第三話
話しが噛み合わないのって否定されてる気分になります。
王宮魔術院へ初めて出勤した朝、リーゼはいつもより一時間早く家を出た。遅刻するのが怖かったわけではない。正確には、それも少しはあったが、それより王宮の門をくぐってから第三管理室まで、どのくらい時間がかかるのかわからなかったのである。採用手続きの日に一度来ているとはいえ、王宮は広い。門を間違えて、初日から迷子になりましたでは格好がつかない。
結局、予定より随分早く着いた。第三管理室の扉の前で待っていると、通りかかった年配の職員に「新人?」と声をかけられ、そうですと答えると、「そんな早く来なくても誰もいないよ」と笑われた。
そのとおりだった。しばらくして鍵を持った職員が来て、ようやく中へ入れた。
責任者のベネディクトは、柔らかな物腰の人だった。
「リーゼだね。経歴は見てるよ。若いのに随分いろいろ経験してきたんだね」
「ありがとうございます」
「商会に輸送、工房との調整、それから外国商会との取引も?」
「少しですが」
「十分だよ。今回、民間経験者を採ったのも、そういう実務がわかる人が欲しかったからだから。期待してるよ」
ここまで来たのだ、と思った。村を出て五年。掃除から始めて、帳簿を覚え、発注を覚え、工房と喧嘩にならない納期の聞き方も覚えた。何一つ華やかなことはなかったけれど、それを見てくれる人がいたのだと思うと、嬉しかった。
「ただ」隣にいた女性が口を挟んだ。
「経験があるといっても、民間でしょう?」
セレフィナと紹介された人だった。年齢はベネディクトとそれほど変わらないように見えた。身なりはきちんとしていて、話し方も丁寧だった。
「王宮には王宮のやり方がありますから、最初から戦力として考えるのは少し危ないと思います」
「まあ、それもそうだね」ベネディクトはあっさり頷いた。
「リーゼも、わからないことがあったらセレフィナに聞くといいよ。彼女が一番この部署のことをわかってるから」
「はい。よろしくお願いいたします」
頭を下げると、セレフィナも笑った。
「こちらこそ。最初はわからないことばかりだと思うけど、頑張ってね」
感じの悪い人だとは思わなかった。王宮と民間でやり方が違うのも当然だと思った。
同じころに第三管理室へ入ったノアは、リーゼより一つ年下だった。王都出身で、親戚に王宮勤めが何人かいるらしい。
「僕もわからないことばかりなんで、一緒に頑張りましょう」
明るく笑う人だった。同期のような人がいることに、リーゼは少し安心した。
午後になって、セレフィナが紙を一枚持ってきた。
「じゃあ、リーゼさんにはこのあたりをお願いしようかな」
商会と工房の名前が十数件並んでいた。
見覚えのある商会もある。
「こちらを担当すればよろしいのでしょうか」
「そう。今まで私が見ていた案件だから」
リーゼは手帳を出した。
「承知しました。引き継ぎのお時間は、いついただけますか?」
「引き継ぎ?」セレフィナが聞き返した。
「はい。現在の進捗と、今後必要になる対応について教えていただければと思いまして」
「ああ」それなら、という顔をした。
「過去の通信を見ればだいたいわかると思う」
「手順書はありますか?」
「ないわよ」
「案件ごとの引き継ぎ資料などは?」
「そういうのもないわね」
では何を見ればいいのだろう。
「基本的な流れだけでも教えていただけると助かるのですが」
セレフィナが小さく息を吐いた。まだため息と呼ぶほど大きなものではなかった。
「リーゼさん、経験者として採用されたのよね?」
「はい」
「老婆心ながら言わせてもらうけど、最初から全部教えてもらおうという姿勢は、あまりよくないと思うの。王宮って、自分で考えて動けない人には難しいから」
言われてみれば、そのとおりかもしれない。リーゼは少し恥ずかしくなった。
前の商会でも、新しい仕事を覚えるたびに何でも教えてもらっていたわけではない。まず自分で確認して、それでもわからなければ聞いていた。
王宮では、そこをもう一段求められるのだろう。
「申し訳ありません。まず過去の記録を確認してみます」
「そうして。もちろん、本当にわからなかったら聞いてね」
最後は優しく言われたので、ほっとした。
その日のうちに記録庫へ行った。
過去の通信は、あった。ありすぎた。
