだった。よほどクリミアと鉄道で疲れたらしい。
(落ち着いてくれて良かった)
イリーナへ向き直り、イズマイールは決断を話した。
「アラムに会おうと思う。行き違いになるけれど、ここは君一人に任せても構わないだろうか。あの子達は、君には信頼を寄せているようだし。男より女性の方がいいんだろうな」
少し寂しそうにしてから、付け加えた。
「僕の部屋のものは何でも使ってくれていいから。デーニャもいいよな。えっ? お前も一緒に来るんだよ。イリーナ、頼む」
「構わんよ」と即答されて、イズマイールは「本当か!」と純粋な目で相手を見つめた。たやすく一喜一憂する彼は、むごい話を聞いたあとでも満面の笑顔を作った。
イリーナにとってこれは乗りかかった船で、イワンの告白は酷く痛々しかった。放っておける人間の気がしれなかった。無視しないではいられなかった。最初で最後のクライエント……マリーヤの子どももまた、ここにいるのだから。
イズマイールはちょっとした罪の意識を、鉄道の窓辺で感じていた。
(夏休みの仕事を全てピオネール担当の人間と、ナージャさんや、他の教員へ任せっきりにしていた。そのために二十六番にまた怪我を負わせてしまった)
デニースはお茶を入れることに凝りだしたようで、今度はプーアル茶やら、ジャスミン茶やら、比較にグルジアの茶葉(品質はまさにソ連そのものの悪さだ)、色んなものを持ってきて、イズマイールの反応で実験し始めた。
「うーん、匂わない緑茶より花茶の方が好きかな?」
「つくづく、あっしと真逆の嗜好っすね〜」
それなのに、なぜか気が合う二人だった。
クイビシェフの駅で、十ヶ月ぶりにアラムと対面した。その日は霧雨が降っていた。雨具の下の顔は、花壇を申し受けた時と何一つ変わらなかった。丸い輪郭に、背の低いチビ助先輩だった。その傍らには初対面の人間がいた。イズマイールの視線に気が付いて、アラムが紹介した。
「こちら、ドゥルナ・ジャヴァンシル。アゼリー人の後輩なんだ。僕のバディさ」
ドゥルナはアゼリー語で鶴という意味だった。名前の通り背が高く、服もゾロリと長かった。雨なのに洒落た青いプラトークを巻いていた。彼はサングラスを外して、艶っぽい声で自己紹介した。
「ドゥルナです。ドゥーシャって呼んで下さいな。カラバフの元貴族です。あなたが噂のイーラ少佐? あら可愛いわぁ。あたしも少佐なの。宜しくね」と、イズマイールに長いハグをした。反応に困っていると、アラムが笑って言った。
「ドゥーシャはこういうやつなんだ。次第に慣れるよ」
道を歩きながら、アラムと二人で積もる話をした。
「なぁ花壇はどうなった、そちらの仕事の具合は?」
「もの凄く良い感じだよ。写真を持ってくるんだった! 機会があったら見に来てくれ。アラムの方は高等学校だったな、生徒たちはどんな?」
学校よりも、アラムはロストフ・ド・ナヌーの街近郊で起こっている猟奇殺人で頭が痛いようだった。
「ドゥルナも協力してくれて、彼はКГБを捜査に参加させるべきだと、学校中の教官から署名を集めてくれた。でも、その効果はお上に届きやしなかった。
また犠牲者が出た。男の子だった。この世は思っている以上に、異性愛者だけじゃない。SFみたいに、人間の性別は男と女の二つじゃない。僕らが常識だと思っていたことは、ドゥルナのコミュニティでは常識じゃない。地下出版では止めどなく、民族強制移住や収容所の体験が出回っている。最高に機密のことだったよな?」
アラムは自分の属する体制への不信感を、今まで胸に抱えていた分、相手が同胞だと感じて小声でぶちまけた。イズマイールも同感だった。
ドゥルナはデニースと後輩の苦労話で意気投合して、すっかり打ち解けていた。
(なんか、ナージャさんといい、厳しいダンス教師のビッグ・ボスといい、イリーナといい、僕の周りは、型にはまった女性らしい女性がいない。そんなものは男の夢であって、存在しなさそうだ)
「とにかく、食堂へ入らないか」とアラムが言った。
「夕方に飯か?」と不思議に思ったイズマイールの腹は正直にぐーぐー鳴り出した。一同、呆れ顔で苦笑した。
食堂には、流行の歌が流れていた。華々しく、朗々とした女優の声だった。
幸せを下さい、私は歌う女
華やかな歌とは裏腹に、殺風景な固い机と椅子が並んでいた。四人は席につき、あからさまに明るい世間話をし始めた。まるで普通の労働者たちが、普通に再会を喜ぶだけのように振る舞った。三十分ほど経った頃、イズマイールはそっと机の下に薄い包みを差し出された。何ともなさげにそれを受け取り、さっと懐にしまった。
