一話 庭造り
なぜ、少年は美しく蘇った庭で命を絶とうとしたのか? KGB赤旗学校・極秘調査録。
1978年の春、ソ連、オムスク市。
シラカバ並木を、透き通るような風が吹き抜けた。木々はよくしなり、ざわざわと梢を揺らした。氷点下にあっても、淡い緑の芽を沢山くっ付けていた。
春の気配が、一人の若者の胸を高鳴らせた。
その日、彼は珍しく早起きし、宿舎の窓を開け放った。降り積もるはずの雪がない。地面は、凍った水滴が陽に煌めいていた。いつも世話している庭の姿を見に行こう――そう決めた一歩が、後に思いがけない事件へとつながる。
時は半年前のこと。
彼、イズマイールは1977年の秋から、教師としてこの学校に赴任した。どのような子どもたちが待っているのだろうと半分わくわく、うまく仕事ができるだろうかと半分不安な気持ちだった。ところが教職とは無縁の仕事を受け持った。思わず土地の所有者になったのだった。
そこは誰かの趣味で作られたものの、十年ほど放置された花壇だった。草茫々で、荒れ果てた秘密基地。風に乾いた茎がきしみ、苔むしたレンガ道は途中で途切れ、入り口さえも見えない。まるで町の外れに点在する、暗い森のような静かさだった。
前任者によると、こんな奥まった場所、誰も見ないからやる気が出ないのだそうだった。園芸部顧問の彼(部員は0人)アラムは、その夏にめざとく、レンガ道が途中で切れていることを不審に思った。そして庭園を発見したと胸を張って言った。
アラムに案内されて、一所懸命分け入ってやっと、イズマイールは自分がツルバラのアーチの中にいることに気がついた。
「なにこれ、出入りする度にトゲがささって痛いじゃないか」
「よいしょ。これでもね、刈り取った方なんだよ」
そのつるバラと、芝生として施されているクローバーは、アラムが発見する前から植えてあったらしい。
「中央にね、アネモネとポピー、スミレ、ムスカリ、クロッカス、カンパニュラが眠っているんだ。それくらいは……えっわからない? まぁ綺麗だよ。配置のイメージは僕の故郷アルメニアの墓石だよ」
アラムが植えたのは全て春の花なので、冬を前にした今では雑草だけが風に揺れていた。そして中央にズドンと、ペンギンの置物が立っていた。
「なんでペンギンがいるんだ。おい、これってもしかして……噴水?」
イズマイールがそれをコンコンと叩いても、うんともすんとも言わなかった。アラムが笑った。
「我が国の思想を表現したオブジェだと思ってた!」
「ただのオブジェに穴が開いてるわけないだろ」
球根と苗を植えたところまでは良かったが、目立ちたがり屋のアラムは、すぐに庭園へ興味を失ってしまったようだった。ペンギンが特にやる気を萎えさせる、下手なデザインだった。目は虚ろに泳ぎ、平べったい頭をしており、妙に肥っていた。ソ連にペンギンは生息していないのに。
イズマイールが白いものにつまずいた。
「貝殻が落ちてる……ここにも! あっあそこにも!」
「海の砂が敷かれてんじゃないの?」
「海!? なんてこった! 初めから塩害じゃないか!」
この学校を設計した人間は、労働をしなければ犯罪者とみなされる国に暮らしながら、土壌の知識がなかったらしい。
「植えた球根も溶けたかもね」と、のんきにアラムはぼやいた。
イズマイールは青ざめた。こんなに酷い有様の土地だとは思わなかった。
そもそも彼は、花という可憐な代物へ関心を持ってこなかった。着任早々、「君は今から園芸部顧問だ! 僕の土地を夢のような花壇にしろ」だなんて言われた時は面食らった。相変わらず先輩という存在は無理難題を言う。
それでもイズマイールには農作業の経験が一応あった。それに、彼の母親は大変花を愛していたので、やってみてもいいかなと安易に引き受けた。
母は痩せた砂地にさえ、赤切れだらけの指で線を引き、ここにはあの花を、ここにはあの木を植えよう、故郷のようにしたい、ああ何て素敵な庭……と、独りごちていた。母はスラスラと彼には想像もつかない花の名前を並べていたので、ちょっと不気味だった。何一つ実現しなかったのだが。
イズマイールは考えた。
(人生は短い。せっかく、祖父の時代の富農のように耕作地を与えられたので、これも神の慈悲だ。面倒がらずに、聖なる努力のできる機会を活かしてみよう)
