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2話 お願いは命令じゃない

 悪足掻きか、悪魔の腹の口が獰猛にブルージャムの胴体に噛み付いてきた。もちろん、この程度ではブルージャムの身体どころかドレスを破くことすら叶わない。

 でも――ぐらつくブルージャムの理性を千切るには、十分な威力だった。


「ああっもうだめぇ……」


 唾液の絡んだ真っ赤な舌先をブルージャムは、悪魔に伸ばす。


「一口だけよ。心臓さえ残せばいいんだもの。ねっ? ねっ?」


 自分に言い聞かせるような言葉とは裏腹に、まるでカップケーキを一口で頬張るかのように……ガブリッ!


 ◆ ◆ ◆


 ベルは黒猫のように屋根から屋根に飛び移った。夜風が華奢な身体に纏う男物の黒いコートをはためかせる。


「ブルージャムは、どこまで行ったのでしょうか?」


 ここは、古くから栄えている街道沿いの宿場町。石畳の通りは飲食店が連なり、旅人にとっても悪魔にとっても都合のいい街だ。

 人の出入りが多い場所ほど、異変は紛れる。消えた誰かの痕跡は、よくあることと喧騒に消されるのだ。

 ベルは思い出す。暗殺者であった頃、こういうところでの仕事は楽だった。

 自分なら、獲物をどこに追い込むか?


