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全話書き上げ済のため、本日完結まで投稿していきます。
横でノアが居心地悪そうに身体を動かした。「でも、僕はリーゼさんと別に揉めてないですよね?」
唐突だった。リーゼはノアを見た。
「揉めてはいませんね」
「ですよね」ほっとしたように笑う。
「僕、むしろリーゼさんのこと結構手伝ってましたし。だから、僕まで一緒に何か悪かったみたいに言われるのは、ちょっと違うかなって」
誰もノアが悪かったとは言っていない。けれど本人の中では、もうそういう話になっているらしい。
「何を手伝っていただきましたか?」
ノアが瞬きをした。「え?」
「私の仕事をです。具体的に、何を手伝っていただいたのでしょうか」
「いや、いろいろですよ」
「たとえば?」
「たとえばって言われても……三年近く前のことまで、いちいち覚えてないですけど」
「私は覚えています」
リーゼは別に責めるつもりで言ったわけではなかった。本当に覚えている。
覚えていたくて覚えているのではない。あのころは何かあるたびに、自分が間違っていたのか確かめるために手帳へ書いていた。だから嫌でも残っている。
「使節来訪の日、早朝に来ていただきましたね」
ノアの顔が明るくなった。「そうそう。あのときも僕が代わりに行ったじゃないですか」
「はい。来ていただきました」
「ほら」
「何をしていただいたのでしょうか」
「何って」
「六の鐘に来て、何を準備されましたか?」
ノアが黙った。
「私は前日に会議資料を揃えて、会議室へ置きました。茶器は侍従の担当でした。座席表もすでに届いていました。ノアさんは六の鐘に来て、何をされたのでしょう」
「いや、セレフィナさんが来るまで待ってましたよ」
「朝食を召し上がっていましたね」
「それは、待ってる間だから」
「はい。そのあと、私が前日に置いた資料が揃っていることを確認してくださいました」
「だから、それも仕事でしょう?」
「そうですね」否定しなかった。資料を確認した。それは事実だ。
「では、そのほかには?」
ノアは答えなかった。
リーゼはずっと不思議だった。
あの日、自分が六の鐘までに来なかったことで、いったい何が困ったのか。
何年も考えていたわけではない。そんな大層なことではない。ただ、ときどき思い出すたびに、やっぱりわからなかった。
「私は今でも、あの日、何のために六の鐘までに誰かが来る必要があったのかわからないんです」
「来訪者を迎える心構えの問題でしょう?」セレフィナが言った。
「心構えですか」
「そう。実際に何をするかだけが仕事じゃないでしょう? 相手をお迎えする姿勢というものがあるのよ」
「そのために、始発のない時間に出勤する必要があったのでしょうか」
「だから、そういう細かい話をしてるんじゃないの」
以前と同じだった。具体的に聞くと、急に「細かい話」になる。
「私には細かい話ではありませんでした」
セレフィナの眉が寄った。
「二時間歩けば来られました。でも、なぜ二時間歩いて来る必要があるのかがわからなかったので、理由を聞きました。今日中にできる準備なら済ませて帰るとも言いました」
「それは覚えてるわよ」
「そのとき、セレフィナさんは『できない理由を探すのはやめた方がいい』とおっしゃいました」
「そういう考え方をしていたからでしょう?」
「どういう考え方でしょうか」
「だから」セレフィナの声に苛立ちが混じった。
「最初から、できません、無理です、っていう姿勢よ」
「馬車がない、と申し上げました」
「同じでしょう?」
「同じでしょうか」
「リーゼさん」
また、あの声だった。
当たり前のことを説明してやっている、という声。
「仕事っていうのは、できない理由を並べることじゃないの。どうしたらできるかを考えることなのよ。あなた、そこを最後まで理解してくれなかったけど」
以前なら、ここで黙った。今は少し考えた。
「では、あの日はどうすれば正解だったのでしょうか」
セレフィナが口を閉じた。
「二時間歩いて出勤することでしょうか。それとも前日から王宮の近くへ泊まることでしょうか。別の馬車を自費で手配することでしょうか」
「そういうことを一つ一つ私が決める話じゃないでしょう」
「では、私が判断するのですね」
「当然でしょう?」
「でも、私が自分で判断すると、なぜ確認しなかったの、と言われました」
セレフィナの顔が硬くなった。「それは案件によるでしょう」
「はい。ですから、どの案件なら自分で判断してよく、どの案件なら確認が必要なのか、何度かお尋ねしました」
「そこまで基準を決めてもらおうとすること自体が――」
「受け身ですか?」
言葉を先に取られて、セレフィナが黙った。
ベネディクトが慌てて口を挟んだ。「リーゼ、昔のことを一つ一つ掘り返しても仕方ないよ」
「そうでしょうか」
「僕たちは、これからどうするかを話しに来たんだから」
「私は戻らないと申し上げました」
「だから、そこも含めて話し合おうって」
リーゼはベネディクトを見た。この人は、本当に変わらない。話し合うと言う。相談してと言う。話は聞く。けれど、最後に何かを決めるのは、いつも別の誰かだった。