そう、イズマイールは隠れイスラームだった。ソ連において宗教は禁止されていたので、礼拝もこっそりと行っていた。
売店で母が植えたいと言っていた花を買ってみた。彼の母が亡くなったのは二十五年以上も前のことで、花の名前はうろ覚えだった。そんな種類ではやはり、花壇の広さを埋めることができないようだった。そこで、とりあえずパッケージの絵がぱっと見て綺麗なものを付け足した。
(いやしかし、花というものは値段が高いな。贅沢品じゃないか。しかも実費とはどういうことだ。それより車が欲しいよ。ちょっと大学の研究で温室栽培を手伝った、という自慢をしたために、こんな手に余る仕事を提案されてしまった。
ええいもう、テキトーな種をばら撒けばいいや……。いや、やっぱり真面目に取り組もう。仕事への異様な責任感というか……母に見られている気がするので。あの海の砂では、まず土壌を改良しなければ何を植えても酸性にやられて溶けてしまうだろう)
イズマイールは母が二人いたと記憶していた。一人は優しく頭を撫でてくれて、手を繋いでカリンカを歌ってくれる母。もう一人はロシア語を嫌い、お前は本物の私の子じゃないとはたき倒す母。両方とも同一人物だったのだろうか? 叩いてくる方が怖くて嫌いだった。野良仕事のために外に出るのは、そちらの母だったので、顔を合わせないようにと、ヒマワリの陰に隠れることがよくあった。
子どもの頃の記憶は不確かだ。今彼がぼんやりと覚えていることは、母の葬儀がイスラーム式であったこと。たった一度きりの葬儀で、二人共いなくなったということ。加えて、その時「死ぬ」という現象を理解できる年齢ではなかったので、葬儀中カリンカを歌って父にきつく叱られたこと。その三つぐらいだった。以降、父は生前の母達の話を断固としてしなかった。そして彼が十三歳の時に亡くなった。だから、もう誰も現実の母の姿を教えてくれない。
そんなとりとめもないことを考えながら、イズマイールは酸性の花壇の土を耕してみた。これは根気のいる作業だった。何しろ、彼の育ったカザフスタンと同じくらい雑草が手強かった。何度抜いても生えてくる、こいつはハマスゲという厄介者だった。地下の何十センチも深くに、最大で赤ん坊の頭ほどの大きな塊茎を持っている。地上部を切れば新しく萌芽し、刈れば刈るほど増えてしまう。園芸家にとって史上最悪の敵である(これは彼の大学の教授が言っていたこと)。
額に汗をかきかき、一週間かけて、独りでテニスコート二枚分もある土地を耕した。
イズマイールは、よっこいしょと腰を叩きながら思った。
(ハマスゲは根絶できなかったけど、あらかた根は抜いたし、伸びてきても花で隠れるから良いだろう。自分が世話をしている間は。後任が放置すると、ここの庭はたちまちハマスゲに支配されてしまうに違いない。
ああでも、こんなに働いたのはカザフスタンのコルホーズ以来だ!
あー腰が痛い。頑張った、頑張った!
最初は土が爪の間に入ることや、砂埃で服が汚れるのが不快だった。地面にしゃがみ込むのも抵抗があった。でも、ブーツが新調したばかりで柔らかくないので、足が痛くなって、終いには脱いで裸足で作業した。何でも洗えばいいんだ)
やっと苗の植え付けまで終わった夜、初霜が降りた。КГБ職員へ与えられたにしては狭い私室で、窓を閉めてイズマイールは思った。
(念の為、シラカバの落ち葉で全体を覆ったので大丈夫。腐れば尚良し、多分。リヤカーで落ち葉を運んでいる間、他の職員から変なものを見る目を投げかけられたことは気にしない、気にしない。
果たして母の思い出の花たちは、地下深くのハマスゲに食らい荒らされず、開花してくれるだろうか。母がかねがね育てたいと願っていた、あの名前しか知らない花たち。
こんなままごとは、そうしなければならないという焦燥感にせっつかれて、しているだけのことだった。ただ、今の生活が虚しくて、満足行かない腹いせで。ひとまず今日、職員寮から見える庭は白一色。はげちょろげ)
オリオン座が高く昇る、ある冬の夕暮れのことだった。イズマイールは枯れ葉を掃除して、嬉しさのあまり飛び跳ねた。もちろん球根を踏まないように小さく。
(あっやった! クリスマスローズがちゃんと咲いている! 俯いてるけど咲いてるよな?
