1話 甘く美しいブルージャム
天使は、砂糖菓子でできている。
そう錯覚するほど彼女は甘く、美しかった。
「あなたは、幸せになるべきだわ」
それは、いまのあなたには、とても酷かもしれないけれど……。
激痛に苛まれ、途切れそうで途切れない意識の中で、ベルは少女にそう微笑まれた。
色素の薄い髪は、充満する血腥さをものともせずふんわりと柔らかく揺れている。細やかなレースが重なった瑠璃色の華やかなドレスは少女の美しさをより引き立てていて――
癇癪を起こした悪魔に壊された、地獄のような屋敷の中でも、彼女だけは燦然としていた。
(すごく……きれい……)
少女は、まるで愛されるために存在しているかのようで……。
ベルは、無意識に彼女に手を伸ばしていた。
こんな汚れた自分でも、彼女になら触れてもいいのではないかと、錯覚してしまった。
「こんなにも幸せそうに死に触れるなんて。きっと、あなたは麻痺してしまっているのね」
生の苦痛に。
生き地獄に。
痛みに麻痺してしまったから、死を穏やかに受け入れられるのね。
――と、少女は困ったように、寂しそうに目を細めた。
「でもね。生きて幸せになってもいいと思うの?」
陶器よりも白い手が、力が入らずダラリとするベルの真っ赤な手を拾い上げる。暗殺者として育てられたこの手に躊躇なく触れてくれた人は、彼女が初めてだった。
「ねえ、生きてみない?」
「……それは、命令ですか?」
ベルの問いに少女は一瞬目を丸くして、すぐに首を横に振った。
命令じゃないなら、どうすれば……?
命令されて、その通りに動くことが当たり前だったベルは、こんなふうに顔を覗き込まれて意見を伺われるのは初めてで……。
ここで、ようやくベルは少しだけ我に返って、この人は誰だろう? と疑問を抱いた。
けど、誰でもいいかとすぐに思考を投げ出した。
「生きて、どうすればいいんですか?」
ベルは任務に失敗した。
暗殺のターゲットが、悪魔のお気に入りだった。ターゲットは殺したが、そのせいで癇癪を起こした悪魔がすべてを壊して、ベルに死の呪いを掛けた。
人智を超えた力を持つ悪魔の呪いなんて、小娘のベルにはどうにもできない。
どうにかできたとしても、組織からすれば悪魔と関わったベルは厄介者で、命を断つよう命じられるか処分される。
なら、ここで死ぬべきだと思っていたのに……。
「あなたは、どうしたい?」
なんでそんなことを訊いてくるのか?
分からない。分からない。分からない。
暗殺以外、したことがない。
ベルが答えられないでいると、少女は眉を下げてそっと微笑んだ。
「あなた、とても可愛いわね」
「?」
「わたしね、可愛い子には意地悪したくなっちゃうの」
少女は寝物語を語るようにベルに囁く。
あなたの幸せが見たいから。
あなたの生き様が見たいから。
あなたに酷い意地悪をするわ。
「安心して。悪魔って、意外と美味しいのよ?」
こうして、彼女によってベルは魔女と化し、呪われた命を強制的に繋ぎ止められた。
彼女の名前は、ブルージャム。
悪魔に焦がれ、悪魔に理性を壊された砂糖菓子のように甘く美しい女の子であり――
呪われたカラッポの少女の幸せを願う欲深い子。
◆ ◆ ◆
悪魔は可愛い。
だって、可愛い姿をしていれば、人間は簡単に騙されるから。
その悪魔はテディベアの姿をしていた。
子犬ほどの大きさで、ふわふわの毛並みは誰かに抱き締められるために生まれてきたみたいで――だから、すぐに見つけられた。
すべては、可愛さが仇となった。
テディベアの悪魔はヒビ割れた石畳を蹴り、迷路のような路地裏を駆けていた。
表通りは、酒臭い笑い声や陽気な音色に包まれているが、それはここには少しも届かない。積み上げられた木箱や空樽の隙間には濃い闇がじっとりと溜まり、湿った静寂に包み込まれていて……。
「見ぃつけた」
ふと頭上から降ってきた声は、恋人に向けるような甘さを含んでいた。
