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『王宮を辞めたら、話が通じるようになりました ~「それくらい常識」と言われ続けた私が、もう一度仕事を好きになるまで~』  作者: なみゆき


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 リーゼが故郷を出たのは、十五歳の春だった。

数年前に王国を襲った疫病は、人だけでなく村の暮らしそのものを随分変えてしまった。

働き手が減ったせいで耕せなくなった畑があり、ようやく疫病が収まったと思った翌年には天候まで崩れた。


リーゼの家も農家だったから、食べるものがまったくないわけではない。芋も麦も採れるし、鶏もいる。ただ、金がなかった。税を納めるにも、壊れた鋤を直すにも貨幣がいる。種籾だって毎年同じものを取っておけばいいわけではない。けれど村で作物を売ろうにも、買う側にも金がないのだからどうしようもなかった。


そこで領主が、若い者が王都や領外の大きな町へ働きに出ることを奨励した。外で貨幣を稼ぎ、故郷へ持ち帰ってもらうためである。リーゼもその一人になった。


「女の子一人で王都なんて」


母は最後まで嫌がった。


「隣村のマルタも行くよ」


「マルタは兄さんと一緒でしょう」


「私だって領都まではみんなと一緒だし、王都に着いたら紹介所へ行けばいいって言われてるよ」


「そういう話をしてるんじゃないの」


母が何を心配しているのかくらい、リーゼにもわかっていた。それでも家に残ったところで畑が一枚増えるわけではないし、むしろリーゼが一人いなくなれば冬を越すために必要な食料が一人分減る。王都で自分の食い扶持を稼いで、そのうえ少しでも金を送れれば、その方がいい。十五歳なりに考えた結果だった。


父はその話になるといつも黙っていたが、出発の前夜になって小さな革袋を渡してきた。開けると銀貨が何枚か入っていて、リーゼは慌てて顔を上げた。


「こんなにいらないよ」


「持ってけ」


「でも、家だって――」


「帰ってくる金まで使うなって言ってんだ」


それだけ言うと、父はもう話は終わりだというように寝床へ行ってしまった。


結局、その銀貨は一枚も使わなかった。使えなかった、という方が正しいかもしれない。王都へ着いてからも革袋だけは荷物の一番奥へ入れておき、給金をもらうたびに、帰るためではなく家へ送る金をその横へ足していった。


***

 王都で最初にリーゼを雇ってくれたのは、城壁近くにある小さな魔導具商会だった。商会といっても、貴族が利用するような大店ではない。表が店、奥が倉庫、その上に店主一家と住み込みの奉公人が暮らす部屋があり、扱うものも火起こし用の魔石や保温具、夜道を照らす携帯灯といった庶民向けの品が中心だった。


「字は読めるか?」


面接で店主に聞かれた。


「はい」


「計算は?」


「足し算と引き算ならできます。掛け算も。割り算は少し時間がかかります」


店主はそこで初めて顔を上げた。


「できるかって聞いただけなんだが」


「時間がかかってもいいなら、できます」


「正直だな、お前」


それが気に入られたのかどうかは知らないが、その日のうちに雇われた。

初仕事は棚の掃除だった。二日目も掃除。三日目には倉庫から商品の箱を運び、一週間ほどして、ようやく店主から帳簿を渡された。


「昨日売れた分、ここに書いといて」


「どこにですか?」


「ここ。商品名、数、単価。最後に合計」


「はい」


「わからなかったら聞けよ。勝手に書いて間違える方が面倒だから」


簡単そうに聞こえたが、やってみるとわからないことばかりだった。商品名の略し方がわからない。値引きした商品をどこへ書くのかもわからない。返品された品になると、そもそも売上へ書くのか別の帳面なのかさえ知らなかった。


三回聞きに行き、四回目にはさすがに嫌な顔をされるかと思った。


「親方、すみません。返品された分なんですけど」


「ん?」店主は帳簿を覗き込み、指で欄を示した。


「返品はこっちだ。昨日の売上から引く」


「あ、ここですか」


「そう。あと、この書き方は昨日教えたぞ」


「すみません」


「そこは覚えろ。何でもかんでも毎日聞かれたら、俺の仕事が終わらん」


「はい」叱られた。


けれど、どこが間違っていて、次はどうすればいいのかも一緒に教えてもらえた。それで十分だった。

同じことを二度聞かずに済むよう、その日の夜に手帳へ書いた。帳簿の書き方だけではない。商品の置き場所、注文を受けたときに確認すること、よく来る客の名前。何でも書いた。