シクラメンも元気だ。そんで、喜ばしいことにスノードロップの白い芽が出てきている!
こいつは球根がでかくて、周りに何も植えられなかった。夜つゆに濡れて、なんて愛らしいんだろう。これは『十二の月』で精霊の咲かせる花だから、大切にしたかった。あの演劇は田舎でも演じられたから、とても好きだ。スイセンが雑草化して野に群生していることがある。あれのように、きっとこれから増えてくれる。記念すべき第一歩だ! スプートニクの打ち上げを見た時よりも嬉しいな。こんなに生き物の成長を見守ることが嬉しいだなんて!)
このように花壇へ変化がおき始めて、彼は昼休みと帰宅時に決まって、様子を見に行くようになった。
(どうやら自分は、ここへ世話を焼けば焼くほど、記憶の中の母に認めてもらえると錯覚したらしい。まったく親の呪縛ときたら……。温室を手伝っていた時から何やら感じていたけれど。あの時は、白いオーニソガラムと、トケイソウを育てたな。本当に時計みたいな形をしてるんだもんな。奇妙な作り物みたいな花だった。こうもはっきりと、衝動に突き動かされるのは初めてだ。母の夢見た理想のガーデンを作らなければならない。十分茂ったら、もうそれでおしまいにしよう。もう三十歳なのだから、親への気持ちに蹴りをつけておかないとな。あっそうそう、本業も集中しなきゃね)
すっかり花壇の話ばかりしてしまったが、彼の大部分の時間を占めていたのは、植物よりもデリケートな、年端のいかない子どもたちの相手だった。イズマイールは大学で教育実習を受けたが、間に兵役も挟んだので、教員としての経験は付け焼き刃のようなものだった。
彼は、前向きに明るく物事へ取り組む精神を持っていたが、爪を噛む癖が酷くなったと実感していた。噛むことを我慢すると、爪周りを引っ掻いたり、爪自体を剥いだりしてしまう、自身でも気になる悪い癖だった。清潔ではないから直さなければと悩んでいた。
彼はこの学校の生徒に違和感を持っていた。集団が放つ言いようのない不安。それが彼に伝染して、授業を余計に暗いものにさせた。教員たち全員の何かを隠している雰囲気、沈黙。
(奇妙だ。なぜだろう。いや、余計な詮索はするまい。この学校の持つ秘密は、立身出世の弊害になるかもしれない)
花壇へ来ると安心した。凍った泥を踏みしめると、冷たく湿った匂いが立ちのぼる。僅かに出ている緑の尖端たちが心を安らかにした。イズマイールは一人で土にしゃがみ、観察した。
(これはフキノトウ。極東から取り寄せた。ハシリドコロと似ているから注意。フキノトウは食べられるけど、ハシリドコロは食べられない。食べると走り回るからハシリドコロっていうらしい。つまり毒だ。デルフィニウムとベラドンナも毒。
図鑑をめくれ、図鑑をめくれ。勉強しながら、勉強しながらだ。まぁ誰も食べないよな。ジギタリスもクリスマスローズも、チューリップも、僕の植えた花皆毒じゃん。案外花って有毒なものが多いんだな。
おっ口紅スイセンの蕾が大きい! シラーも!
