第一話
※全話書き上げ済みです。
蜘蛛の巣に引っかかったときの感触が、リーゼは昔から嫌いだった。
顔にかかった糸を手で払って、髪も服も確かめて、もう取れただろうと思って歩き出す。それなのに、しばらくすると頬のあたりがむずむずする。気になってまた払う。何もついていない。
それでも今度は指先に細い糸が絡んでいるような気がして、手を擦り合わせる。取れたのか、最初から何もなかったのか、そのころにはもう自分でもわからない。
王宮魔術院を辞めて数日経った今の自分が、ちょうどそんな具合だった。
もう第三管理室へ行く必要はないし、朝になってセレフィナの機嫌を考える必要もない。
ノアが「やっておきます」と言った仕事を本当にやっているか確認する必要もなければ、何か問題が起きるたびに、ベネディクトへどう説明すれば今度こそ話をわかってもらえるのか、頭の中で順番を組み立てる必要もない。
わかっている。わかっているのに、身体の方がなかなか納得してくれなかった。
今朝も、湯を沸かしている途中で火が強すぎるような気がして手を伸ばし、そこで止まった。
弱めてもいいのだろうか。
そう思ってしまった自分に気づいて、リーゼはしばらく薬缶を見つめた。
自分の部屋で、自分が飲むお茶の湯を沸かしているだけである。
火を強くしようが弱くしようが、誰にも関係がない。それなのに頭のどこかで、「どうしてそうしたの?」と聞かれる気がした。
火が強いと思ったからです。
――それはあなたの感覚でしょう?
では、どのくらいならいいのでしょう。
――それくらい自分で考えて。
考えて弱めれば、
――どうして確認しなかったの?
そこまで頭の中で再現してから、リーゼは何とも言えない気分になって火を弱めた。
王宮を辞めたというのに、セレフィナまで連れてきた覚えはない。馬鹿馬鹿しいと思った。
少し笑いそうにもなったが、笑えなかった。
薬缶一つでこれなのだから、思っていたより重症なのかもしれない。
湯が沸くまでの間、窓を開けた。
遠くに王宮魔術院の尖塔が見えた。
つい数日前まで毎朝あそこへ通っていたのに、こうして離れたところから眺めると、妙に現実味がない。
あそこで三年近く働いていた。
三年………。口にすればそれほど長くもないのに、最後の一年はひどく長かった。最初からおかしいと思っていたわけではない。むしろ最初のころは、王宮とはこういうものなのだろうと思っていた。
民間とは違う。
王宮には王宮のやり方がある。
経験者として採用されたのだから、一から教えてもらおうとする方がおかしい。
セレフィナにそう言われれば、なるほどと思った。
だから過去の記録を調べた。三年分調べてもわからなければ五年分まで遡った。それでも判断できないことだけを選んで質問したつもりだった。
「そこまで調べたなら、自分で考えられるでしょう?」そう言われたので、自分で考えた。
すると数日後、「どうして確認しなかったの?」と叱られた。
次は確認した。「その程度のことまで、いちいち私に聞く必要ある?」
そう言われたので、その次は聞かなかった。「どうして私は聞いてないの?」
あのころのリーゼは、そこで相手がおかしいとは思わなかった。聞き方が悪かったのだと思った。
質問する時期が悪かったのかもしれない。説明の順番が悪かったのかもしれない。セレフィナの言う「全体を見る」ということが、自分にはまだできていないのかもしれない。
同じ王国で生まれて、同じ言葉を使って話しているのだから、きちんと説明すればわかってもらえると思っていた。
一から十まで説明して話が通じなければ、自分の説明が足りなかったのだと思って十二まで説明した。
すると、なぜか三十について叱られた。
三十について説明しようとすると、今度はリーゼの仕事に対する姿勢の話になった。
「老婆心ながら言うけど、もう少し視座を高く持った方がいいと思うの」何度聞いたかわからない。
その「視座」とやらを高くすれば、存在しない手順書が見えるようになるのか、まだ走っていない早朝の乗合馬車が走り出すのか、一度くらい聞いてみればよかった。もちろん、当時はそんなことを考える余裕もなかった。
困って、上司であるベネディクトにも相談した。
責任者なのだから、少なくとも話を整理してくれると思っていた。
ベネディクトは話を聞いてくれた。「大変だね」と言ってくれたし、「それは困ったね」とも言ってくれた。人当たりだけなら、最後まで悪い人ではなかったと思う。
ただ、話を全部聞いたあとで決まって、
「それで、セレフィナは何て言ってる?」と聞く人だった。
セレフィナとの話が通じないから、あなたに相談しているのですが。今ならそう言える。あのころは言えなかった。もう一度セレフィナに相談した方がいいのだろうか。自分がベネディクトへ話したと知れば、告げ口をしたと思われないだろうか。そもそも責任者へ相談するほどのことではなかったのではないか。
そうやって考えているうちに、結局、自分で何とかする方を選んだ。
一本ずつだったのだと思う。
最初は気にもならないほど細い糸だった。
自分で考えて。
勝手に判断しないで。
報告して。
その程度まで報告しないで。
もっと周囲を頼って。
人に頼る前に自分で考えて。
一本なら簡単に払えた。だから払った。
ところが、払おうと伸ばした指に別の糸が絡んだ。そちらを取ろうとすれば今度は手首に付き、気づいたころには、どこから手をつければいいのかわからなくなっていた。
それでも、蜘蛛の巣の方がおかしいとはなかなか思えない。