一つの案件について何年分もの記録が残っている。途中で担当者も変わっており、同じような案件なのに処理方法が違うものもある。どれが現在も有効な決まりなのかは、どこにも書かれていなかった。
それでも調べた。
経験者として採用されたのだから、これくらいは自分でやらなければならない。
一週間ほどして、見積もりを提出するときの処理方法が二種類あることに気づいた。過去三年分を確認したが、使い分ける条件がわからない。
リーゼはもう一度資料を見直した。
聞く前に、できるだけ調べておこう。
案件の種類、相手先、金額、納期。考えられる違いを表にした。それでも規則らしいものは見つからなかったので、ようやくセレフィナの席へ行った。
「セレフィナさん、少しよろしいでしょうか」
「何?」
「この案件なのですが、過去三年分を確認したところ、見積もり提出時の処理が二通りありまして。相手先や金額でも比較したのですが、使い分ける基準がわからなかったので――」
「自分で考えて」
リーゼは一瞬、続きの言葉を忘れた。
「……はい。それで、私なりに考えてみたのですが」
「だったら、それで進めればいいでしょう?」
「よろしいのでしょうか」
セレフィナが顔を上げた。「何が?」
「私の判断で進めて」
「リーゼさん」
今度は、はっきりため息をつかれた。
「毎回、私が『はい、それでいいですよ』って言わないとできないの?」
「いえ、そういうつもりでは」
「だったら、自分で考えてみて。経験者なんでしょう?」
「……わかりました」
席へ戻った。
三年分では足りなかったのかもしれない。
さらに二年遡った。五年分を並べて、似た案件を拾い、自分なりに条件を推測した。これなら大丈夫だろう。そう思って処理した。
***
三日後、セレフィナに呼ばれた。
「リーゼさん。これ、なんでこの処理にしたの?」
「過去五年分を確認しまして、同じ条件の案件ではこちらの処理が多かったので――」
「でも今回、王家関連でしょう?」
初めて聞いた。
「王家関連の場合は、処理が異なるのでしょうか」
セレフィナが少し目を見開いた。「そこから?」
「申し訳ありません。存じませんでした」
「それくらい常識で考えてほしいかな」
常識。王家に関係する案件の処理をしたことは、これまで一度もない。
「今後間違えないようにしたいのですが、王家関連の場合の処理について、どちらかに規定はありますか?」
「何でも資料、資料って」
セレフィナの口元から笑みが消えた。「そういうことじゃないでしょう?」
「では、判断基準だけでも教えていただければ」
「わからないなら聞いてよ。勝手に判断される方が困るの」
リーゼは黙った。確かに三日前に聞いた。
「あの、先日こちらについて確認した際に――」
「そういう言い訳はいいから」
最後まで言わせてもらえなかった。
「私はあなたを責めたいわけじゃないのよ。老婆心ながら言ってるだけ。民間ではそれで通ったのかもしれないけど、ここは王宮でしょう? もう少し視座を高く持って、全体を見ながら仕事をしてもらわないと」
「……はい」
「次から気をつけてね」
「申し訳ありませんでした」
席へ戻った。
何を見れば王家関連だとわかったのかは、最後まで教えてもらえなかった。それでも次から気をつけなければならない。
リーゼは手帳に、『王家関連は通常と処理が異なる。必ず確認』と書いた。
次に似た案件が来たときは、先に確認した。
「こちらは王家関連ですが、通常とは処理が異なるという認識でよろしいでしょうか」
「前回やったでしょう?」
「はい。ただ、条件によって違う可能性もあるかと思いまして」
「毎回同じこと聞くの?」
「申し訳ありません」
「一度言われたら、そこから応用して考えてほしいのよね」
今度は手帳に、『一度確認した内容は応用して判断』と書いた。
その翌月、自分で応用して処理した。
「リーゼさん。なんでこれ確認しなかったの?」
手帳を開いたまま、しばらく動けなかった。
前回書いた文字が目に入る。一度確認した内容は応用して判断。
「前回、同様の案件について――」
「前回と今回は条件が違うでしょう?」
「どの条件が異なりますか?」
「そこまで説明しないとわからない?」
また、ため息。「もう少し自分で考えてほしいな」
