ダンジョン編-54
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暗闇だった。
漆黒の闇と言っていい。何しろすぐ横に立っているはずのエレナ王女の顔さえ見えない。
今も息づかいが聞こえるほど近くにいるはずなのに。
そう、俺はエレナ王女と一緒に飛び込んだ『虚空』の中にいるのである。
通り抜けられるはずもない小さい穴に飲み込まれた俺たちは、気がつくと完全なる闇の中にいた。
背後の穴は既に消えており、どうやら一方通行らしいことがわかった。残されたフィッタさんとオナシスさんのことが心配だったが、エレナ王女が言質を取ったとおりならば、俺がいなければ大丈夫だろう。むしろ巻き込んでしまったエレナ王女に申し訳がなかった。
そもそもここも安心かどうかまったくわからないのだ。
同じことを考えたのか、俺の腕を掴むエレナ王女の手に力が込められる。
そして、暗闇を隔ててエレナ王女が怖々と声を出した。
「……あの。ヤジット様、ですよね?」
「あ、はい。ヤジットです。なんかすみません」
あからさまにホッとした気配が伝わって来た。
頼りない俺でもいないよりはいい、と言うことなのだろう。本当にこんなふがいない俺で申し訳ない。フィッタさんとかオナシスさんとかの方がよほど頼りになっただろうに。そもそも俺には『虚空』に飛び込む決断など出来なかった。確かにその方法はあの『魔人』(しかも俺の判断で産み出した敵)から逃れるには、たった一つの冴えたやり方だった。エレナ王女はそれを瞬時に判断し選び取った。本当にすごい人である。尊敬してしまう。
エレナ王女とおぼしきぬくもりがそっと俺に寄り添ってきた。
こんな状況なのに俺は少しドキドキしてしまった。
エレナ王女は暗闇の中で俺の頬を探り当ててそっと手を当て、
「ヤジット様はいつも変わらないので安心します。そして、謝らないでください。巻き添えにしてしまったのは私の方なのですから……ここは『虚空』の中なのでしょうか?」
「そうじゃないかなぁ。何も見えないけど」
「本当に何も見えませんね……先ほど明かり代わりに精霊を召喚しようとしたのですが、ここでは魔術が使えないようなのです。申し訳ありません」
俺は感心した。
「そ、その手があったかぁ。確かに精霊って光ってるから、状況は確認できるよなぁ。ってかこんな状況でそれを思いつくエレナさんはやっぱりすごいなぁ」
「そ、そんなことはありません……そ、それにしてもここは少々暑いですね……」
さっそく俺も魔術を試してみようと思った。
結界魔術でも明かりを作る方法がある。要は「光る」という属性を与えればいいのだ。
結界魔術を起動してみたところ、あっさりと起動した。結界魔術は精霊とか関係ないからかも知れない。
それから俺は書き換え慣れたステイタス、つまり自分のステイタスを変更し、『英雄の後光』の属性を追加した。村にいた頃、ぶち牛の出産が夜に及んだ時とかに重宝した属性だ。
次の瞬間、俺の全身が輝き始め、うまくいったことをエレナ王女と共有しようとそちらを向いて、そのまま俺は固まった。
エレナ王女が暑さしのぎのためなのか今まさに胸元を大きくくつろげていたからだった。見えないと油断していたのだろう。そのくつろげられた襟元からなんとも柔らかそうな巨大な膨らみが半ばまで見えて、俺の脳みそは完全にフリーズした。普段隠されているそれは驚くほど白くたゆんとしていた。
エレナ王女もまた俺の方を見て固まっていた。
何秒、固まっていただろう。当然ながら、その間俺の視線はずっと半球状の物体に釘付けだった。
最初に動いたのはエレナ王女で、エレナ王女は慌てて胸元を押さえしゃがみ込んだ。それから真っ赤な顔で、
「お、お恥ずかしいものをお見せして……!」
その言葉に俺のフリーズも解ける。
