三話 隣のナージャさん
「体育教師、森をあたれ」
中国茶の香りに隠された密告。お人好し教師の調査は、ついに学校全体の闇へと踏み込む。
私と二十六番の初対面は、中庭でのことだった。
剪定されたジンジャーが真っ赤な花をつけていた。キングサリが、有毒なものほど美しいという言葉が当てはまるように、金色に輝いて垂れ下がっていた。対面にはフジとライラックがここと対照的な色をしていた。低く留められたリンゴの灌木には花が咲いていた。とにかく甘い芳香が立つ、行き過ぎたイングリッシュガーデンだった。こんな国家の本拠地のど真ん中に、ブルジョアな庭があることは、周知の事実なのだろうか。
噴水と周りのアイリスを眺めていると、イズマイールが私の会うべき子どもを連れてきた。彼はひと通り庭の開拓の苦労を説明し、私をキングサリの棚の下にあるベンチへと案内した。
そこには、どぎつい赤色のグラジオラスがところ狭しと並んでいた。
彼は子どもへ、私の隣へ座るようにと促した。
子どもは無言で静かに歩み寄り、腰掛けた。芝生にされているカモミールが、軽い体重であっても踏まれるごとに淡い香りを放った。
まず私は聞いてみた。どんな答え方をするのか実際に知りたかった。
「君は何番?」
「二十六番です」
たった一言だけ。目を合わせずに、じっと瞬きもせず、斜め下のアイリスがある方向を見つめながら。
「君の本名は?」
答えはない。
「じゃあ、生年月日は?」
また答えが返ってこない。
「花の匂いで体調を崩していない?」
「はい」と、静かな一言だけ。
「私と話をしたくなければ、いいんだよ」
噴水のせせらぎが響く庭に、風が吹いた。
二十六番の髪がふわふわと揺れた。猫っけは清潔な石鹸の香りがした。心の病を抱えた人は、多くがシャワーを浴びることへ不安や面倒を感じる。この子の場合、それはなさそうだ。しかし目の色は何も考えていないかのようだ。
「二十六番は"はい"と"いいえ"で答えることのできる質問しか受け付けないんだ」
イズマイールが心配そうに出てきて、すぐジンジャーの影へ引っ込んだ。
なんと奇妙なのだろう。ロボットになったとでもいうのか。何かがこの子の自主性と、内面を奪ってしまったようだ。イズマイールから聞く限り、彼が赴任する前はこんな状態ではなかったという。今年の5月に自殺未遂をしてからだそうだった。
私は聞いてみた。
「思い出したくなければいいんだけど、何か、辛いことがあった?」
二十六番は間をおかずに答えた。
「いいえ」
「話したくない?」
「いいえ」
「君は、今年の5月より前の出来事を話すことができる?」
「いいえ」
「手首を切ったことを、覚えていない?」
「はい」
(なんてこった)
ジンジャーの影に隠れて立ち聞きしていたイズマイールも驚いていた。
私は彼を呼び寄せた。
「この子は記憶障害になっているらしい。あと、必要最低限だけの返事しかしなくて、それへ躊躇いがない症例を私は知らないのだけど。この子と関連のありそうな案件を受け持ったことがある。この際だから言っておこうか」
二十六番へは、そのまま待機しているように、と言いおいて、私は怪訝そうに続きを気にしている彼とジンジャーの影へ入った。
「私はウラジカフカスに診療所を持っていた。そこで、この子の母親のカウンセリングを受け持ったんだ」
「まさか!」とイズマイールは動揺が隠せないようだった。
この広いソ連という国で、そんな偶然が起こるのか。
「どんな人だった」といきごむ彼へ私はシーッという身振りをした。
「クライエントのことは秘密にしないといけないんだ。母子の引き離された年月は六年だ。直接関係のない可能性が高い。だから、今手短に、教えられることだけ言うよ」
イズマイールは口惜しそうに眉根を寄せた。彼は全てを知っておきたいようだ。そんなことは、この国にあっても、この国の外にあっても不可能だ。
「この子は現在、場面かん黙の一種、人前で話すことができなくなる病だと思う。元々臆病で神経質な子どもがかかって、自覚症状がなくて、自然に回復するケースが多いのだけど。この子は昔から、会話が得意ではなかったんじゃないかな」
確かに、とイズマイールは頷いた。私は話を続けた。
「ショックな記憶を消して、口を閉ざすことで心を守るという方法を知っていたんだ。何かを自分から行うことは危険だと、心を抑圧しているのだと思う。多分うんと幼い頃から、その傾向があったのかもしれない」
イズマイールはしばらく腕を組んで、考えた様子だった。
また風がキングサリを揺らし、強くて甘い芳香を放った。そしてやっと彼は言葉を選びながら口を開いた。
「僕にもそういう経験があるから分かる。言葉って難しいんだよな。辛い経験があると何も話せなくなる。話すこと自体へ酷く臆病になる。
