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二話 先生のばか!

心を閉ざした少年を救うため、青年が頼った妹。彼女はかつて、少年の亡き母の心を診たカウンセラーだった。

 1978年6月、学校は夏休みに突入した。

 子どもたちはもうすぐ差し迫る合宿について胸を躍らせていた。キャンプファイヤーでの歌を自分たちで選ぶ。料理も、どんなものが食べたいか提案して準備をした。野菜は全て、前庭に植えてあった。軍事教練の代わりに、川や野原で遊ぶことができる。

 下級生は東のヤクーツクへ行くのが通例なので、初等教育を終えたばかりの学童たちは、オムスクから西を知らなかった。上級生は、ピオネールでも特別な子どもたちしか入ることのできない、あの有名な『犬を連れた奥さん』に出てくるクリミアの潮風を感じに行くことができる。イズマイールのクラスは、夏休み前から海の話題で持ちきりだった。

 彼は急いてならなかった。クリミアはロストフと近いので、先輩のアラムに会えるかもしれない。自分が着任する前の、二十六番を含めた学童たちの様子を聞かなければ。

 彼はまず、二十六番本人になぜあのような事態になったのか、尋ねてみた。二十六番が目を覚まして、満足に食事を摂れるほど回復するまで待ち、用心深く、そっと傷つけないように遠回しで声をかけた。

 しかし問いは、なしのつぶてだった。二十六番はすっかり無口になって、非常に最低限な答え、「はい」と「いいえ」以外の言葉を忘れてしまったかのようだった。しかし医務官が、日時と自分の番号を尋ねると、しっかりと答えた。

(なんなんだ、一体。ずっと不思議な子だとは思っていたけれど。今までは一方通行の話をペラペラとして、会話のキャッチボールを楽しまず、友人を作らず、いつも夕方になると幻覚を見ているかのように泣き叫んでいた。あの5月の日以来、今までの言動さえ影をひそめて、蝋人形のように眉一つ動かさなくなってしまった。単に臆病な子だと思っていた。しかし今では銃器の扱いも躊躇いが失せていた。非情な子になった)

「あの子は傷ついているから、いわゆる心を閉ざした状態なんじゃないっすかね」

 後輩のデニースがそう言って、やっとそうだと思い至った。

(なぜ見透かせなかったのだろう。相変わらず自分の目は節穴か)

 児童の発達心理学、精神医学。そうしたものは、ソ連がスターリン時代から激しく弾圧し続けた分野だ。そのことへ経験ではなく、学んで能力を持つ人間はこの学校にいない。そして、子どもがこのような精神的に不健康な状態へ陥ることになった原因について、いくつか憶測をしてみた。子どもへの虐待、犯罪、血なまぐさい行い、子ども自身の非行、大人の都合に振り回される憐れな姿……全て、ソ連国内では存在しないものとみなされていることだ。失恋などという、生やさしいものではなさそうだし。

 ふと重苦しい不安が頭をもたげた。

(これ以上二十六番へ関わり、真相を探ることはまずいかもしれない。しかし、こんなこと、野放しにしておいて良いのか? 今度、また自殺未遂があれば、前例を見過ごした自分の責任になる。何よりも、事実に口をつぐむこの学校が気に食わない。まったく、こんなことで罰せられるとしたら馬鹿げている。僕は間違っていないはずだ。監獄へぶちこまれたって、チェチェンの男は屈しないぞ)

「そうだ、かすかな希望だけれど、一つ心当たりがある」

 イズマイールとデニースは立ち聞きをされないように、夜の更けた花壇で会話をしていた。盗聴されていたとしても、虫の声や葉擦れの音で雑なものになるだろう。

「デーニャは1977年9月以前の、過去十年間の成績表や教員のレポート、何か特別な出来事はあったかどうか、書類を洗ってほしい。ああ、すると創立以来ってことか。骨の折れる仕事だけれど、やってほしいんだ、頼む」

 デニースは「合点承知の助」とボソッと答えて、一人で含み笑いをした。本当に面白いバディだ。

 イズマイールは、その心当たりの相手へ連絡をとる方法を考えた。

(手紙はだめだ。他の職員に読まれてしまう。郵便は半年経ってから届くなんてこと茶飯事だし。通話も傍受されてしまうけれど、仕方がない、符号で話すか)

