11.9月10日午前4時
広島を過ぎたあたりだろうか。弓彦はぼんやりと車窓を眺めていた。小倉への到着予定時刻は午前7時である。残り3時間、このままバスジャックされたままなのか。助けを求める術はないのか。
「ちょっと、どうするのよ」
いつの間にか隣に座っている前江田さんが、禁煙パイポを持った手で弓彦の脇をつついた。流石にバスの中は禁煙である。だいぶストレスもたまっているかもしれない。もう百回近くこのセリフである。
「外への連絡手段がないってもんよ。SNS送ってもみんな筒抜けって犯人が言ってるってもんよ」
「嘘かもしれないでしょ」
前江田さんは禁煙パイポを咥えた。ヘビースモーカーなので、常に触っていないと禁断症状で手が震えると以前話していた。
「傍受されたら殺されるってもんよ」
「だから嘘かもしれないでしょ。送りなさいよ。ためしに」
「殺されるってもんよ」
「屍はアタシが拾うわよ。あ、鹿」
「おいって、ぶつかるって」
鹿が飛び出してきたのが見えた。バスはほんの少しだけ減速し鹿をよけた。今は自動運転である。そんな細かい運転ができるのか。追い越し車線から走行車線に戻るのもスムーズである。高速道路を走る他の乗用車は、まさかこのバスがジャックされているとは思わないだろう。
「鹿よけたって。すごいって。あ」
前江田さんはうつむいていた。いつの間にか弓彦のスマートフォンを使ってどこかにショートメールを送っていた。
「送ったわよ。新聞社」
「お、おいって」
「なんだ?」
弓彦が少し大きな声を出したのでバスジャック犯がこちらに反応した。横に来ると充血した目で弓彦を睨みつけた。前江田さんはうつむいたままである。
「何やってるんだ」
「な、なんでもないってもんよ。トイレに行きたいってもんよ。生理現象ってもんよ」
「早く済ませろ」
弓彦が行きたくもないトイレに向かって歩いた時、前江田さんがうれしそうな顔をしていたのが見えた。弓彦は前江田さんを睨みつけた。
トイレに行くとき、動画を撮っていた大きな体格の初老の男と目が合った。弓彦を見ると、男は目をそらした。トイレの近くには大きなカバンを抱えた外国人が座っていた。外国人はよだれを垂らしながら寝ていた。バスジャックされている車内で居眠りとはなかなかの肝の据わった人である。
「おいって」
ともかくも、あの大きな初老の男はどこかで見たことがある。前にうちの店を買い取りに来たどっかの会社の…。
「早く歩け」
立ち止まってぼんやりと考え事をしている弓彦を犯人が押した。動画を撮っていた男は、明らかに弓彦を知っているようだった。目をそらして動画の撮影に集中するそぶりを見せていた。
「おいって。殺されるかと思ったってもんよ」
「やったわ」
弓彦が戻ってくると、前江田さんが満面の笑みで迎えた。
「新聞社から連絡来たわ。警察に連絡してくれるって」
「おいって。連絡できたってもんよ?」
「そうよ」
前江田さんは自慢げである。弓彦は首を傾げた。
「おいって、信じたくないけどさっき犯人は通信はみんな傍受してるって言ったってもんよ。もうバレてるってもんよ」
「なにも言ってこないわよ。だってもう5分経っても何も言ってこないじゃない」
前江田さんはくすくすと笑った。
「嘘だったんじゃないの?」
自動運転装置を開発する犯人である。きっと天才的なハッカーなのだろう。通信もすべて傍受できるに違いないと思っていたが、そうでもないのか。
「犯人は傍受できると信じているかもしれないってもんよ」
「本人ができると思ってても実際できていないことってあるのよね」
「他の人も連絡とってるかもしれないってもんよ」
少しだけ希望が湧いた。誰か助けに来てくれるかもしれない。
「何とかなるかもしれないってもんよ」
弓彦は期待を抱いた。