半年もすると、手帳を見る回数は減った。一年経つころには一人で店番を任される日もできた。


アデラインが店へ来たのは、そのころだった。

最初に目についたのは服だった。派手ではないのに、普段この店へ来る客のものとは生地からして違う。農村育ちのリーゼにも、それくらいはわかった。どこかの貴族か裕福な商家の娘だろうと思ったが、妙なことに供を連れていなかった。


若い女性は店へ入ると、火起こしの魔石を見て、携帯灯を手に取り、最後に保温魔石の前で足を止めた。説明書きをしばらく読んでから、一つ持ってリーゼのところへ来る。


「これ、北でも使える?」


「北、ですか?」


「ええ。冬になると、水桶が朝までに凍るくらいのところ」


リーゼは保温魔石を見た。王都周辺で使えることは知っている。店主からもそう教わったし、自分でも使ったことがある。ただ、水桶が凍るほど寒い土地で同じように使えるかは聞いたことがない。


「申し訳ございません。わかりません」


女性が顔を上げた。


「わからないの?」


「はい。王都周辺で使えることは確認されていますが、そこまで寒い土地で使えるかは、私では判断できません」


「そう。じゃあいいわ」


あっさり棚へ戻して帰ろうとしたので、リーゼは慌てて呼び止めた。


「あの、少しお時間をいただけますか」


「何に?」


「製造元に確認してみます。北方へ商品を卸している商会も近くにありますので、そちらにも使用例がないか聞いてみます」


女性は振り返った。


「あなたの店の商品なのに、ほかの商会にも聞くの?」


「はい」


「もし、そっちにもっといいものがあったら?」


「そちらをご案内します」


「あなたの店は儲からないでしょう」


それはそうだった。リーゼは少し考えてから答えた。


「でも、使えないものを売ったら、お客様が困りますから」


女性はしばらくリーゼを見ていた。


何か変なことを言っただろうかと思い始めたころ、ふっと笑った。


「あなた、名前は?」


「リーゼです」


「そう。リーゼね。じゃあ、お願い」


三日かけて調べた。製造元へ手紙を出して返事を待つだけでは時間がかかるので、ちょうど王都へ来ていた職人を紹介してもらい、昼休みに会いに行った。


「北方? どのくらい北だ」


「冬に水桶が凍るくらいだそうです」


「そりゃ駄目だな」あっさり言われた。


「駄目ですか」


「使えなくはないが、効率が落ちる。あれは王都あたりまでだ」


何なら使えるのか聞くと、別の工房が寒冷地用のものを作っているという。自分の店では扱っていなかった。店主へ報告すると、案の定、渋い顔をされた。


「それで、お前はよその工房を紹介するつもりか?」


「はい」


「あのなあ、リーゼ。商売ってのはな」そこまで言って、店主は頭を掻いた。

「……まあ、使えねえもん売って戻ってこられるよりはいいか」


「ですよね」


「嬉しそうに言うな」


数日後、アデラインが再び店へ来た。


「お待たせしました。こちらの商品ですと、北方では性能が落ちるそうです。ただ、こちらの工房でしたら寒冷地用のものを扱っています」

紙に書いた住所を渡す。


アデラインは受け取ったあと、紙ではなくリーゼを見た。


「本当に調べたのね」


「調べると申し上げましたので」


「そうね」また笑われた。


それからアデラインは、ときどき店へ来るようになった。買い物をするときは、なぜかリーゼを呼ぶ。

ある日は、まとまった数の魔導具を前にして尋ねた。


「これ、三日で揃えられる?」


「できません」


即答すると、アデラインが瞬きをした。「早いわね」


「在庫が八個しかありませんので」


「お金を多く払っても?」


「残りを作る時間は変わりません」


「少しくらい考えるふりをしない?」


「考えたふりをしたら、三日でできるようになりますか?」


アデラインは一瞬黙り、それから声を上げて笑った。リーゼにはやはり、何がそんなに面白いのかわからなかった。


十七歳になったころ、取引のある輸送商会から声をかけられた。


「うちに来ないか」


「私がですか?」


「お前以外に誰がいる」


「でも、私は店員しかしたことがありません」


「だから教えるんだよ。発注とか荷の管理とか、覚える気あるか?」


あります!。知らない仕事だった。それが少し楽しそうだと思ったし、給金も上がる。実家へ送れる金も増える。


店主に相談すると、「行ってこい」とあっさり言われた。


「いいんですか?」


「駄目って言ったら残るのか?」


「……行きたいです」


「じゃあ聞くな」


その話をどこから聞いたのか、アデラインが店までやってきた。


「辞めるんですって?」


「はい。輸送商会で働くことになりました」


「そう」


少し考えたあと、アデラインは鞄から小さな紙を取り出した。名前と住所が書かれている。王都の貴族街だった。