二十六番が中庭で倒れるまで、口をこう、手で隠しながら、蚊の鳴くような声で話していたことを思い出したよ。
僕は常々、自分の目が節穴だってことに嫌気が差していてさ。またかと思ったんだ。この子の心理状態を分かってやることができないなんて。僕は共感能力に欠けているのかな」
懺悔するように吐露する彼が、雨で濡れ鼠になった犬のようだったので、励まさずにいられなかった。
「イズマイール・イリイチ。君は思いやりがあるじゃないか。他の教員は、この子を見てみぬふりしているんだろう? 立派じゃないか」
「そうか? そうかな? へへっ」と、みるみるうちに明るい表情が戻ったので、本当にКГБに向いていない単純明快な人柄だと思った。彼はきっと、他人も自分も偽ることができないのだろう。信じてみてもいいかもしれないと思った。そして、積極的に協力したいとも。
翌日、昼食ラッパが吹かれる頃、(綺麗な音色からしてイワンだ。ラッパ係の中には、スースーとしか音を吹けていない者がいる。その時は笑っちゃうんだよな)、イズマイールはある一人の教員に声をかけられた。
ナジェージダ・ウラジミーロヴナ・アーデリアンという体操の教員だった。もったりと間延びした特有の口調で、「こんにちは〜」と、彼女はイズマイールの肩をぽんと叩いた。
「あのさ〜、君、イーラくんだっけ〜?」
「そうだけど、何か?」とイズマイールが振り返ると、授業終わりなのだろう、レオタード姿の女性が目に飛び込んだ。
(うわっ やっちまった)
「君〜最近、変なことに〜、首を突っ込んでるらしいんだけど〜、学校全体で〜、噂になってるの知ってた〜?」
頭にハエが止まりそうな話し方だった。ロシア語と文学の教員として、これは許せない。しかしもっと許せないのは、彼女があられもない出で立ちで、それを気にしていない風なことだった。
「生徒の間でね〜、いじめが起きてるんだよ〜、ね〜聞いてる〜?」
イズマイールはたまらず、ばっとジャケットを脱いで彼女へ被せた。
「な〜に〜?」と、うめく声が聞こえるものの、これ以上直視できなかった。
イズマイールはチェチェンの掟、ウェズデンゲルを遵守したかった。男性は女性へ格別の敬意を払い、小夜啼鳥のように丁重に扱わなければならない。肌の露出を見るなどもってのほかだった。
「あのさ〜、気持ちは嬉しいんだけど〜、今は暑いのよね〜、返すわこれ」
(なんと、人の好意を無下にするとは、自分が恥ずかしいじゃないか)
それでもお構いなしに、ナージャは上着を突っ返した。
イズマイールは顔が高潮するのを感じながら、目を逸らして言った。
「ええと、話は休憩室でしませんか! こんな廊下では学童たちにあらぬ噂をたてられてしまう。ただでさえ夏休みで皆暇なんだから。そうだ、デーニャが珍しいお茶っ葉を手に入れたそうですよ。あいつ、休憩室にいるかな? まぁ僕が勝手に淹れても彼は咎めないでしょう。なんでも、中国産の茶葉ですって」
ナージャは話を聞かないやつだな〜と思いながら、彼の止めどないお喋りを左から右へ受け流して聞いていた。ぐいーんとヨガのポーズをとったまま器用に歩いてみせても、そちらへ見向きもしない彼は、「チャイ」の語源が中国語であるという話をし続けた。
休憩室は校舎の南東にあった。午後の太陽が部屋中を満たしていた。
ナージャは「まぶしい……」と、結局着せられたジャケットをバタバタさせた。金色にまうホコリを目で追うと、元気なフリージアとミモザの花瓶にいけてあるのが見えた。彼女の故郷、ルーマニアは四季があるので、冬が終わると、春と夏の花が一緒に咲いて、延々と続くシベリアが奇妙に思える。
イズマイールは茶器を戸棚から取り出し、明らかに中国茶の淹れ方を知らなそうな手付きで「これでいいのかな?」と机に並べた。そして表で一服していた軍曹へ、窓越しにケトルを渡し、給湯器の湯を分けてもらった。危なっかしいので、見ていられない。
ナージャは助け舟を出した。
「お茶っ葉に〜、ぬるめのお湯入れたら〜、聞香杯に直接お湯をかけるんだよ〜」
「ポットに蓋をして、その上からお湯をかけるのか?」
不思議そうにする彼へ付け加えた。
「変な淹れ方だよね〜。あたしの実家にも昔あったんだ〜。中国人の〜、メイドさんがいたの〜」
「そりゃどういうブルジョアジーだ?」という質問をよそに、ナージャは頬杖をついて中庭を見た。遠目ではあるけれど、前までは鬱蒼と茂っていた林は見通しよく切られ、全体が花で満ちていた。ここからは黄色いモッコウバラのアーチが見えた。
「あちちっ、どうしたらいいんだこれ」と苦戦している声がした。
(もーうるさいなーあの人〜。デーニャくんがいたら、もう少しましな会話ができるのにな)