リーゼは手帳を閉じた。書いておくべきことが、わからなかった。それでも、まだこのころは王宮とは難しいところなのだと思っていた。自分が知らないだけなのだ。もっと経験を積めば、セレフィナが見ているものも見えるようになるのだろう。
そう思っていたから、言われたことを一つずつ直した。途中経過を細かく報告した。
「その程度のことまで私に報告する必要ある?」
次は重要なことだけに絞った。
「どうして私は聞いてないの?」
早めに問題を相談した。
「まだ何も起きてないでしょう?」
問題が明確になってから報告した。
「どうしてもっと早く言わなかったの?」
リーゼは報告の仕方を変えた。
結論から話した。
「いきなり結論だけ言われてもわからない」
経緯から説明した。
「話が長い。何が言いたいの?」
簡潔にまとめた。
「説明が足りない」
詳しく書いた。
「こんな長い通信、誰が読むの?」
そのたびに、リーゼは次こそ間違えないよう手帳へ書こうとした。けれど、何を書けばいいのかわからないことが少しずつ増えた。資料の中身以外にも、セレフィナはよく気がついた。
「リーゼさん、この文字、大きすぎない?」過去の王宮資料と同じ大きさだった。
「以前の資料に合わせました」
「過去がそうだからって、そのままやるの? 誰が読むか考えた?」
一段階小さくした。
翌日、呼ばれた。
「今度は小さくない?」
「どの大きさがよろしいでしょうか」
セレフィナが大きく息を吐いた。「それを私に聞くの?」
「……」
「私は、文字を一つ大きくしろとか小さくしろとか、そういう指示をしたいわけじゃないの。自分で考えてほしいのよ」
それなら、最初から文字の大きさを指摘しなければいいのではないか。一瞬だけ、そう思った。思った自分に驚いて、すぐ打ち消した。何か意図があるのだろう。自分にはまだわからないだけだ。
取引先へ送る通信の署名も直された。
「これ、長くない?」
所属部署まで書いていた。
「先方に所属がわかるようにと思いまして」
「そこまで書かなくても普通わかるでしょう」
次から部署名を省いた。
数日後。「この署名、どこの誰かわからなくない?」
前回言われたことを説明しようか迷った。
やめた。
「申し訳ありません」
「謝ればいいって話じゃないのよ」セレフィナは椅子にもたれ、リーゼを見た。
「老婆心ながら言うけど、こういう小さいところに、その人の仕事に対する姿勢って出るから。言われたことだけ直すんじゃなくて、なぜ言われたのかまで考えないと」
「はい」
「もっと視座を高く持って」
視座。最近、よく聞く言葉だった。
会議では、「リーゼさん、もう少し積極的に発言した方がいいんじゃない?」と言われた。
次の会議で、工房の納期について意見を言った。
終わったあとに呼ばれた。
「まだ全体を理解してないのに、あまり断定的なことを言わない方がいいと思う」
「申し訳ありません」
次の会議では黙っていた。
「会議に参加する意識が低くない?」
どうすればいいのだろう。それでも、リーゼはまだ考えた。発言する内容を選べばいいのだ。言い方を変えればいい。もっと周囲を見ればいい。
セレフィナが言うように、自分にはまだ視座が足りないのだろう。
ある夕方、仕事が片づかず残っていると、「リーゼさん、まだいるの?」と聞かれた。
「今日中のものが残っていますので」
「残業することが頑張ってるってことじゃないからね。時間管理も仕事のうちよ」
翌週、区切りのいいところで定時に帰ろうとした。
外套を取ったところで声がした。
「あれ、帰るの?」
振り返る。
「はい。本日の分は終わりましたので」
セレフィナは周囲を見た。まだ何人か残っている。
「みんな忙しいのによく帰れるね」
リーゼは外套を持ったまま立っていた。
「何かお手伝いした方がよろしいでしょうか」
「そういうのって、人に言われてやることじゃないでしょう?」
結局、その日はもう一時間残った。何をすればいいのかわからなかったので、翌日の資料を先に確認した。帰りの乗合馬車の中で、リーゼは窓に映る自分を見ながら考えた。残業をすると時間管理ができていない。帰ると周囲を見ていない。では、どうすればよかったのだろう。答えは出なかった。
次の日には別の仕事が来たので、そのことは考えなくなった。そんな小さなことが、少しずつ増えていった。
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