「これ、持っておいて」


「こちらは?」


「私の連絡先。いつかまた別のところで働きたくなったら、手紙をちょうだい」


「お仕事を紹介してくださるということでしょうか」


「そんなところね」


「どうして私に?」


アデラインは少し呆れたような顔をした。


「あなた、自分で思っているより仕事ができるから」


「そうでしょうか」


「そうよ。知らないことを知っているふりはしない。できないことをできるとも言わない。調べると言ったことは調べてくる。無理な納期を、相手がお金を持っているからって安請け合いもしない」


「普通では?」


「そう思ってるところも含めてね」また笑われた。


紙は仕事用の手帳の後ろへ挟んだ。貴族街にあるのだから、アデラインの実家か、仕えている家なのだろう。それ以上調べようとは思わなかった。


***

 輸送商会へ移ってからの三年は、あっという間だった。発注と納期管理を覚え、荷が届かなければ倉庫へ行き、工房の生産が遅れていれば事情を聞いた。最初のころは予定日に荷が届かないだけで慌てたが、そのうち、遅れることそのものより、いつまで遅れるのかわからない方が困るのだと覚えた。


ある日、工房へ催促に行くと、職人に嫌な顔をされた。


「商会はすぐ急げ急げって言う。こっちだって遊んでるわけじゃねえ」


「では、いつならできますか?」


「あと五日」


「三日では?」


「無理だ」


「わかりました。五日で先方へ相談します」


職人が妙な顔をした。「……お前、もうちょっと粘らねえの?」


「三日では無理なんですよね?」


「無理だ」


「では、五日ですよね」


「まあ、そうなんだが」


その顔をどこかで見たことがある。アデラインがよくする顔だった。

 

***

 十八になるころには、工房と商会の間に入って納期を調整する仕事も任された。外国商会との取引が増えれば、必要に迫られて帝国語も勉強した。

最初から何でもできたわけではない。

発注数を一桁間違えて青くなったこともあるし、納入先を取り違えて馬車を追いかけたこともあった。取引先へ送る手紙の敬称を間違え、先輩に頭を小突かれたこともある。

そのたびに叱られた。


「次からここを確認しろ」と言われれば、手帳へ書いた。

同じ失敗をしなければ、それで終わった。いつの間にか、新しく入った者へ今度はリーゼが教える側になった。


「わからなかったら聞いてね」


そう言うのは、自分がそうしてもらったからだった。


***

 十九歳の終わりごろ、取引先の一人から王宮魔術院の募集について教えられた。


「民間の実務経験者を採るらしいぞ」


「王宮がですか?」


「珍しいだろ。受けてみたらどうだ」


「私が?」


「その顔、前にもしたな」


「でも王宮ですよ」


「落ちたら今の仕事続けりゃいいだろ」


それもそうだった。

応募した。

書類審査を通った。

実務試験も通った。

最後の面談では、これまで何をしてきたのかを細かく聞かれた。

「納期に間に合わないとわかったら、どうしますか?」


「まず、どこで遅れているか確認します。それから、いつなら可能なのか確認して、先方へ相談します」


「取引先と工房の意見が対立したら?」


「両方に、できることとできないことを聞きます。できないもの同士を比べても仕方がないので」


「自分にわからないことを聞かれたら?」


「わからないと答えます。そのあと、わかる人を探します」


面接官の一人が少し笑った。「知っているふりはしない?」


「しても、あとで困りますから」


格好のいいことは何も言わなかった。

今までしてきたことを、そのまま話しただけだった。


***

 そして二十歳の春、採用通知が届いた。何度も読み返した。十五歳で故郷を出たころは、一年働ければ十分だと思っていた。それが五年経って、王宮まで来た。


母へ知らせれば泣くだろう。父はたぶん「そうか」としか言わない。それでも、あの夜に渡された銀貨の入った革袋をまだ持っていることを、今度帰ったら父に見せようと思った。

知らないことがあれば覚えればいい。わからなければ調べればいい。それでもわからなければ、知っている人に聞けばいい。

今までずっと、それで何とかなった。

だから王宮でも、きっと大丈夫だと思った。


まさか、わからないから聞いている相手から、

「そんなこともわからないの?」

と返される日が来るとは思っていなかった。


まして、何が正解なのかを尋ねることそのものが怖くなる日が来るなど、そのころのリーゼには想像もできなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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