それでもナージャは椅子から動かなかった。茶菓子として出されたチョコレートを、先にぱくぱく食べた。
(のどかわいた〜。早くして〜)
彼女はけっこう無精者だった。それでいて、体型は体操の教員らしくスラリとしていた。女性の教員の中では若かったが、彼女は熟練で権威を持つダンス教師、ガリーナ先生(あだ名はビッグ・ボス)と仲が良かったので、生徒と先生の事情によく通じていた。だから、イズマイールの動向へ忠告をしたかった。
(場所を移動したのはいいものの、ここには軍曹がいるじゃないの。それにいつ他の人が入ってくるか分からない。この坊やは分かっているのかしら)
スパイスのようなフリージアの香りが部屋中に満ちていた。
「おまたせ!」とイズマイールがやっと、中国茶の入ったカップを盆に載せて戻ってきた。
「どこまで話を聞いたんだったかな? 生徒間のいじめのことか」
「うん」とナージャは中国茶を口に含んで相槌をうった。
(うへえ渋いっ。飲んでられっか)
「今度さ〜、あんたの大事にしてる花壇からハーブを切ってさ〜、入れてくれない〜? 適当にお湯入れるだけでね〜、何分蒸らしたって美味しくできるから〜」
うっとイズマイールは返事に詰まった顔をした。
「農薬をまいちまった……」
「あ〜じゃ、次からお白湯でいいわ〜」
容赦のない彼女の一言にめげず、「話に戻ろうか」とイズマイールも対面の椅子に座った。
「いい〜? 中国茶はね〜、もっと美味しいものなの〜。あたしんちはね〜、ソ連の家らしくないから〜、お茶に明るいの〜。だから〜あんたが許せない〜。淹れ方を書いたから〜、みてちょうだい〜? い〜い? ぱっとでいいの〜。読んだら捨ててね〜」
対面の、さっきまで笑っていた人間が、さっと顔色を青くして眉間に皺を寄せた。ナージャの意図を汲み取ったようだった。
「君はどこまで知っているんだ?」
「せっかくだから、お茶を飲みましょう〜」とナージャは質問の答えをはぐらかした。
仮にこの部屋を見ている人がいたとすれば、もったりとした話し方で、動作もトロトロとしているナージャと、早口で動きが忙しないイズマイールは妙なコンビだろう。
「学校全体の噂って廊下で言わなかったか。まったく、あんなに気を付けたのに!」
「渋いわ〜」とナージャが溜息をついた。
しばらく、ナージャは黙ってほのぼのとした春の陽光を感じた。この部屋へ入った時よりも影が傾いていた。
「学校長は〜、知らないと思う〜。なんせ、引き篭もってるから〜。あんたの花壇にお咎めなしなのも〜、学校長が〜、もうここの生徒たちへ〜、興味を持ってないからなのよ〜」
(何でも学校長の気分次第か。それで今まで口をつぐんでいた教師たちが、彼女を通して忠告を出してくれたのか。しかし、まだ自分の行動は気付かれると不味いということだ。こんなに筒抜けだったとは)
「なぜ……」
イズマイールは繰り返した。
「なぜ今になって。君は一昨年から勤務していたんだろう?
僕のことが分かるなら、生徒たちへ起こった変化へ気付かなかったはずがない。なぜだ。なぜ二十六番と、他の子どもたちを見放してきたんだ?」
ナージャはお茶をすすりながら、的を射ない返答をした。
「いじめのことを話したでしょう〜。それはね〜、あんたが一部の子どもたちを〜、贔屓してるように〜、皆見えるからなの〜。いじめを受けてるのは〜、悲しいことに、その十一人の子たちなのよ〜」
イズマイールはまたショックを受けた。
(贔屓……確かに、そうだったかもしれない。夏には教員の管理下に置かれない、ピオネールの合宿へ放り出さなければならないのに)
「しかし、見放せっていうのか?」
「その子たちも大事な問題だけど〜、全体のためを考えて〜。あの子たちは〜、一応大人しいでしょう?」
「何を言っているんだ!」と、イズマイールは頭に血がのぼって、机を叩いて立ち上がった。
次にナージャの悲しい顔が目に入って、申し訳なさが胸を満たして、「ごめん……」と座り直した。
「今、悪い事をした。チェチェンの男としてあるまじき行いだ」
「いいよ~べつに〜」とナージャはその掟へ大して興味なさそうに頬杖を深くした。
「あんたも色々大変ね〜。とりあえず、中国茶の淹れ方は見ておいてね〜。ねえ、あたしは中国茶には目がないの」
ナージャは最後の語句だけ、はっきりと普通の速度で話した。
「それじゃあ、あたしもクリミア行きの準備するから〜」と俯いたままのイズマイールを置いて立ち去った。休憩室の戸が閉まる音が響いた。
イズマイールは、茶器の間に挟まれた小さな紙片を握った。急いでその場を片付けてモッコウバラのアーチをくぐった。周りに誰もいないことを確認してから紙片を開いた。
「体育教師、森をあたれ」
それだけが書かれていた。
次回はさらに捜査が進みます。
どうぞお楽しみに!