 幸いにも、イズマイールにはその相手へ電話をかける口実があった。義理のきょうだいということだった。


 ソ連の国土の半分にとって麗しい季節、夏が到来する前のこと。イズマイールは他にも、二十六番と関連のありそうな子どもたちについて、その存在に気が付いていた。

 彼らは皆、成績には個性があるが、目に光を持たず、非情になったという共通点があった。夕方になると体調を崩したり、ボンヤリと彷徨ったりするので、嫌でも目をひいた。今のところ自殺までは至らないが、注意をしておいた方が良さそうだった。

 十人ほどいるうちの一人だけ、ひときわ聡明で、一日中、平常心で会話のできる子どもがいた。十三番……本名はイワンといい、ワーニャという愛称で皆から親しまれていた。名誉あるラッパ係の一人で、起床前からマイクの前へ行き、点呼、体操、課業開始、昼食、休憩、課業終わり、夕食、就寝。そのどれもブレなく演奏する凄腕の持ち主だった。


 イワンはその日も、夕食の演奏を無事済ませたところだった。珍しく、隣のクラスの担任に呼び出された。

(中庭だって? なんのことだろう。あの脳天気な新米教師に、注意されるヘマなどしただろうか)

 途中、同級生の呼びかけへぎこちなく手を振りながら、渡り廊下を駆けて行った。黄色い花の咲く前庭へ入ると、真っ直ぐにレンガ道が続いていた。まるで「ひらけゴマ!」を誰かが唱えて閉じ忘れたかのようだ。イワンの知らない庭の奥への道があって、少し怖気づいた。入り口はレソポロサのように暗かった。

(大人ほど信用できないものはない。こんな場所で何をされるのだろうか)

 庭園に入ると、噴水が涼しげに歌っていた。しぶきが跳ねて、アイリスを濡らしていた。ライラックが芳しく匂い、フリルのついたチューリップが西日に光っていた。彼に分かる花はそのくらい。他にも、一面が花だらけだった。

(この毒々しい斑点のついた大きな花は何だろう。まるで血が付いているようだ。後ろに青いのが。こんな場所が学校にあったっけ。この紫の細長いのは確か、別名が死人の指っていうんじゃなかったか)

 しばらく待つと(イワンは早めに行動する習慣が身についていた)、隣のクラスの担任が姿を現した。この場所に相応しい、のほほんとした顔が見えた。イワンはあまり、彼の明るく大きな声が好きではなかった。黄色い花の咲きこぼれるベンチへ、座るよう勧められた。その周囲の花は一面、鮮烈な赤色をしていた。ここは西日に輝いて、眩しすぎる。

 イワンは浅めに、ラッパを両腕に抱えて座った。

 隣のクラスの担任は、二人分ほど離れて腰掛けた。

「今日もラッパの演奏、上手だったね」

(よく言われるので嬉しくもない)

「ここは秘密を話すにはもってこいの場所だ。隠しカメラも盗聴器もないことは、雑草を全部抜いた僕が保証する」

(なんの話をするつもりだ)

 噴水の作るせせらぎが耳にうるさかった。梢の揺れる音が異様に不安を掻き立てた。

「僕は去年の9月に着任したんで、君たちの春の初等教育修了式を見ていなかったんだ。学校長って昔からああなのかな? 話がくどくて、くぐもる感じの声だから聞き取りづらくて、たまんないよな」

(なんで今、学校長の話をもちかけるんだよ)

「ほら、ご覧よ、ここは夕焼けがよく見えるんだ」

「夕焼けなんか見たくない。先生って、悪趣味だね」

 イワンは目を合わせずにラッパだけを見つめて、皮肉いっぱいこめて言った。

「えっ何が……噴水か? あの形ないよな。もうちょっとローマみたいにライオンとか、ブワーッとさ」

 いらいらとしたイワンの言葉がイズマイールの口を遮った。

「要件は何? 早く言ってよ。ご飯食べに行きたい」

「あーごめん、ごめん」と隣のクラスの担任は頭をかいた。

 イワンはもういいと立ち上がった。

「用がないなら行きます。二度と話しかけないで下さい」

 引き留めようとする教師の声が、後ろ髪を引っ張った。

「本題がまだだ。君、去年何かあったのか?」

 どきりとした。やっと目を合わせた。噴水のしょぼい音だけが聴こえた。

「何が……何があったか知りたいなら、それなら、こんな再現したみたいな悪趣味な庭を潰して下さい。僕が言えるのはそれだけです。他の人は弱くなったようですけど、僕は違うんですから。このまま……このまま……学校を主席で卒業しなければならないんです。余計な詮索をして、邪魔しないで下さい。それか、僕がここへ火をつけるかもしれない」