ハッとテディベアが上を向く。そばの建物の屋根から、真っ白な人影が飛び降りてきた。
テディベアの前にふわりと立ち塞がったのは、レースのついた傘をさした美しい少女だった。
「鬼ごっこも私の勝ちね」
色素の薄い髪が月明かりを浴びて青銀に輝く。すらりとした身体に、幾重ものレースを重ねた瑠璃色のドレスを着ている彼女は、まるでお姫さまみたいだ。
ブルージャムは、退屈そうにまぁるい傘をクルリと回す。
「ねえ、そろそろ本気で遊んでくれないかしら?」
欠伸混じりに呟いた瞬間、テディベアの丸い腹がぐわりと裂けた。
鋭い牙が生え、腹の裂け目は底の見えない大口へと、歪で不気味に変貌した。ガラス玉の目も、ギョロリと生々しい眼球の形になってブルージャムを睨み、腹の口が耳障りな咆哮で威嚇してくる。
本性を現した悪魔に強烈な殺気を向けられて、ブルージャムは、頬を赤らめた。
「ようやく、可愛い姿を見せてくれたわね!」
お人形みたいなかんばせが一気に崩れる。
品のいい立ち姿とは裏腹に、恍惚と持ち上がった唇の端からは、いまにも涎が溢れそうだ。
「そんなに可愛い姿を隠していたなんて、ずるいわ」
ブルージャムは、うっとりと熱い息を吐く。
彼女の目にはこの歪な悪魔がどんな高価な宝石よりも輝いて見えている。鮮やかなドレスよりも惹かれて、極上のスイーツよりも食べたくなってしまう。
比喩ではなく、本当に食べたくて食べたくて……ブルージャムは舌舐めずりをした。
「可愛い子。さあさ、本気で遊びましょうよ」
ブルージャムが傘を閉じた瞬間、悪魔の腹の口から分厚くて長い舌が飛び出してくる。
針のように尖った舌先が少女を貫こうと狙うが、ブルージャムは顔色を変えずに傘でそれを防いだ。
「やんちゃな子ね。うふっ、とってもいいわ」
猛攻を、たった一本の傘で受け流す。
それでも悪魔は攻撃を止めない。邪悪な殺意がヒシヒシと伝わってきて、ブルージャムは怯えるどころか胸を踊らせた。
「どうしましょう。ベルが来るまで我慢しなきゃいけないのに」
ブルージャムには役目があった。
この悪魔を生け捕りにすること。どんなに可愛くても、壊してはいけないし、食べてもいけない。
この悪魔を食べる子は、別にいる。
なのに――
「ああぁっ……」
可愛がりたい。意地悪したい。もっと困ってる姿が見たい!
「ちょっとだけ。そうよ、ちょっとだけ」
それなら、あの子も許してくれる。
許してくれないわけがない。
「ギュッてするだけなら……うふっ」
ブルージャムはゾッとするほど恍惚とした笑みを浮かべると、傘の先端を舌に突き刺した。分厚い舌が、呆気なく傘一本で地面に縫い付けられる。
そして、ブルージャムは一瞬にして悪魔と距離を詰めた。
その速さは到底人が出せるものではなかったが、その姿はまるで子どもが愛らしいテディベアに抱き付くようで……。
満面の笑みでブルージャムは歪な悪魔に腕を伸ばし、細腕でぎゅーっと悪魔を抱き締めた。
「んんんっ、可愛い……!」
もがく悪魔を熱のこもった眼差しで見下して、ブルージャムは生唾を飲み込んだ。
「はあ、駄目よ。どんなに可愛くても我慢しなきゃ。わたしと違って、ベルは……」
あの子は、わたしと違う。
黒猫のようなあの魔女は特殊だ。
嗜好として悪魔をしゃぶり、味わい、喰らい尽くす自分とは事情がまったく違う。
それは、呪われた彼女に手を差し伸べた自分がよく分かっている。
「悪魔を食べないと、死んでしまうのだから」
頭を振って、何度も何度も自分に言い聞かせる。
なんのために、誰のために悪魔を追い掛けているのか。忘れちゃあ駄目。
この悪魔はベルの命の火を補充する大切な栄養分。
分かっている。
分かっているけど……どうしよう。
「ああぁ……」
ジタバタと足掻く悪魔に、ジリジリと理性が削れていく。
甘酸っぱい胸の高鳴りが強くなる。
可愛い悪魔から、目が離せない。
「……あら?」