アラムのアネモネと新米のアネモネは仲良く咲こうとしている。靴で地面を踏みしめれば、土と雪のもつれた音がする。ペパーミントとデンジソウがすっかり根を下ろして、伸びている。氷った苔の上を踏む心地よさったら。ローズマリーが冬に元気な花だとは。さっと枝葉に触れて、手に付く香ばしいかおり。戦没者の慰霊碑に植わっていたことを思い出すなぁ。
今ではアラムが、前庭へローズマリーを、中庭へ花を、ハチュカルに見立てて植えた理由がよく分かる。もういない人へ言葉が届くなら、後悔で身を焼かれずに済むのに)
中庭は夕焼けがよく見えた。東西とも渡り廊下なので、隙間で太陽がよく光った。先祖の崇めた太陽が、遥か寒々しい湿原へと沈んでゆく。雁たちが帰ってゆくのが見えた。
(そういえば、文学に今の情景をよくあらわした一節があった。そうだ、アルチュール・ランボーの詩だ。太陽と水面の溶け合うその一瞬を「永遠」とよんだ。いいもんだなぁ夕焼けって)
彼は涙ぐんだ。文学部卒業で、根っからの情に厚い性格だった。
西から日差しが強烈に差し込み、花壇へ最後の温もりを与えた。
(ここは朝と夕、日差しがきついから、夏には水やりを頻繁にしなければならないだろう。昼には一部が影になるからちょうどいい)
一番星が輝きを増して、夜の帳とともに降りてきた。一時間に十五度ずつ。カザフスタンよりも緯度が高く、みずがめ座が半分までしか見えない夜がやってきた。彼が好きな天体の運行を、他に誰もいない校舎の中庭でじっと眺めた。
(カザフスタンではもっと天の川まで見えた。もう一度見に行きたい。車があればなぁ。ああ、靴を磨くのがまた屋内になる。部屋が靴墨と土で汚れるのは嫌だな。それでも、度々繰り返してしまう。少佐にもなるのに、この学校へ来て、洗濯も炊事も自分でしなければならなくなった。前は当番が制服のアイロンまで、シワ一つなくかけてくれたのに)
彼は孤独を噛み締めていた。
イズマイールの経歴の話をしよう。
彼は大学卒業とともに、国境警備隊としてアルメニアの奥地へ派遣された。遠い文化圏なので、二年間はひたすら大変だった。やっと慣れた頃には任期満了の退役で、せっかく学んだアルメニア語も活かされずじまいだった。
警備隊の時分にКГБのオファーを受けて、訓練を受け、順調に昇進した。最初は兵役も、КГБへ入ることも抵抗があった。本心は体制を嫌い、そっぽを向いていたからだった。
胸のうちに国家へ反発を抱えているのに、КГБの卵を育てるために働く矛盾が悩ましかった。しかし、体制を変えるためには内部から昇り詰め、働くしかないのだと知っていた。
1968年、「プラハの春」が武力によって潰された年、カレル大学の学生で地下活動をしていた彼は、全身で大国の軍事力に戦慄した。友人が一人、焼身自殺をした。他も逮捕されてしまった。だから、官僚になる道を選んだ。こうして彼はКГБ養成学校の土を今踏んでいる。
(でもなんか、もう堕落しきった世界に嫌気が差して、どうにでもなれって感じ。この国は一人の力では弱すぎて、変えられない。花壇の土地でさえ手に余るというのに。このまま用務員に転職するのも良いかもな)
花壇も学校も、彼自身の地位や立場も、あらゆるものが朱と群青に霞んでゆく今だけは、どこへでも行けそうな気持ちになった。やがて薄明が終わり、ふたご座が頭を見せるまで、彼はじっと立っていた。実はもう一人、別の時刻に花壇へ通い、太陽を見ている人間がいることを知らずに。
刻一刻と時間は過ぎた。イズマイールも仕事に不慣れではなくなり、子どもたちの個性がやっと分かってきた。相変わらず、語弊がある表現かもしれないが、普通ではない子どもが多い気がしてならなかった。
数回、それぞれのペースに合わせた個別授業を心がけてみた。寮の主人にも話を聞き、間に入ってもらった。いわゆる三者面談だった。親がいない児童たちにとって、寝起きを共にする大人がその人だった。寮での生活を知る良い機会になると思った。
ほとんどの子どもたちは年相応の、例えば普段は敬語を欠かさない子が、「恥ずかしい! 言わないでくれよ」と寮の主人へぶっきらぼうな態度を取るなど、様々に新鮮な一面を見ることができた。しかし、一部の子どもたちには効果がなく、頑なに黙り込み、心を閉ざしたままだった。イズマイールは不思議でならなかった。
