第13話『氷解する魔物』
「栞家が僕のものになれば、誰かの指図で結婚する必要もない。ずうっと御前と一緒にいられる」
「――っ」
獲物を捕らえた獣のように。霜吉の背に這わされた五指が、ぐっと突き立てられる。頭を殴られたような衝撃を受けて、霜吉は呼吸もままならなかった。
「当主様を、病死に、追いやる……? 俺と、一緒にいるために……?」
「そうだ。何か不満かい? 再三言うようだけど、御前だって、あのクソ親父に恩なんてないだろう。彼奴がしたことといえば、御前に家に滞在する許可を出しただけ。生活のことは松が、舞台のことは僕が教えたじゃないか」
「……でも、病死に追いやるなんて……もし明るみになったら、それこそ本当に、俺たち離ればなれに……!」
霜吉が反論すると、背中に立てられた指の力が弱くなった。氷蔵の、消え入りそうな声が鼓膜を震わせる。
「――じゃあ、他にどんな方法をとれば、御前と一緒にいられる? まさか、御前を諦めろだなんてつまらないこと……御前は言わないよね?」
「……っ」
悲哀の滲む声は、霜吉から世界の感触を奪い取った。蝉の声も、朝の日差しも、何もかもが遠くなる。霜吉の五感はただ、氷蔵のためだけに働いていた。
氷蔵の小さな体躯を知る。揺れる呼吸を、低い体温を知る。
霜吉は思わず、抱擁を返した。そして、ふたりの傍に佇んでいる松ばぁの墓に目を向けた。
たまたま拾った霜吉を、長年奉公した栞家を離れる覚悟で、育てようとしてくれた松ばぁ。
厳格な氷蔵父にも慕われ、霜吉と氷蔵を出会わせる架け橋になってくれた松ばぁ。
付き人と女中。立場は違えども、霜吉に料理や掃除を教えてくれた――血の繋がらない、大切な家族。
「――氷蔵様」
霜吉は、腕の中の少年を抱きしめ直した。
「養子を、とりましょう」
「……は、養子? それを、栞屋の跡継ぎとして育てようって言うのかい?」
はっ、と氷蔵は、呆れたように吐き捨てた。
「……馬鹿だね。あのクソ親父は、僕みたいな美しい子が欲しいんだ。そうそう期待に応えられる子が見つかるわけ……」
「確かに、氷蔵様ほど綺麗な子を、見つけ出すのは難しいでしょう。だから、どんな子でも構いません。人並みの顔立ちで、舞台に立つのが好きで、毎日の稽古を頑張れる……そんな子がいれば、後は俺がなんとかします」
「は?」
氷蔵が、霜吉の肩に預けていた顔を上げた。軽く身を引いて、至近距離で顔を合わせる。氷蔵の細い眉が、不可解そうにひそめられていた。
「なんとかするって、どういうこと?」
「氷蔵様。俺は、これでも『栞屋氷蔵』の化粧をしています。もちろん、氷蔵様という極上の土台あってのものですが、それでも『露姫』から『お春』まで、大勢の客を虜にした顔は、俺が作ってきました」
「――」
「だから、どんな子でもきっと大丈夫。氷蔵様が技を教えて、俺が化粧をしてあげれば、必ず当主様の期待に応えるいい役者になります。……どうでしょうか」
霜吉が尋ねると、氷蔵は気まずそうに目を逸らした。
「……嫌だ。御前の意見には、概ね納得しているけど……僕は、自分でとった養子を満足に育ててあげられる気がしない」
「氷蔵様……」
「役者としてなら、問題ないだろうさ。僕が、寒九郎さんにしてもらったように、しっかり稽古をつけてやれるだろう。……でも僕は、父親のやり方を知らない」
後ずさる氷蔵。その瞳は一向に霜吉を見ない。見られないのだろう。
――今や、江戸一番の役者になった弟・寒九郎と、それに次ぐ実力と謳われる息子・氷蔵。
二人の血縁者に挟まれた氷蔵父は、栞家の重責ある家督でありながら、思うように名を売って、栞屋の繁栄に貢献することが出来ない自分を、重く捉える節があった。
そして彼は、氷蔵が『期待の子役』と言われるよいになった九歳くらいの頃から、明確に氷蔵を避けるようになっていた。
関わることがあるとすれば、今回の見合い話のように、氷蔵が栞屋の将来に関係する話をするときだけ。
氷蔵に、成るべき父親の人物像がないことと、それを負い目に思っているのだろうことは、語られずとも察することが出来た。
「……なんとなく、わかるんだ。養子をとったら、僕はいずれ……あのクソ親父みたいになる。子供を商売道具としてしか見られない。それが、吐きそうなほど嫌なんだ……」
「……大丈夫。大丈夫ですよ、氷蔵様」
霜吉は、開けられた距離をぐっと一歩詰めた。固く握られた氷蔵の拳を、掬いとって包みこむ。氷蔵はぽかんとしていた。
「何が……」
「貴方は、理解できなかった茶屋の娘にだってなれたんです。父親にだってなれます。なりきればいいんです」
「……」
「幸い、『父親』はこの町にたくさんいます。茶屋の娘よりも見本が多い。だから、貴方のなりたいようになれます。大丈夫。いつもの役作りみたいに、少しずつなっていきましょう」
「……なんだい、それは。御前は時折、よくわからないことを言うね」
氷蔵は苦笑した。その双眸は、柔らかく細められていた。ふいに、ぱっと霜吉の手を払い退けると、先刻落とした傘を閉じて、霜吉の手に握らせる。
「あ、え?」
霜吉の混乱もよそに、彼の腰に組み付くと、ひょいとその華奢な肩に担ぎ上げ、氷蔵はその場から走り出した。
「は!? え!? な……なんですか、氷蔵様! どこに行くんですか!?」
「家に帰るのさ! 今は、凄く気分がいいからね! 興が乗ってるこのうちに、クソ親父を口で叩きのめしてやるんだ。そうだ、話には御前も参加してね。今のうちに、彼奴を悶絶させるキレのいい一言を考えておくんだよ」
「えぇぇ……!?」
驚愕する霜吉を端目に、走る氷蔵はひどく身軽で、愉快そうに笑っていた。少し前の感傷的な姿は、もはやどこにも見当たらない。
これからのことを考えると、それが嬉しいよいな、恐ろしいような、難解な気持ちになって、とりあえず霜吉は笑った。ふたりで笑った。