「え、い、いや、けっこうなものでした。眼福でした……あ、すみません。思わず本音が……」
「あ、謝らないでください。淑女としてあるまじき油断でした……それよりも、あの……こ、こんなものですが……み、見たいのですか?」
エレナ王女がなんだかうつむいて訊ねてきた。
俺は慌てて首を振って、
「あ、いえ! 見たいけど、大丈夫です。もう十分です。これ以上は多分俺には致死量ですから!」
「そ、そうですか……なんだかちょっと良く分からないですが、申し訳ありませんでした。こんなところもある私ですが、どうかお見捨てにならないで下さい」
「何言ってるんすか!? 見捨てられるのを心配しているのは俺の方ですよ!」
エレナ王女は俺の顔を見て、それからクスリと笑った。
「……ありがとうございます。ヤジット様がそのような方で本当に良かったです」
エレナ王女は胸元を直して立ちあがり、周囲を見回した。
「でもヤジット様のおかげで周囲の様子が少しわかるようになりましたね」
エレナ王女の言葉で俺も初めて周囲を見回した。
足下には地面が見えた。地面と言ってもそれは固くもなく柔らかくもない『何か』であり、土とか石とか地面らしい要素は存在しなかった。それ以外は見えなかった。つまり、お互いの姿と足下の地面以外は何も見えないわけで、これでは何もわからない。
エレナ王女は困ったように言った。
「さすがにそれほど遠くまでは見渡せませんが……」
「あー、光量上げます」
エレナ王女が困っているのなら俺は役に立つところを見せるのである。俺は、大急ぎで結界魔術を再度起動し、ステイタスに『大英雄の後光』を追加する。
ぼんやり輝くから、まぶしいほど輝くに変化した俺は芸をして褒めてもらう犬の勢いで勢いよくエレナ王女の方を振り返った。
「どうですか、これで!?」
「すごいです……! ただ、やっぱり周りには何も無いようですね……」
エレナ王女のクールなお褒めの言葉と冷静な確認の言葉通り、周囲には何一つ現れなかった。
おそらく俺の全身から放射された光は直径百メートルくらいの球状の空間に届いている。
そして、少なくとも見えているその空間には何もないように見えた。
つまり、何もない世界に俺とエレナ王女だけ。
とてつもない孤独感が俺を押しつぶそうとする。
自然と二人の距離が縮まっていた。
エレナ王女の手が俺の手に触れた。
その手がきゅっと俺の手を握った。
ドギマギしながら俺も手を握り返す。俺の農作業に慣れたゴツゴツした手に比べ圧倒的に細く繊細で滑らかな手だった。強く握ったら簡単に壊れそうだ。
エレナ王女も不安なのだろうと思う。しっかりしているとはいえ、何しろまだ十七歳。ここは一つ年長者として俺が勇気づけなければならない、とはいえ何を言えばいいのだろう、と悩んでいると、
「……大丈夫ですよ。必ず二人で元の世界に戻りましょう」
と逆に慰められてしまった。
何という情けなさ。何という不甲斐なさ。
十七歳の女の子に慰められるとは。本当に俺は生きる意味があるのだろうか。
俺は改めて俺自身に絶望していると『それ』がふと目に入った。
俺の視線より少し上に空間に固定化されたように浮いている球状の物体である。大きさは人の眼球より少し小さいくらいだろうか。黒くて背景に溶け込んでいて今まで気づかなかった。
「……?」
思わず首をかしげた。
エレナ王女が俺の視線に気づき、俺に続いてそれに気づいた。
「……なんでしょうあれは?」
「なんだろう。『虚空』とは違うみたいだけど……」
『虚空』は気体のように常に動いていた。だがこちらは不動。まったく動かない。
エレナ王女もさすがにこいつのことは知識に無いようだ。
不安がじっとりと汗を俺の手に滲ませる。
そのことに気づいたのか、エレナ王女のほっそりとした手に力が込められた。俺を元気づけるだけでなく、きっとエレナ王女も不安を感じているのだろう。