 どういうことだ、と腕を掴もうとする教員の手を振り切って、小柄なイワンは走り去った。同級生に声をかけ、混ざり、中庭を少しだけ振り返ったが、そのまま食堂へ行ってしまった。

 イズマイールにとっては、普通の子どもに近いように見えた。しかし、腑に落ちないところがあった。言葉の端々をよく検討しなければならなかった。




 私、イリーナ・セミョーノヴナのもとへ電話がかかってかきたのは夕方のことだった。それは思ってもみない人物からだった。イズマイール、彼は十数年程前に一度会ったきり音沙汰のなかった義理の兄だった。

 電話をかけてきて唐突に、明るい声音で、まるで先月会ったばかりかのように、馴れ馴れしく直接会って話がしたいと言った。

(なんだこいつは、あんたに妹呼ばわりされる覚えはないぞ。私は忙しいんだ。それに私がトムスクにいるなんて、なんであいつは知ってるのかね? 臨床心理学を独学してることまで、嘘だろう。そうだ、私は彼のことを十三歳の姿でしか知らないのに)

 私の中のイズマイールは、背の低いやんちゃ坊主のままだった。荒れ野から拾われてきたばかりの犬のように、縮れてボサボサの赤毛、しかも全身ソバカスだらけだった。伸び切ったボロを着て、穴の空いた靴を履いていた。酷い臭いだったので、年頃の娘だった私は家に上げるのに反対した。

 辛くあたったので、彼はすっかり怒って、その矛先は父へ向けられたのだが、意味の分からない語句を喚き散らした。ところどころ、ヴァイナフ、ノフチ、ウェズデンゲル、ナーナ、アーニャという言葉が耳に入った。そして私に向き直って、「あなーた・アーニャ! おーんな・わかる! いい・ない! きまり・クルアーン・しる? だろー! なぜ・おなじ・へや・いるか?」と、カタコトのロシア語をぶつけてきた。このソ連という国にいながら、こうもロシア語が下手くそな民族がいるだろうか? 顔立ちからすると、ウクライナ系に見えた。しかし訛りはコーカサスのものだった。彼は父がカザフスタン勤務の時に、引き取った孤児だと聞いた。数日間、私と母の暮らす家に滞在したあと、仲が悪いまま別れた。それっきりだった。

 電話口の彼は、同じ人間とは思えないほど饒舌だった。さらに詩を朗読するような完璧なロシア語の文法とイントネーションだった。

 父にくっ付いてチェコのソビエト学校へ編入したことを、風の噂で聞いたけれど、十数年の歳月で人はこうも変わるのだろうか。それとも、イズマイールの名前を騙った偽物だろうか。ひとまず、彼には私の元へ来てもらうことにした。用件のある方が出向くべきだと思った。研究室を掃除しつつ、私は考えた。

(一体何の話をするつもりだろう。まさか突然、想い出話などするつもりはないだろう。何が何でも会いたい、と急いでいたことが気にかかる)


 イズマイールと自称する人物が私の研究室を尋ねた時、ちょっと驚いた。その容貌も性格も、ここへ最近出入りしているКГБ職員が話していた「先輩」とそっくりだったからだ。その旨を話してみると、「えっなんで僕がКГБに入ったことを知っているんだ?」という間抜けな答えが返ってきた。しばらく二人とも固まってから、私が切り出した。

「君の後輩はデニース・ハヤトヴィチというんじゃないか?」

 その通りだ、と彼は身を乗り出して首を振り、世間は狭いなぁと唸った。

「それじゃあ、まずデーニャの話をしよう。あいつは今頃くしゃみをしているだろうな、デーニャに幸あれ! 彼はここへ何をしに来ているんだ?」

 その頃、私が勤めていたトムスクのソ連科学アカデミーでは、КГБ職員の立ち入りは稀なことではなかった。国家お抱えの学園都市だからだった。

「キツネを可愛がりに来ているんだよ」

 エキノコックスの研究という名目で、キツネを通して、動物の家畜化の経緯を遺伝の分野で調べることが私の仕事だった。ソ連において遺伝学は支援されないので、ほぼ私財を投げ売ってのことで、デニースにも、もちろんイズマイールにも悟られてはならなかった。 