「自分なら、きっと……」


 魔女としては未熟だが、暗殺者としての勘を失ったわけではない。

 ベルは顔を上げ、感じたほうに進む。


「……いた」


 すぐに路地裏に佇むブルージャムを見つけた。

 暗闇の中でも、彼女は輝いて見える。

 ブルージャムはほうっと吐息を洩らし、ペロリと上唇を舐めた。


「はあぁ……この味はチェリーパイ。それにカスタードと、パイナップル、ローストターキー、タフィーに、焼きたてのバタートーストだわ」


 幸せいっぱいのその姿に、ベルはほっと胸を撫で下ろす。

 自分がいなくても、すべて終わっていた。いや、当初の目的よりも終わりすぎているが、多幸感に包まれているブルージャムを責める気は一切起きなかった。

 むしろ、彼女が嬉しそうでよかった。


「お疲れさまです、ブルージャム」


 自分の世界に浸っているブルージャムに、ベルは静かに声を掛ける。

 パッとブルージャムが上を向いた。彼女の唇の端には、ストロベリージャムのような悪魔の名残りがついている。


「ついていますよ」


 ベルが自分の唇の端を指さして教えれば、途端にブルージャムは顔を青くした。


「ベルッ、どうしましょう!」


 ブルージャムは羽根のような軽やかさで屋根まで飛び上がってくると、すかさずベルの手を両手で強く掴んだ。いまにも泣きそうな顔で。


「心臓は残そうと思っていたのよ! 本当よ! でも、でもね、どうしましょう……」

「落ち着いてください、ブルージャム」


 ベルは彼女の口端に残る悪魔の残骸を袖で、そっと拭ってやった。


「美味しかったですか?」

「ええ、とっても。……あっ、違うわ! 違うのよ! ちゃんとベルに残しておこうと思ったのよ」

「お気遣いありがとうございます」


 ブルージャムは気まずそうに、ベルの指に指を絡めた。


「ベルにもあるでしょう? 可愛くて可愛くて、食べちゃいたいって時が」

「すみません。分かりません……」


 素直に答えれば、ブルージャムは露骨に肩を落とす。

 その姿も芸術品のようだとベルは思った。美しい彼女に、自分のような役立たずがどう声を掛ければいいか、分からない。

 そんなベルの心情を察したのか、ブルージャムは眉を下げて微笑んだ。


「ごめんなさい。わたしと違って、ベルは食べないと死んでしまうのに」

「自分は、どうとでもなります」


 半年前まで、ベルはただの女の子だった。

 ただのと呼ぶには黒い社会に染まりすぎていたが、それでも魔法なんて幻想の力は使えなかった。

 自己も人権も与えられず、年齢も性別も任務ごとに変えて血腥い夜を渡り歩く暗殺者だった。

 ターゲットが悪魔の獲物だったせいで、悪魔に呪いを掛けられた。

 人の身ではどうしようもない状況に身を委ね、大人しくこの世から旅立とうとしていた。


 そんな時だ。

 悪魔を追ってきた美しい彼女に、手を差し伸べられたのは。


 ――あなたは、幸せになるべきだわ。

 あの夜からベルは魔女となり、悪魔を食べて命の補充をしながらこうして生きながらえている。

 ブルージャムの言う幸せを探すために。


「美味しかったのなら、よかったです」

「よくないわ。わたしったら、いつもこう」

「ブルージャムらしくて、いいと思いますよ?」

「もうっ」


 ブルージャムは両手で顔を覆う。指の隙間からベルをチラリと覗いて「甘やかさないで」と頬を膨らませた。


「ベルはもっと怒らなきゃだめよ」

「それは、命令ですか?」

「違うわ」


 ブルージャムは首を横に振る。


「これは、お願いよ」

「お願い?」

「ベル。愛らしい子。自分は大切にしてね」


 ブルージャムは、小さな子猫に触れるかのようにベルの頬に触れた。

 そして、眉を下げてそっと微笑む。

 ブルージャムは、よくこの顔を自分に向けてくる。それがどんな感情なのか、ベルには分からない。

 ベルが分かる表情は、これまで向けられてきた感情は――血腥く、ドス黒く、冷たくて、痛いもので……。


「すみません」

「謝らないで」


 優しい手が今度は頭を撫でてくれる。このむず痒さにも、ベルはまだ慣れない。


「あの……」


 どうして命令してくれないんですか? と言い掛けて、ベルは口を噤んだ。

 訊いても、この甘く美しい少女はまたあのそっとした微笑みを浮かべるだけで、答えてはくれないだろう。

 命令してくれればいいのに。

 ベルは、そう強く思う。ただ一言命じてくれれば、その通りにする。なのに、ブルージャムは命令してくれない。

 だからいつも、ベルはどう答えればいいのかとてもとても迷ってしまうのだ。


(もっと役に立てば、命じてくれますか?)


 お願いなんて、曖昧なものではなく……。


(役に、立たなきゃ)


 役立たずはいらない。

 役立たずは処分される。

 ベルは、それをよく知っている。

 彼女に助けられたこの命は、これからは彼女のためだけに使うとあの夜に誓ったのだから。


「どうしたの、ベル?」

「……あっ、その、ブルージャムの見立て通り、地下にいた人たちは、腹の中も綿やビーズになっていました」


 ベルは話を変えて、ブルージャムに悪魔の犠牲者の報告をする。

 悪魔の棲家となっていたある宿の地下では、複数の人間がぬいぐるみにされていた。皮膚が柄付きの布になり、眼球がボタンになっていただけでなく、臓腑まですべてが変異させられていた。


「言われた通り、全員戻しておきました」

「とっても助かるわ」

「人体を弄るのは得意ですから」


 ブルージャムにお願いされて、ベルは悪魔にオモチャにされていた多くの亡骸を人間のカタチに戻していた。

 まだ魔女の力に慣れておらず時間が掛かってしまって……ようやく終わらせたあとに合流して、いまに至る。


「あのままにしておくのは、可哀想だものね」


 ブルージャムは胸の前で指を組み、静かに目を瞑った。


「おやすみなさい」


 ブルージャムは、悪魔の被害者に対していつも祈りを捧げる。

 その姿があまりにも様になっていたので魔女になる前はシスターだったのかとベルは訊いたのだが、ブルージャムは首を横に振った。

 なら、どうして他人のために祈るのか。

 死んだら終わりなのに。終わった人に、なぜ、祈るのか?

 ベルには、よく分からない。分からないから、ただ眺めるしかなかった。

 きれいだなあ……と、ただ眺める。


 ややあってからブルージャムは静かに目を開けた。ふわりとドレスを翻す。

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