何もなかった世界に発見できた『それ』が、なにかの切っ掛けになることは容易く想像できる。
つまり、『それ』が何なのかが重要なのだ。
俺は正体を確かめるため、結界魔術を起動し、それを指定した。
すると、あっさりと『それ』のステイタス画面が開いた。
つまり『それ』はこの何もない世界で、ステイタスを持つ何かである、ということだ。
そしてそのステイタス画面には、「世界の核:レベル1。生まれたての世界。時間の概念も未実装」と書かれていた。
俺はあっけにとられて口をパクパクさせると、
「どうかしましたか。ま、まさか毒ですか!? 大丈夫ですか!!? じ、人工呼吸とか必要ですか……!?」
とエレナ王女が慌て始めた。
エレナ王女を怯えさせてどうすると、俺はシャキッとして
「あ、いや、大丈夫。これがなんなのか分かっただけだよ」
「……は?」
「これは世界の核、らしい。そしてここは生まれたての世界だって。ここには時間もないって」
「時間が……ない? そういえば……空腹を感じません」
「うん」
食事をしなくていいというのは安心だが、食事が出来ないというのは寂しい。
すると、
「つまりいつまででも脱出の方法を探れると言うことですね! いつまででも永遠に!」
とことさら明るい声でエレナ王女が言った。なるほど。そういう見方もあるのか、と俺は感心した。エレナ王女は少し不安げに上目遣いで俺の方を見て、
「あの、その……二人でがんばりませんか?」
否やも何もない。俺は即座に、
「も、もちろん!」
「よかったです……」
心の底から安堵したような声でエレナ王女が微笑んだ。
それからエレナ王女は居住まいを正した。
なぜかもじもじとした感じでしばらく黙り込み、顔を真っ赤にした後周囲を見回し咳払いをして、
「ずっと……ずっと二人だけですね」
「うん」
「他には誰もいません。つまり、そんな場所に、年頃の男女が二人きりなわけです。ゴホン。ジ、ジゼルとライセルを思い出しますね!」
ジゼルとライセルというのは、この世界で最初に生まれた女性と男性の名前である。世界で最初の夫婦になった。
「……そうだね。もう一人が俺なんかでゴメンね……」
俺が申し訳なさそうに言うと、エレナ王女はぶんぶん首を振った。
「だ、大丈夫です! そこはまったく問題ありません! むしろ好都合。二人しかいないことが重要なんです。つまり、止めるものはいません。フィッタもいないということは邪魔者はいないんです。その気になったら何だって出来るのです。なんだって! 色んなことですよ?」
真剣な眼で、やけに主張するのである。
そのあまりの真剣さに、俺が思わず、
「そ、そうだな。うん。何でも出来るよきっと」
と返事をすると、エレナ王女は不満げな表情になった。下を向き、小さな声で呟く。
「ニュアンスが上手く伝わっていませんね……どうも私にまだエロスが足りないのかも知れません。でも時間はいくらでもあるのです。その辺はおいおい……」
「ん?」
「と、とにかく二人いれば何だって乗り切れます! 私の父と母もそうでした。さまざまな難局を夫婦二人で乗り越えてきたと聞きました! 二人とも何の知識も持たずに結婚して大変苦労したという話でした。それに比べて、私は知識だけはたくさん持ってますし!!」
「へぇ、そうなんだ」
「ですから、私とヤジット様もそのように仲睦まじく、二人でこの世界で生きていきましょう。ふ、二人だけですから! 仕方ないんです!! ふつつか者ですが末永くよろしくお願いいたします!!」
そう言って俺に向かってやけに丁寧に頭を下げた。
「こ、ここここ、こちらこそ」
と俺も慌てて頭を下げた。
読んでいただいてありがとうございます。次回更新は3月1日の予定です。




