最終話『誰よりも近くで』
「嗚呼、楽しかった」
楽屋の襖を引いた氷蔵は、鏡台の前で膝を崩した。楕円の鏡には花魁が映っている。白粉をはたいた顔の片側が、持ちこんだ手燭の灯りに濡らされていた。
「帰りのお客さんたち、凄く盛り上がってましたよ! 氷蔵様がとっても綺麗で、色っぽかったって。気を失ってた人もいるって……」
後ろに立った霜吉が、花魁の鬘を外し、氷蔵の地毛を留めていた紐を解く。さらりと、濡れたような青黒の髪が、背中一面に広がった。氷蔵は悪戯な笑みを浮かべる。
「ふうん。それは悪いことをしたね。でも、他人事じゃないよ、氷蔵。御前は共犯じゃないか」
「……え?」
櫛を通す手が止まる。鏡の中の氷蔵は、にたりと笑みを深めた。
「誰のせいで色気が増したと思ってるんだい。自覚がないとは言わせないよ」
「えっ」
「いたッ」
「いっったァ!?」
振り返った氷蔵に引っ叩かれ、霜吉は頬の紅葉を押さえた。どうやら、驚いた拍子に氷蔵の髪を何本かぶち抜き、報復に平手打ちされたらしい……と気づいたのは三秒後のこと。
呆然としていた霜吉は、はっと直前の会話を思い出して赤くなり、
「あっ、す、すみません……! えっ、お、俺のせいなんですか!?」
「当たり前だろう。他に誰がいるというの。僕って結構一途なんだけど」
「は、はい……それは大変存じております……おりますけど……」
震える手つきで髪を梳かすと、衣装を脱がせて白粉を落とす。湯で搾った布巾を、目を閉じて受け入れる氷蔵が、ふと声色を変えた。どこか懐かしそうに話し出す。
「――そういえば。春河屋の若旦那を覚えて居るかい? 今日、彼奴が客席に来ていたよ」
「えっ」
「だいぶ老けてたし、頭を丸めていたけれど。贔屓の顔ってのは、十年経ってもわかるもんだね」
穏やかに笑う氷蔵とは反対に、手を止めた霜吉の顔は恐ろしく硬い。
春河屋の若旦那といえば、十年ほど前、氷蔵に囲いの申し出を断られて、心中しようとした男だ。あの後、江戸を追放されたと聞いていたが――なるほど、栞屋の地方巡業を聞きつけて見に来ていたのか。
「どっ、どうしよう……また何か企んでいたら……」
「大丈夫だよ。彼奴の顔、妙にすっきりしていたし。多分、あれから色んなことを経験して、色んなことを考えたんだろうね。きっともう、僕に危害を加えることはないさ」
「で、でも……」
「……はぁ。御前は心配症だね。もし何かあったとして、毎日のように重い服を着て、道具を振り回して、育ち盛りの悪ガキと遊んでる僕が、喧嘩で負けるはずがないのに」
氷蔵は嘆息すると、布巾を握る霜吉の手に、自らの手を重ねた。氷蔵の顔を霜吉が包み、その手を氷蔵が包む形になる。
「……でも、まぁいいさ。御前に想われるのは、気分がいいからね。御前の懸念は聞いてやるよ。その代わり、御前にも言うことを聞いてもらう」
「な、なんですか?」
「僕は、御前以外の護衛を連れることはない。僕に身辺を気をつけてほしいなら、この先の予定すべて放って、僕を守るために、僕の隣で過ごせ。いいね?」
「ま、また無茶を言う……」
今度は、霜吉が溜息をつく番だった。彼は、手の中の氷蔵を見つめると、弱ったように眉を下げた。
「わかりました。ずっとご一緒しますよ、氷蔵様」
ここまでお読みくださりありがとうございます! これにて『栞屋の女役には近づくな』は完結です。
歴史モノもBLも初めての試みでしたが、氷蔵と霜吉のおかげで楽しく書き切ることが出来ました。
評価・感想・レビューなど、ぜひぜひお待ちしております。
改めまして、お付き合いいただきありがとうございました!
霜月アズサ