(僕が同じ年齢の頃は、もっと外を駆け回って、沢山悪さをして、大人をからかい、それを友達と自慢し合い、日暮れまで遊ばずにいられなかったものだ。ここの生徒たちは至極真面目で、バレエ学校のように秀麗だ。礼儀正しいのは教育のたまものだろう。ただ、目に光のない子どもの存在があること、その子達の成績に極端なバラツキを見受けられることの理由までは、分からないな)
1978年1月。
それまで彼は学校で一番若い新米教師だった。しかし早くも後輩が着任した。名前をデニース・ハヤトヴィチ・フジといった。日系ロシア人だった。
「僕、イズマイール・イリイチ・ベーザム。日本の浮世絵と古典が大好きなんだ! 本物の日本人に会ったのは初めてだ、凄く嬉しいよ! えっホクサイを知らないの? まぁいいや、一緒に花壇をやろう! そんな嫌な顔をするなよ。僕のバディになったのが運のつきだったな。
えっその歳でもう車持ってるの!? いいなぁ。これからヨロシクな。
今ロストフにいる先輩が、球根をよこしたんだよ。僕が熱心なのを知って。えーっと、アネモネとムスカリ。それとワスレナグサの種。母国の花だからって。彼、祖国愛が強いんだ。アラム・ソゴモニヤンっていう。アルメニア人のアイデンティティは複雑みたいだ。
僕は自分をチェチェン人だと思っているけれど、両親がそうだからで、育った場所はチェチェンじゃないんだ。だから、どうして国土を離れても自分をアルメニア人として誇ることができるのか、ちょっと羨ましい。君はどうなんだい? ロシア人? それとも日本人? ソ連で人種はそんなに重要じゃない、か。そうだな」
コブシの花が咲いて散った。モクレンもそれを追った。孤独だった彼のおしゃべりは止まらない。
「君、生物と化学の教員だろ? だったら、この荒れ切ったガスガスの、一時間で乾ききる土に、どんな肥料を与えればいいか知っているだろ? えっ誰でもチッソ・リン酸・カリウムは習うでしょ、だって? それが後輩の台詞かい。
えへん、僕はこう見えてカザフスタンの実験農場出身なのだ。しかし、真面目に働かなかったから軍人のもとに厄介払いされたのだ。その、ぴょんぴょん跳ねてるハマスゲみたいにさ。とまぁ、それぐらいの知識しかないんだ。頼むよ。
さて、ここにポピーの苗がある。雪を掘って植えましょう! それから、ネモフィラ、ルピナス、ラナンキュラス、アマリリスなどなど。植えるぞ! やることはてんこ盛りだ!
さてどこに何を植えようかな。見てくれ、ここに君と同じ名前の木を植えているんだ。フジ。さらにこの下にはルピナス、日本語でノボリフジ。それにブドウ。実がなるかな? なると思う? 実ったらジュースにしよう。
このキングサリも写真で見て、綺麗だったんで取り寄せたんだ。立派だろう。なに、職権乱用だって? 自腹を切っているんだから違うって。ここはただの、学童と教員、全員の憩いの場! ほら、噴水もあるだろう。ジンジャーの向こう。壊れて水出ないけど」
後輩の献身的な手伝いもあり、その春には見事な花々が咲き乱れた。
玄関のアーチにはツルバラが元気よく巻き付き、大輪になりそうな蕾をつけた。門をくぐれば、巨大なチドリソウが立ち並ぶ右手。石畳へ赤と青の花弁をはらはらと落としている。
左手にはヒースとビオラのウェルカムボード。奥にはイチジクが差し掛かる水場。足下には雪解け水に透けるクロッカス。咲いたり閉じたり、光に合わせて呼吸するかのようだ。
後輩のデニースが思いのほか有能な人材で、噴水を直してくれた。だから水がひたひたになる池に、デンジソウとニオイスミレを敷き詰めた。それは雪解けの水面を覗き込んでいるような形をしている。そこから林立するように、ポピーとアネモネを植え付けた。夏にはアイリスが咲くようにした。イメージはコーカサスの石塔だった。
日向にはアッラーの愛したゼラニウムと赤いバラもあった。日陰にはユリが夏を待つように、緑の槍先を立てている。
水辺を離れれば、デルフィニウムの青が空を映している。オダマキの花はシェイクスピア劇の舞台から抜け出したように立っていた。その周りにはフェンネルの細葉が香りを放ち、キンセンカがまぶしい橙で輪を描く。ヤグルマギクが、王冠のような花形を青く輝かせる。
ああ匂いだして全体を華やかにしているジンチョウゲ、菜の花の目の覚めるような黄色!