「そういえばコーリカがまた肥って、今十キロもあるんだ」
「君が与え過ぎなんだよ、『旅行者の朝食』の効果は猫に抜群だな!」なんて冗談を言い、さらに一時間ほど笑い合った。
「それじゃあ……」と誰ともなく立ち上がり、四人は帰り支度をした。
すっかり暗くなった外は、霧雨が止み終わったばかりだった。アスファルトを街灯が白く照らしていた。四人とも、ぴしゃぴしゃと水溜りを蹴って駅に向かって歩き出した。
ドゥルナとデニースは、後輩の苦労話でなおも盛り上がっていたが(声が通るのでよく聞こえていた)、アラムとイズマイールは黙って歩いていた。二人共、言いたいことが喉の奥に詰まっていた。お互いに遠方なので、次に会える日はしばらく先に思われた。
アラムは難しい顔をして、口を開いた。
「その、君は後輩とどういう関係かな?」
イズマイールは慌てて修正にかかった。
「いやいや! そんな関係違うから! ただのバディだよ! 後輩としてのあいつは好きだけど、そういう好きじゃない」
ぶっとアラムが吹き出した。今日初めての、彼の心からの笑顔だった。
「何と勘違いしているんだ? 僕が聞きたいのは、民族意識のこと」
「あっ」と、夜闇でも分かるくらい顔を赤くさせた将校は、ぽかんと口を開けたままにした。
アラムは自分の後輩がアゼリー人であることを、改めて話した。この会話は十歩以上離れた本人たちには聞こえていないだろう。アラムは自分の生い立ちについて語った。念頭には、イズマイールがカザフスタン育ちのチェチェン人であることを思い浮かべていた。
アラムは幼少期、アゼルバイジャンのバクーで育った。青年期はアルメニアのアララト地方、古都アルタシャトで過ごした。彼の祖父母はアララト山の西の裾野、トルコ領のハジヤト地方で暮らしていた。
なぜこうも移動が頻繁に行われたかというと、彼らの民族の苦難の歴史のためだった。アルメニアという国は二千年前、ヴァン湖を中心に大きな王国を築いたほど歴史が深い。その時代の英雄、美麗王アラがアラムの名前の由来になっていた。
しかしその後、幾度もキリスト教国とイスラム教国の間で戦場となり、領土の取り合いとなり、何度も民族離散を経験した。さらに20世紀初頭には、オスマン帝国の虐殺に遭った。アラムの祖父母も、ついに先祖伝来の土地に住めなくなった。幾人も親戚を殺されながら国境を越えた。父サムエルは孤児となり、やっとバクーに辿り着いた。アラムの代から、ソゴモニヤン家は念願の、アララト山が見える祖国へ戻ったというわけだった。
一方、ドゥルナはナヒチェヴァンという、アルメニアの西南にあるアゼルバイジャンの飛び地出身だった。彼は生まれも育ちも、アララト山を眺めて過ごした。バクーで暮らした経験のあるアラムにとって、愛すべき隣人でありながら、アゼリー人は第二の迫害者だった。
ドゥルナ自身とは関係がない、あくまでアラムの意識の問題だった。この矛盾が苦しかった。
「なぜ後輩がアゼリー人でなければならなかったんだ。君は後輩と良好なのか? 羨ましいな……」
お互いに手頃な答えを見つけ出せないまま、また霧雨が降り始めた。駅についた頃には、皆ずぶ濡れだった。元来やんちゃな若者たちは、歳相応に笑い合い、濡れた肩を叩きあい「またな」と別れた。一組は西へ、もう一組は東へ向かった。
イズマイールのコンパートメントから見える車窓は、みるみると雨が上がっていった。
デニースが中国茶の一種、花茶を淹れて持ってきた。一息ついた所で、イズマイールはアラムから受け取った包みを開けた。少し滲んだメモ書きと一緒に、円盤が入っていた。それは一見するとレントゲン写真で、知る人には何か分かるものだった。1960年代まで闇市とか、地下出版とかで売られていた、密かに西側の音楽を聞くためのレコードだった。カセットの流通した今では古臭く、価値のないものだった。
メモ書きにはこうあった。
「これは空っぽだ。この国では、犯人の自白しか証拠とされない。オムスクのサミズダートには、肋骨レコードへ書き込む制作機が生き残っている。そこの人間は骨董品とスキャンダルが好物だ。複製を一気に広めてくれる。録音器具くらいは持っているだろう。頑張れ」
次回で完結です。
どうぞよろしくお願いいたします。