「ベネディクト様」
「うん?」
「私が業務量についてご相談したときのことを覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん」少し早い返事だった。
「担当一覧を作って、一部を分担していただけないかお願いしました」
「うん」
「そのとき、実際の業務量を確認してくださいましたか?」
「だから、セレフィナにも確認したよ」
「私の業務量を、セレフィナさんに?」
「現場を見ていたのは彼女だからね」
「責任者はベネディクト様ですよね」
一瞬、部屋が静かになった。「それはそうだけど」
「早朝出勤についてご相談したときは?」
「……覚えてるよ」
「セレフィナさんに確認されましたか?」
「そこは、ノアが代わりに行くことになって解決したでしょう?」
「確認はされましたか?」
ベネディクトが困ったように笑った。その笑い方も、変わっていない。
「リーゼ、何が言いたいのかな」
「確認されたのかを伺っています」
笑顔が少し薄くなった。「……してないよ」
「そうですか」
「でも、結果的には問題なかったわけだし」
「療養中に毎日業務連絡が来ていたことは、ご存じでしたか?」
「それは知らなかった」
「復帰した日に、一週間分の仕事がそのまま机に残されていたことは?」
「……」
「その直後、数か月止まっていた案件を今週中に処理するよう渡されたことは?」
ベネディクトはセレフィナを見た。まただ。
リーゼはその視線を見て、妙に納得した。
「今も、セレフィナさんを見るんですね」
ベネディクトがこちらを向いた。「え?」
「私が聞いているのに」
「いや、それは、僕が把握してないことだから」
「責任者なのに?」
「だから、その点は僕も反省してるって言ってるじゃないか」
「何をですか?」
今度は笑顔が消えた。
「何を確認せず、何を間違えたと思っていらっしゃるのですか?」
ベネディクトは答えなかった。
「先ほど、もう少し間に入ればよかったとおっしゃいました。何と何の間に入るべきだったのでしょう」
「それは……君とセレフィナの」
「私は、セレフィナさんとの人間関係について相談したことはありません」
「でも、実際うまくいってなかったでしょう?」
「業務量と、指示と、判断基準について相談しました」
ベネディクトの顔に、初めて困惑が浮かんだ。
リーゼはそこでようやく気づいた。この人は三年間、問題をそういうものだと思っていたのかもしれない。
リーゼとセレフィナの相性が悪い。
リーゼが少し細かい。
セレフィナが少し厳しい。
ノアが間を取り持つ。
自分は皆の話を聞く。
そういう、どこにでもある職場の人間関係だと思っていたのかもしれない。
だから何もしなかった。
「私は、どうすれば正解だったのでしょうか」誰にというでもなく、リーゼは聞いた。
三人とも黙っている。
「質問すれば、自分で考えろと言われました。自分で考えて進めれば、なぜ確認しなかったと言われました。途中経過を報告すれば、その程度まで報告する必要はない。重要なことだけにすれば、どうして私は聞いていない。早めに問題を相談すれば、まだ何も起きていない。問題が起きてから報告すれば、どうしてもっと早く言わなかったのか」
セレフィナが何か言おうとしたが、リーゼは続けた。
「残業をすれば時間管理ができていない。定時に帰ろうとすれば、みんな忙しいのによく帰れる。会議で発言しなければ参加意識が低い。発言すれば、まだ全体を理解していないのに断定的なことを言うな」
一つずつ口にしていくと、不思議だった。
王宮にいたころは、全部別々の出来事だった。
その都度、何か理由があるのだと思っていた。
並べてみると、ひどく単純だった。
「それは全部、状況が違うでしょう?」セレフィナがようやく言った。
「そうかもしれません」
「仕事なんだから、毎回同じ答えになるわけないでしょう。相手や状況を見て判断するのが普通なの」
「はい。だから私は、毎回正解を探しました」
セレフィナが黙った。
「でも、見つかりませんでした」
見つからなかったのではない。
なかったのだ。
そのとき初めて、それを口にしなくても自分の中ではっきりわかった。
「ですから、戻りません」
ベネディクトが深く息を吐いた。
「でも現実問題として、第三管理室の仕事が止まってるんだよ」
結局、そこだった。リーゼは少し笑った。自分でも意外だった。
「それは大変ですね」
「だから、君に少し協力してもらえれば――」
「皆様でご対応ください」
「リーゼ」
「私が王宮へ入ったとき、引き継ぎ書はありませんでした。手順書もありませんでした。過去の通信を確認して、自分で考えるようにと言われました」
セレフィナの口元が引きつった。
「今と当時は――」
「違うのであれば、その違いを皆様でお考えください」
「そんな言い方――」
「それくらい常識でしょう?」
静かになった。言ってから、少しだけ意地が悪かったかもしれないと思った。けれど、謝らなかった。
セレフィナの顔が赤くなっている。
「リーゼさん、あなたね――」
そのとき扉が軽く叩かれた。全員が振り返った。
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