さらに奥へ進むと、大きなキングサリとフジで囲まれたベンチがあり、秘密めいた雰囲気を醸していた。
ブドウも誘引が上手くでき、添え木に従って枝を伸ばし、花をもうじき付けるだろう。
庭を歩くと、花々はまるで時を分け合うように咲いている。香りが混ざり、色彩が寄り添い、葉と花弁が風とともにさざめく。それは、かつて彼の母が夢見て、叶わなかった花の配列を、自分の手で描き直しているかのようだった。
アーモンドがバラ科の木々のどれよりも早く咲いた。ヘブライ語で「神は見ている」という掛詞がある。神とは母のことだろうか、とイズマイールはふと思う。
ユダが首をつったというハナズオウが隣にある。春は聖典とギリシャ神話の季節だと実感する。
園の外側は円を描いてアセビやアンズ、サクラやスモモ、リンゴやナシの苗木たち。それからニワトコにローリエ、マルメロの若木もある。八重咲きのクチナシと、ヒイラギが匂う日が楽しみだった。ザクロとライラックがもう一つの出口を覆い隠す。
イズマイールはデニースの肩を抱いて大喜びした。
「これは素晴らしい庭になるぞ。たったものの半年で、そう半年で! 生まれ変わったんだ!」
デニースは雑草を抜きながら、先輩に揺さぶられても無表情で答えた。
「そんなに嬉しいっすか。まあ、あっしの運んだ、牛糞と石灰のおかげっすね」
「それもある。なあ、周りの教員たちも褒めてくれたよ。昼休み、たまに見に来て声をかけてくれるんだ。嬉しいったらない。僕の存在意義ったらない! この庭に名前を付けたんだ。シェイクスピアガーデン。古典文学は禁止しないソ連の学校に、相応しいだろ?」
生まれ変わった花壇とともに、イズマイールもまた生気を得ていた。花を通して人との繋がりを得て、土に触れるごとに、葉に触れるごとに愛おしさがこみ上げて、今ここで生きていることを感じた。
(太陽の運行と、雨雪のありかを肌で感じ、まるで実家へ戻ったようだ。そこよりもうんと豊かだ! 水も花も木々も。ここへ来てよかった! ずっと植物と言えばヒマワリの種と、ニガヨモギの悲しい味しか知らなかった。晴れた日は喜びが弾けて跳び上がりそう。雨の日も風情があるや。デーニャが持っているカメラで写真を撮影してもらった。早春のなんて美しい、生命力あふれる季節! 全然知らなかった。
そういえば、母の名前はなんだっけ。昔から聞いたことがない。思い出したことが一つだけあった。カリンカの歌は自分がお腹の中で聞いたんだ。確かにはっきりと思い出した。赤くて暗い闇の中、母と一緒に歌っていた。それなのにどうして、母は後になってカリンカを嫌ったのだろう。いや、逆だ。どうして母は、チェチェン人なのにチェチェンの子守唄ではなく、カリンカを歌っていたのだろう。お腹の中で覚えるほどに)
その謎の答えは、実はもう彼が十三歳の時に到達していたのだが、認めたくなかったのだろう。この時、記憶に固く蓋をしていた。
アネモネが蕾を大きくつけた次の日、イズマイールは、そういえば早朝の庭を見たことがないことに思い至った。日の出と共に身支度をして、バディのデニースを起こさず、先に勤務先へ向かうことにした。噴水もせっかく直ったと思えば、また止まり始めた。いっちょ修理してやろうかと思った。ほんの偶然だった。
イズマイールはすっかり芳しい花の香りに満ちた庭園へ分け入った。
モッコウバラは大きな蕾がはち切れんばかりに膨らんでいた。タンポポは眠っている。しかしアネモネとポピーは、太陽に向かって花を開いているはずだった。
今日の朝でなくては、陰る昼や夜では閉じてしまう。その前に見ておこう。待ち望んでいたのだから。そう期待に胸を膨らませて、彼は庭に一歩踏み込んだ。
ふと、中央にある噴水の足下がおかしな色をしていることに気が付いた。
(噴水は動いていない。花は林立するように植えたので、こんなに赤が密集するはずがない。薄く凍った水面に浮かぶ何か赤い、インクのような。逆光に黒い影……人だ!)
