第七話
完結まで全話書き上げ済のため、夕方、夜と複数話ずつ投稿していきます。
そのころ、第三管理室で以前働いていた人たちの話を聞く機会があった。
一人は退職していた。
一人は長く休んだあと別部署へ移った。
一人は長く患っているらしい。
もう一人は王都そのものを離れたらしい。
「大変だったんですね」
何気なく言うと、セレフィナは肩をすくめた。
「まあね。私もずいぶんフォローしたんだけど」
「そうだったんですか」
「仕事を任せてもなかなか覚えないし、指示したことと違うことをするし。最後の方は私も、どう教えればいいのかわからなくなっちゃって」
ベネディクトも頷いた。「セレフィナはよく面倒見てたよ」
「私、甘いのよね。もっと早く厳しく言えばよかったのかもしれないけど」セレフィナはそう言って笑った。
リーゼは、前任者の顔を知らない。だから、それ以上何も思わなかった。ただ、自分まで同じようにならないようにしようと思った。もっと頑張らなければ、そう思った。
そう思ってから、リーゼは仕事の記録を以前より細かく残すようになった。もともと手帳へ書く習慣はあった。十五歳で最初の商会に勤めたころから、教わったことや間違えたことを書き留めてきた。けれど王宮へ入ってからは、それだけでは足りない気がしていた。
いつ、誰から、何を言われたのか。
どの案件を、いつまでに処理するのか。
何を確認し、どう回答されたのか。
口頭で話したことまで、できるだけその日のうちに書くようにした。
自分の記憶に自信がなくなっていたからだ。
ある午後、セレフィナから二つの案件について指示を受けていると、途中で声が止まった。
「リーゼさん」
「はい」
「さっきから何書いてるの?」
「今いただいている指示です」
「私の言ったこと?」
「はい。認識違いがないようにと思いまして」
セレフィナはリーゼの手帳を見たあと、何とも言えない顔をした。
「なんか嫌な感じね」
「……嫌な感じ、でしょうか」
「だって、私が言ったことをいちいち記録してるんでしょう? 信用されてないみたい」
そんなつもりはなかった。
むしろ逆だった。
自分が間違えて覚えないために書いている。
「申し訳ありません。そういう意図ではありません」
「別に謝らなくていいけど」セレフィナはそう言いながら、明らかに気分を害していた。
「ただ、人と仕事をする以上、もう少し信頼関係って大事だと思うのよね。何でも証拠みたいに残すんじゃなくて」
証拠?そんなつもりで書いたことはなかった。
「わかりました」
それから、セレフィナの前ではあまり書かないようにした。
数日後、優先順位を確認した案件で問題が起きた。
リーゼの記憶では、セレフィナから北部工房を先に処理するよう言われていた。だからそうした。
ところが、呼ばれた。
「リーゼさん、南部商会の方、なんでまだなの?」
「北部工房を先にするようにと伺っていましたので」
「私が?」
「はい」
セレフィナは少し考えたあと、首を傾げた。「そんなこと言った?」
言った。
少なくとも、リーゼはそう覚えている。
「昨日の午後に――」
「そういう意味で言ったんじゃないと思う」
意味……では、どういう意味だったのだろう。
「申し訳ありません。私の受け取り方が違っていたようです」
「最近、そういうの多くない?」
「……そうでしょうか」
「私が言ったことを、ちょっと違う意味に受け取るっていうか。ちゃんと意図を理解してほしいのよね」
「はい」
「言葉だけじゃなくて、その背景まで考えて」
また視座の話になるのだろうと思った。
案の定、「もう少し視座を高く持てば、私が何を言いたいのかわかると思うんだけど」と言われた。
席へ戻って、手帳を開いた。
何も書いていない。
昨日までは、それでいいと思っていた。
今は、何も残っていないことが怖かった。
本当に北部工房を先にと言われたのだろうか。
自分が勘違いしたのかもしれない。
そう思い始めると、昨日の会話そのものが曖昧になってくる。結局、その日からまた記録を取るようになった。ただし、セレフィナに見えないように。
***
二十二歳になったころには、リーゼの手帳は以前とはまったく違うものになっていた。昔の手帳には、仕事を覚えるためのことが書いてあった。
返品はこの欄。
発注前に在庫を確認。
北方は冬季の輸送日数を多めに見る。
そんな、自分が次に仕事をするとき役に立つことばかりだった。
今の手帳には、『セレフィナさんより北部優先との指示。十五の鐘』『ノアさんへ技術部確認依頼。本人了承』『ベネディクト様へ業務量相談。現状維持』と書いてある。
何かを覚えるためというより、あとで自分が間違っていなかったか確かめるための手帳になっていた。それでも、自分が間違っていることはあった。だから余計に厄介だった。全部相手がおかしいのなら、もっと簡単だったのかもしれない。
リーゼだって完璧ではない。数字を見落とすこともある。確認を忘れることもある。忙しくなれば優先順位を間違えることもある。
そういうとき、セレフィナは決まって言った。
