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四話 レソポロサ

「カティンの森を思い出してほしい」

バイカル湖で元体育教師が語った戦慄の証言。シベリアの森に隠された、KGB養成学校の血塗られた真実。

 猫のコーリカが「にゃーっ」と鳴いた。お腹が空いているらしく、皿の前で行儀よくおすわりしていた。この職員寮をうろうろしている長毛種の猫は、ぺちゃんこの鼻を興奮で真っ赤にして、ふっくらとしたマズルをひくひくさせ、そしてまた「にゃーっ」と抗議するような声で鳴いた。

「はいはい、今あげるからな」とイズマイールは缶詰「旅行者の朝食」を開けた。

 コーリカは「早く早く!」と急かすように、尾っぽを脚へスリスリさせた。このペースト状に赤く蒸された肉は、人間にとって大変不味いのだが、コーリカは満足そうに舌なめずりをして、今度は抱き上げてくれという姿勢を取った。

「にゃーっ」

 おしゃべりな猫だなぁ。

「にゃーん」

「それ、よいしょっと、ちょっと重くなったな。一日何食、食べているんだ?」

「にゃっ」

 コーリカは不満そうな目つきをして、イズマイールの顔面にパンチをあびせた。プルルルッと猫が文句を言いたい時に出す唸り声をあげて、彼の腕から飛び降りた。玄関でのそんなやり取りに、黒い頭が割って入った。

「そんな抱き方じゃ猫の腰に悪いっすよ」

 その黒髪、デーニャは猫を地面から剥ぎ取り、(コーリカは嫌そうに爪を立てて、コンクリートの地面にしがみつくという離れ技をやってのけた!)人間の赤ん坊へするように、お尻を支えてあげて抱っこした。

 ゴロゴロ! ゴロゴロ! と早くも大きな喉を鳴らす音が聞こえ始めた。

「なんでコーリカはお前に懐くんだ? 僕にはさっぱりなのに」

「撫で方ですよ、撫で方」とデニースは投げやりに言って、夜の帳が降りた学校を見た。

「成果はあったんですか?」

 イズマイールは、子どもたちの相手を義理の妹がやってくれることになったと話した。そして今日起こった、ナージャとの会話の内容をかいつまんで説明し、受け取った紙片を渡した。

 イズマイールはひそひそ声での会話を心がけた。

「今の体育教師は、僕の後に着任したから、ナージャさんが指しているのは前任者のことだ。書類を明日洗ってくれないか」

 デニースは「了解」と短く答えて、自分の側の結果を話した。

「書類上は、変わった行事も授業も一切ありませんでした。最初の数年こそ、試行錯誤がありましたが、特筆するべきことはないです。混乱があったとしても、ここはどの組織よりも書類がよくファイリングされていますよ。年代順に並べてあったので、授業の合間でも十分作業再開できました。ただ……」

 そこから言葉を濁したデニースの言いたいことを、イズマイールは理解して頷いた。

「書類はやっぱり、当てにならないよな。面倒事にならないように、何事もなかったと改ざんするのは当たり前だもんな。アルメニアの国境警備も、境がややこしいだけに杜撰だったよ」

 デニースは、ふうと落胆の息を吐いた。

「いや、ごめん。努力してくれたことへは感謝しているんだ。記録の管理が、一般より酷いものじゃないって、分かっただけでも無駄なことじゃないよ」

 うーんと考え込む様子で、デニースは重くなった空気の中、深呼吸した。

 空にはさそり座が地平線を這っていた。ここオムスクの緯度では、蠍の尾が半分しか見えない。

 イズマイールは思った。

(あの心臓部を「蠍の火」と呼んで、自己犠牲の物語を作ったのは誰だったろう。そうそう、宮沢賢治だ。目の前の日系人は、自分の血の半分は縁があるのに、興味がないみたいだから知らないだろう。でもちょっと、できるだけ頑張って励ましてやろう)

「月が綺麗だなぁー」

「はあ、綺麗っすね」

 夏目漱石の名言だったのだが、期待はずれの反応だった。


 翌日、書類漁りを任せたデニースからさっそく報告があった。前任の体育教師は、ゲシル・アタロヴィチ・ドルジェフという軍曹だった。彼はチンギス・ハンと日本人の祖先とされるブリヤート人で、今は退役して故郷ウラン・ウデに戻されているらしかった。

(場所まで分かったなら、しめたものだ! 行かないという選択肢はない。

 7月から8月末まで、子どもたちは暑いクリミアへ合宿に向かう。その一方で、僕らは真逆のバイカル湖へ避暑に出かけるってことだ)


 ウラン・ウデはブリヤート共和国の首都だった。極東の都市イルクーツクから、バイカル湖を挟んで東にあった。現地で異なったのは、目当ての人物は今、その街を離れていることだった。イルクーツクの方が近いオリホン半島の町にいた。イズマイールとデニースは古代湖を挟んで行ったり来たりした。

 途中で食堂に立ち寄り、地元の料理を味わった。肉汁のたっぷり入った、コーカサスのヒンカリや中国の小籠包に似た、ブーザという肉まんが美味しかった!