イズマイールは驚いて足元が揺らいだのを、やっとのことで倒れないように堪えた。
(まるで、あの有名なオフィーリアの絵のようじゃないか。まさか)
人影の手首から赤黒いものがモヤモヤと氷の上に広がっていた。
(死んでいるのか?)
とにかく無我夢中で倒れている人の手首を抑えた。駆血帯がないので代わりを探した。
(そうだ、ネクタイだ。壊死しないでくれよ)
きつい朝の光に目が慣れて、やっと何者かが分かった。眩しいあまりによく見えなかったその人は、担当している学童の一人で、二十六番と呼ばれている子どもだった。
(誰かを呼ぶにもここでは。まだ医務官も出勤していないのではないか。こんな淀んだ沼の氷にさらされて、早く消毒したいのに……。ただでさえ血の気の薄いその子が、死体のようにぐったりと目を閉じて動かない。そうだ、警備はいる!)
やや躊躇ってから、二十六番の頭を固定しながら抱えて、靴と制服に泥と血が付くのを見ないふりをして、警備室へ連れて行った。幸い、脈がまだあった。
(助けなければ、僕が人殺しになるじゃないか! どうしてこんな……こんなことに。あの場所に二十六番が来たことが一度だってあったろうか? 三者面談をした時も、押し黙っていた。決まって夕方になるとヒステリーを起こして、意味の分からない言葉を口にしながら暴れるので、十五時以降は医務室へ隔離をしていた子だった。そんな扱いをし続けた僕のせいだ。気が付くことができなかった。仕事を疎ましく思って、子どものSOSを無視し続けた)
イズマイールは激しい後悔に苛まれながら、二十六番の手首をギュッと抑えて、長い早朝を過ごした。
「少佐、イーラ少佐」
声がぼんやりと遠くから聞こえた気がして、ふと我に返って顔を上げた。
「珍しく朝っぱらからいないんで、出勤したらコレですか。よく見つけましたね。もう抑えなくて良いですよ」
相手の主が後輩のデニースであることをやっと認識して、イズマイールは「ああ……」と小さく相槌を漏らした。細い手首を離して、担架にのせた。医務官があとは処置をしてくれる。
(ずっとあの子の鼓動を聞いていた。スッと消えてしまわないか酷く不安だった。元々色彩も存在感も薄い子だったので、あの時こうしていれば、という悔みしか湧いてこなかった。ただ、申し訳なさと、自分の目の節穴さを呪うばかりだ。職務を忘れて何をしていたのか)
「発見が遅れなくて良かったんですよ。氷で出血が多く見えましたが、傷は深くなかったんです。イーラ少佐、元気出して下さい。他の子が見てるんですよ」
(そうか……他にも、そうだ、他にも似たような状態の子どもがいるかもしれないんだ)
そう思い至って、イズマイールは重い腰をようやく上げた。自分が何をするべきか、滾る気持ちがした。漠然とした不安の代わりに使命感が全身を満たすのを感じた。
「デーニャ、手伝って欲しいことがあるんだ。もう花壇はいいんだ……。学童のことで。面倒かもしれないけれど、頼む、ついてきて欲しい」
やや間をおいて、無作法な返事が返ってきた。
「はいな、やっと教師らしくなりやしたね」
後輩のそんな言葉を聞いても、イズマイールは憤りを感じなかった。
(大体デーニャはこういう人間なんだ。それでいて、僕よりも周りが見えている。臨機応変に仕事ができるタイプだ。自信が足りず、優柔不断な僕にはない、ぶれない芯を持っている。一回りも歳下にも関わらず。かといって、デーニャが自分を馬鹿にしたり、嫌ったりしている感じはしない。まるで古くからの友人のような感覚だ。恐らく互いにそう思っているのだろう)
「とりあえず、授業してから詳しく話し合いましょうや」
(デーニャは心強い仲間だ。霧のような不安に包まれたこの学校で、最近まで部外者だった人間は彼だけだ。
そうだ、客観的に見直してみよう。二十六番は最初からおかしかったので、恐らく発端は、自分が赴任する以前にあるに違いない。子どもが自殺未遂をするなんて、あってはならないことだ。何があの子を追い詰めたのか、真相を解き明かさなければ。
ハナズオウが散り、やがてリンゴの花が咲く。ブドウが収穫できるまでには、必ず)
次回から謎解きが始まります。どうぞお楽しみに!