「ほら、だから私が言ってるでしょう?」
すると、それまで納得できなかったことまで、自分が悪かったような気がしてくる。やはりセレフィナの言うことが正しいのではないか。自分は思っていたほど仕事ができる人間ではなかったのではないか。民間の小さな商会では通用しても、王宮では足りないのかもしれない。そう思うようになっていた。仕事にも時間がかかるようになった。
以前なら一度確認して送っていた通信を、二度、三度と読み返す。
数字を確認する。
宛先を見る。
添付資料を見る。
署名を見る。
一度閉じて、また開く。
以前、署名が長いと言われた。
その次には短いと言われた。
今日はどちらだろう。
文章が長すぎないか。
短すぎないか。
説明不足ではないか。
細かすぎないか。
これをセレフィナが読んだら、何と言うだろう。
そこまで考えているうちに、別の仕事が遅れる。
「リーゼさん、まだこれ終わってないの?」
「申し訳ありません」
「ちょっと時間かけすぎじゃない? もっと要領よくやらないと」
「はい」
「全部完璧にやろうとしなくていいのよ」
言われて、少し肩の力を抜こうと思った。
次の案件では、過去資料の確認を一部省いた。
すると、「これ、過去の事例ちゃんと確認した?と聞かれた。
「直近の三件は確認しました」
「なんで全部見ないの?」
「……」
「こういうところで手を抜かれると困るのよね」
全部完璧にやろうとしなくていい。昨日そう言われた気がした。けれど、昨日と今日では案件が違う。
セレフィナが言うように、状況を見て判断しなければならないのだろう。
そう考えた。
何度も。
何度も考えた。
そのうち、仕事そのものより、何をすればセレフィナに何も言われないかを考えている時間の方が長くなった。
評価面談で、ベネディクトから言われた。
「リーゼは真面目だし、仕事も丁寧だよ」
褒められた。
久しぶりに褒められた気がした。
「ありがとうございます」
「ただね」
やはり、ただ、があった。
「もう少し主体性があるといいかな」
リーゼは少し考えた。
「主体性、ですか」
「うん。セレフィナからも聞いてるんだけど、判断するときに確認が多いみたいだね」
「以前、自分で判断して進めた際に、確認するようご指導いただいたことがありまして。それ以降、判断に迷うものは確認するようにしています」
「なるほどね」ベネディクトは頷いた。
理解してもらえたと思った。
「でも、そこを自分で判断できるようになるのが成長なんじゃないかな」
「……はい」
「もう二年いるわけだし」
「はい」
「いつまでもセレフィナに聞いてばかりじゃ、彼女も大変でしょう?」
リーゼは膝の上で手を握った。
「では、どの範囲まで自分で判断してよいのか、基準を決めていただくことはできますか」
ベネディクトが少し困った顔をした。
「そこを決めてもらおうとするのが、ちょっと受け身なんじゃないかな」
また同じところへ戻った。
「……申し訳ありません」
「いやいや、謝る話じゃないよ。これからに期待してるってことだから」最後は笑顔だった。
部屋を出たあと、リーゼは廊下で少し立ち止まった。主体的に判断する。ただし、間違った判断をしてはいけない。判断基準は自分で考える。
けれど、勝手に判断してはいけない。どうすればいいのだろう。その日は家へ帰ってからも考えた。答えは出なかった。
そんなころ、王宮の廊下でアデラインに再会した。
「リーゼ?」
聞き覚えのある声に振り返り、驚いた。
「アデライン様」
以前より少し大人びていたが、間違えるはずがない。
「やっぱりリーゼね。あなた、王宮にいたの?」
「はい。二年前から」
「二年前?」
アデラインは目を丸くした。「言ってくれればよかったのに」
「ご連絡するほどのことでもないかと思いまして」
「王宮に入ったのが?」
「はい」
「あなたにとってはそうなのね」
何がおかしいのか、少し笑われた。
昔と同じだった。
「実務経験者の採用枠で入りました」
「そう。頑張ったのね」
その一言で、胸の奥が妙に詰まった。
頑張った。
最近、その言葉を自分に使ったことがなかった。
「ありがとうございます」
声が少し変になったので、咳払いをした。
アデラインは何も言わなかった。
「仕事はどう?」
「はい。勉強になることが多いです」
嘘ではない。
「楽しい?」
「……はい」
答えるまで、ほんの少し間が空いた。
アデラインはその間に気づいたようだったが、何も聞かなかった。
「昔渡した住所、まだ持ってる?」
「はい。手帳に挟んであります」
「そう」
「でも、もう使うことはないと思います」
「どうして?」
「せっかく王宮に入れたので」
言ってから、自分でも妙な言い方だと思った。
王宮に入ったことと、アデラインへ連絡しないことに何の関係があるのだろう。
けれど、アデラインは笑わなかった。
「使わずに済むなら、それが一番ね」それだけ言った。
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