 側には聖地である岬と、氷の洞窟シャマンスカヤ・スカラがあった。イズマイールは現地の風土を知ることが大好きだった。しかし観光はそこまでにして、聞き込み開始しなければとデニースに急かされた。

 その人物は町で有名だったので、すぐに見つかった。なぜなら、ミュージアムの管理人になっていたからだった。博物館にはブリヤートの生活様式や小物類、過去の写真を数多く展示してあった。デニースがキツネの剥製を複雑そうな視線で見ていたので、全員その場所から移動することにした。

 岬は夏のバイカル湖が見渡せた。入り組んではいないが、険しい岩が壮麗な面持ちで切り立っていた。満潮の波が砂浜へ、深く寄せては返した。その音が自分たちの声を聞き取りにくくしていた。

 ここはブリヤートにとって神聖な場所だと彼、ゲシル・アタロヴィチは言った。ある罪人がいたとする。人々はこの岩の奇跡を信じた。その罪人は一晩中この岩に取り残され、朝までに凍死か、溺死していなければ無実とされた。

 民族によって様々に裁判制度があるものだと、イズマイールは他人事のように思った。そんなチェチェンには「復讐の掟」があった。親族が一人殺された時、殺した本人を殺すか、その七代先まで呪うか、あるいは家畜を多く譲らせねばならない、という風習だった。

 一方デニースは、日本でよく観ていたサスペンスドラマの崖を思い浮かべた。現状そのものの光景なので少し驚いた。

 ゲシル・アタロヴィチはКГБ職員が逮捕以外の何の要件で訪ねてきたのか、考えあぐねているようだった。

 イズマイールとデニースは、相手に真実を語ってもらうために、正直に自分たちの身元を明かしていた。彼らはまず、ナジェージダという人を知っているかを尋ねた。

 ゲシル・アタロヴィチは、老いて弛んだ顎をすくめて、用心深く「もちろん」と言った。

「彼女から紹介を受けました。最初に申し上げた通り、あなたの罪を問いに来たのではありません」

 デニースが丁寧に話した。やっと相手の不信感を取り除くことができると思われた時、イズマイールが余計な口を挟んだ。

「何か特別な心当たりがおありで?」

 おかげでデニースの交渉は破談した。

「そんなもの、ありはしない!」と相手を憤慨させてしまった。

 岬から帰ってしまいそうだったので、デニースが機転を利かせた。

「何を話しても、あなたのテングリに誓って逮捕はありえない」

 КГБの肩書に怯えきった憐れな軍曹は、若い将校の、絶対に危害は加えないという約束を信じるしかなく、口火を切った。

「森を掘り返すといい。北の裏の森を」

 イズマイールはキーワードを掴んで、この機を逃すまいと前のめりになった。

「ナージャさんも同じアドバイスをしてくれました。森に何があるのかご存知ですか?」

 強風が吹いて、断崖に波が打ち付ける大きな音が響いた。

「我々は、命じられたことを実行したまでだ。君たちのように。カティンの森を思い出して欲しい。私はあの時、関与したのだけど、それと同じ光景を二度も見るとは思わなかった」

 以降は、「学校へ戻るべきだ」の一点張りだった。

 カティンの森とは、1940年頃に、ソ連がポーランド人の捕虜を二万二千人も虐殺した事件だった。同じことがなぜ戦時中でもない、平穏なシベリアの都市で起こるのか、イズマイールには全くイメージが湧かなかった。


 イズマイールとデニースの二人は、学校へすぐに戻ることに決めた。鉄道の中で、全く休まらない数日間を過ごした。

 そうだ、ナージャさんのメモ書きのためにすっかり頭から飛んでいた。先輩のアラムにも連絡をとっておこう。駅構内で電話を借りて、交換手にロストフへ繋いでもらった。その時間に焦れた。アラムが眠たげな声で応答した。時差を考えていなかった。

(ああまったく! 僕というやつは)

 ロストフは夜明け前だった。こちらの要件、子どもたちの不可思議さの理由を知りたいと伝えた。二十六番の自殺未遂を含めずに、「違和感」や「不安」と言い換えて、原因について聞いてみた。