 ところが「ふぅん」の一言で、その私にとって危険な会話は無事に終わった。この人は、КГБ職員にしては純粋すぎやしないかと思った。

「今度あいつへ、キツネってエキノコックスがあるから触っちゃだめだと言ってやろう。こそこそと可愛がりに通っていたとは、抜け目ないなぁ。うちにはちゃんと猫がいるっていうのに。犬派なのか?」

 私が笑ったことで、場が少し和らいだ。しかし何のために来たのか、目的がはっきりとするまでは、油断してはならない。デニースに媒介となってもらってなごんだところで、ここは単刀直入に聞くことにした。

 壁に耳あり、障子に目あり、なのでキツネの飼育舎で鳴き声の多い場所に移動した。部外者が立ち寄ることは不自然でないのと、他の研究員が帰ったあとなので、会話はわりとスムーズだろう。それでも、細心の注意を払わなければならなかった。

「それでイズマイール・イリイチ。突然私に協力を仰ぎたいなんて、どうしたんだ。具体的な内容を聞きたいんだけど」

 人助けのためだ、と彼は私を真っ直ぐに見て言った。

「君の心理学の知識を借りたい。今僕には、話を聞き出したい子どもがいるのだけれど、人の心を開かせる魔法について、アドバイスを受けることはできないだろうか。もし、負担でなければ」

 私は口ごもった。一年前の失敗体験が蘇った。できれば、もう臨床心理へ関わりたくなかった。次の言葉を聞くまでは、この不躾な客人の頼みを断ろうと思っていた。

「どうしても、心を閉ざした子どもが一人いるんだ。その子は自殺未遂をした。今後も繰り返さないか心配だ。だから訪ねた。こんなご時世でも、君がプラハの春を利用して、西側の専門家のもとで人の行動の裏側について学んだことを知っている。大祖国戦争の兵士たちの、トラウマについて研究をしたんだってな。そう、そうだ、その子の名前は二十六番っていう。いや、本名は……」

 私は事情を捲し立てる彼に参ってしまった。

「今君へアドバイスできることがあるとすれば、ちょっと黙った方がいいということかな?」

「えっなんだって?」とキツネにつままれたような顔で、彼は私の言ったことを繰り返した。

「対人関係は傾聴することが大切なんだ。自分の意見は極力しないで、相手の話を聴くの。

 君も好きなように話す時、相槌だけを打ってもらうと、見守られてるって感じがするだろ? 思いの丈を聞いてもらうだけで、人はスッキリするんだよ」

「でも……」と彼は表情を暗くした。

「いや、すまない。喋りすぎるのは僕の悪い癖なんだ。デーニャが傾聴というのが上手だなって思った。直さないとな。愛想を尽かされたくないよ。しかし困ったことに、二十六番は、あの子は一言も自分から話をしてくれないんだ」

 そう言って今度はギリッと爪を噛んだ。見ているだけで、こちらも嫌な味を感じた。このもう一つの悪い癖は、大昔から変わらなかった。

(やはり私が少女時代に会った、イズマイールという男の子なのか)

「その子の身に、何があったのか分からない?」

 彼は爪から口を離して頭を振った。そしてお手上げだというように、両手をヒラヒラさせた。

「つまり、私にその子のセラピーをして欲しい?」

 思い切った提案に、彼は食らいつくような目を向けた。

「仕事の邪魔にならないか」

 さっき、子どもの本名を聞いた時から、偶然とは思えない巡り合わせが、私は恐ろしかった。何者かの手で、人生を操作されている感覚がした。彼から目を逸らして、キツネたちへ視線を落とした。

「この研究は、臨床心理学ができない代わりに携わっていただけなんだ。ここのチーフはもっとキツネたちへ情熱をかけているから、私一人が数時間欠けても大丈夫」

 イズマイールは助言しかもらえないと思っていたのだろう、喜色満面になって跳び上がった。

「良かった、良かった! 心細かったんだ! やっと、きょうだいらしいことができるな!」

 キツネたちがびっくりしてケンケンと吠えた。

 明日からさっそく、私はその子どもへ会いに行くことにした。



次回は新しい先生が登場します。

どうぞお楽しみに!

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