周りでは皆、普通の顔をして働いている。
セレフィナは「あなたのため」と言う。
ベネディクトは「大変だね」と言う。
ノアは「僕もフォローしますよ」と笑う。
そんな中で、自分だけがどんどん仕事をできなくなっていく。
昔ならその場で決められたことに迷うようになった。一通の通信を送るのに何度も読み返し、宛先を確認し、数字を確認し、添付を確認し、署名を確認する。これでいいと思って送ろうとした瞬間に、セレフィナならどこを指摘するだろう、と考えてしまう。
もう一度最初から読む。
それでも何か見落としている気がする。
そうして時間がかかれば、今度は「仕事が遅い」と言われる。
蜘蛛の巣の中で暴れている虫は、たぶんこんな気分なのだろう。
逃げようとしているつもりなのに、動くほど身体が動かなくなる。
最後には、逃げる方向までわからなくなる。
王宮を辞めてから、リーゼはようやくそれを考えられるようになった。中にいるときには、考えられなかった。いや、考えてはいた。ただし考えていたのは、どうすればここから出られるかではなく、どうすれば次は怒られずに済むか、だった。
そこが一番怖い。
「ここがおかしい」と思えなくなる。
「私がおかしいのだろうか」と思い始める。
あれは、病む。
病んだ人間が弱いのではない。
人を病ませる場所というものが、本当にあるのだと、今のリーゼは思う。
幸い、リーゼの場合は身体の方が先に音を上げた。
腕に出た赤い発疹は、昼には首まで広がっていた。それでも仕事が三件残っていることの方が気になって、書類を抱えて王宮の廊下を走っていた。
そこで、偶然アデラインに見つかった。
「リーゼ?」
呼ばれて足を止めた。久しぶりに会った彼女が最初に言ったのは、再会を喜ぶ言葉ではなかった。
「あなた、それ何?」
何のことかわからなかった。
アデラインに腕を取られて袖を上げられ、自分でも驚いた。手首から肘の内側まで、赤い発疹がびっしり浮いていた。
「いつから?」
「昨日くらいから少し」
「治癒院には?」
「まだです。今日中の仕事が残っているので」
「その身体で?」
「大丈夫です」
そう答えたときのアデラインの顔を、今でも覚えている。
昔、小さな魔導具商会で「三日では無理です」と即答したリーゼを知っている人だった。
「あなた、昔そんなこと言う人だった?」
言われても、そのときは意味がわからなかった。
アデラインはそのまま第三管理室まで来た。
そこでセレフィナは、リーゼの発疹を見るなり、「体調が悪いなら言ってくれないと、私たちにはわからないでしょう?」と言った。
ノアは、「僕も結構フォローしてるんですけど、リーゼさん、真面目だから」と困ったように笑った。
そして責任者であるベネディクトは、目の前にいるリーゼではなくセレフィナを見て、「セレフィナ、どういう状況?」と聞いた。
アデラインは、しばらく三人の顔を順番に見ていた。
あのときの彼女が何を思っていたのか、今ならだいたいわかる。
当時のリーゼにはわからなかった。
ただ、セレフィナに「無理をしろなんて言っていない」と言われて、自分の受け取り方が悪かったのだろうかと思った。
ベネディクトに「無理しちゃ駄目だよ」と言われて、自分の体調管理ができなかったことを恥じた。
ノアに「こういうときは頼ってくださいよ」と言われて、頼れなかった自分が悪かったのだと思った。
そして、「申し訳ありません」と謝った。
発疹を出していたのは自分なのに。
今思い返すと、あれほど奇妙な話もない。
アデラインに半ば引きずられるようにして治癒院へ向かう途中でも、リーゼは明日の仕事を考えていた。身体はとっくに「もう無理だ」と言っているのに、頭だけはまだ蜘蛛の巣の中にいたのだ。
もし、あの日アデラインと会わなかったら。
もし身体が何も訴えなかったら。
あと半年くらいは働いていたかもしれない。
一年かもしれない。
自分が悪いと思いながら、仕事を抱えて、何か言われるたびに謝っていたのだろう。
その先は、あまり考えたくない。
窓の外には王宮魔術院の尖塔が見えている。
十五歳で故郷を出たリーゼが、五年かけてようやく辿り着いた場所だった。
採用通知を受け取った日は嬉しかった。
何度も読み返した。王宮で働ける。
今まで頑張ってきたことが認められた。そう思った。だからこそ、簡単には手放せなかった。
少しくらい辛くても、せっかくここまで来たのだからと思った。自分がもっと仕事を覚えれば、もっと上手に説明できれば、もっと周囲とうまくやれれば、きっと以前のように働けるようになると思っていた。
蜘蛛の巣を払おうとして、さらに絡まっているとも知らずに。
リーゼは窓を閉め、机の上に置いていた古い手帳を開いた。
何冊か替えてきたけれど、大切なものだけは新しい手帳へ移している。その最後の頁に、何年も挟んだままの小さな紙があった。
アデラインからもらった住所だった。
――いつかまた、別のところで働きたくなったら。
十七歳のリーゼは、その言葉を本気にはしていなかった。
まさか六年後、本当にその住所を頼ることになるとは思わなかったし、その先で、自分が仕事を嫌いになったわけではなかったと知ることになるとも思っていなかった。
その話をするには、少し前まで戻らなければならない。
リーゼが故郷を出た、十五歳の春まで。
お読みいただきありがとうございます。
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