「イーラくん、君がそんなに僕を頼りにしてくれていたことは嬉しいよ。ただ時間と時期がまずいな。今、こっちは立て込んでいて……。まだ民警ミリツィアの段階なのだけど……。僕には君がオムスクで感じている違和感や、不安と同じものを、ロストフで感じているよ。やっと離れられたと思ったのに。ちょっと待ってくれ、場所を移してかけ直すよ」

 しばらくして、再び通話室へ呼び出された。アラムの目の覚めた声が耳に入った。

「実をいうと、ロストフでは今、子どもの行方不明と、連続殺人事件が起こっているんだ。この国では存在しないはずの連続殺人事件だ。レソポロサが格好の犯行現場になっていて、これが酷いんだ……手口からして犯人は全て同じだと思う。

 距離が離れ過ぎだけど、君の方でも同じことが起こっているって? 同一犯でないことを祈るよ……捜査範囲が広がりすぎる。こっちは君の言うカティンの森ほどの規模ではないんだ。ああでも、戦争を体験してない身には、子どもの無惨な遺体を見るのはこたえるよ……。

 それじゃあ、くれぐれもこの話は内密に。まだごく数人の犯罪捜査官スイチクと、僕しかしら知らない情報なんだ。そっちの捜査でも、民警の協力を仰ぐべきだよ。森は広いから。何よりも、君たち自身が動けば学校長に勘付かれるかもしれない。

 それから、反社会的な女性たちや、同性愛者にも差別の目を向けずに話を聞いた方がいいかな。君の無事を願っているよ」


 この件に関して、結果として犯人はイズマイールの件と別人だった。ただ子どもへ偏った執着を持っていたことは共通していた。アラムの推測は、同性愛者への逮捕の嵐の後、情報公開グラスノスチで一般に知れ渡ることだった。

 アラムの背負った連続殺人事件は、1979年から1990年に至るまで続き、五十人以上の子どもと女性たちが、たった一人の人物のために犠牲となった。

 ソ連にとって、連続殺人とは資本主義の病とみなされ、捜査の方法は第二次世界大戦の頃の、強引で一方的な方法と変わらなかった。しかも、DNA鑑定のない時代では、ある人間が暴行の犯人であるという証拠を示すことに困難を極めた。

 アラムの闘争は、また別の話となる。


 学校へ戻ってすぐに、イズマイールは北の森へ急いだ。アラムは民警の協力を得るべきだとアドバイスしてくれたが、こちらは更にオフレコの捜査だった。アラムとデニース、それに学校の教員たち以外の人間に知られるわけにいかなかった。

 街の各所に点在する森をレソポロサと言った。開拓に取り残された森は昼なお暗い。迷路のように曲がりくねり、カラマツが不穏なざわめきを立てていた。やはり森は広すぎて、二人では何事か起こった場所の当たりのつけようもなかった。


 中庭のキングサリが散り、タチアオイが蕾を付け始め、ヒマワリが瞳を開くように花を咲かせた。そんな夏の日、子どもたちとクリミアへ同行していた妹、イリーナから連絡が入った。

 アゾフ海の塩辛い風に参ったようにイリーナは言った。

「二十六番は全身の酷い火傷で、合宿から外れることになった。本人は何も言わなかったので、誰も気が付くことができなかった。先天性白皮症なのを、あろうことか誰も考慮していなかった。自分の担当しか責任を持たんとかなんとか。

 あと、イワンが一緒に付き添いでそちらへ帰る。私もまぁ、金がなくなったから泊めてくれ。それじゃあ……。いや、言ってしまおう。帰ったら直接話をしたいんだ。イワンが告白してくれた。ついさっき、告白してくれたんだ。彼にはとても辛い体験だった。だからとても混乱していて……。二十六番の火傷が不幸中の幸いになった。頼む、誰にも気付かれるなよ。学校長には特に」

 イズマイールは気が急いてならなかった。航空機が使えれば!

 今頃すでに、イリーナ一行はシベリア鉄道に乗ってしまっているだろう。

 何を告白した? やはりこの学校には大きな隠し事があったんだ。僕は間違っていなかった。カティンの森、北のレソポロサ、児童を対象にした殺人鬼の存在、二十六番の気の狂ったような叫び。夕焼けなんて見たくないと言ったイワン。別々の糸が繋がってゆく。

 デニースへ相談せずにいられなかった。アラムの話と、イリーナの連絡を、一人では抱えきれなかった。話すことで頭を整理したかった。見事にデニースは傾聴をしてくれた。彼、臨床心理士に向いているのではないだろうか。

 その日の夜道は、蠍座が美しかった。長い夏になりそうだった。


次回は真相が明らかになります。

どうぞよろしくお願いいたします。

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