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『王宮を辞めたら、話が通じるようになりました ~「それくらい常識」と言われ続けた私が、もう一度仕事を好きになるまで~』  作者: なみゆき


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第十一話

王宮を辞めた翌朝、リーゼはいつもの時間に目を覚ました。目覚めたというより、飛び起きた。窓の外が明るい。遅刻した。

そう思って寝台から降りかけ、そこで止まった。行くところがない。いや、正確には数日後から新しい仕事が始まるのだが、少なくとも今日は王宮へ行かなくていい。


しばらく寝台の縁に座っていた。心臓だけが、まだ遅刻した人間のように速く動いている。


「……辞めたんだった」声に出すと、妙な感じがした。


嬉しいわけでも、悲しいわけでもなかった。ただ、落ち着かなかった。王宮へ行かなくていい。セレフィナに会わなくていい。ノアから仕事を置かれることもない。ベネディクトに何か相談する必要もない。それなのに、何か大事なことを忘れているような気がした。その日は結局、何をするでもなく終わった。翌日も似たようなものだった。


三日目になって、ようやくアデラインから渡されていた住所を訪ねた。王都の貴族街にあることは知っていた。だから、アデラインはどこかの貴族家に仕えているのだろうと思っていた。

実際に住所の前へ立って、リーゼはしばらく門を見上げた。


『大きなお屋敷』

王都に屋敷を構える貴族の中でも、かなり上の家ではないだろうか。


門番に紙を見せた。「こちらのアデライン様に、来るようにと言われまして」


門番は紙を確認し、次にリーゼを見た。「お名前を」


「リーゼです」


それだけで門番の姿勢が変わった。「お待ちしておりました」


何を待たれていたのだろうか。

案内された応接室も、リーゼがこれまで入ったことのあるどの部屋より立派だった。

座っていいのかわからず立っていると、しばらくして扉が開いた。


「何してるの?」アデラインだった。


「いえ」


「座ればいいでしょう」


「はい」言われて座った。


アデラインも向かいに腰を下ろす。


「本当に来たのね」


「来るようにおっしゃったので」


「そうだけど」何がおかしいのか、また笑われた。


「それで、こちらは……?」


「私の家」


「ご実家ですか?」


「王都の家よ。本邸は北にあるから」


そこでようやく、何かがおかしいと思った。


「本邸?」


「言ってなかった?」


「何をでしょう」


「私、北方辺境伯家の娘なの」


リーゼはしばらくアデラインを見た。冗談を言っている顔ではない。


「……辺境伯」


「そう」


「の、ご令嬢」


「長女」


「……」


「何その顔」


「いえ」


昔のことが次々に浮かんだ。

庶民向けの小さな魔導具商会へ一人で来たこと。

寒冷地用の保温魔石を探していたこと。

三日で商品を揃えられるか聞いてきたこと。


「では、あの保温魔石は」


「領内の山村で使えるものを探してたの」


「最初から?」


「ええ」


「どうして教えてくださらなかったんですか」


「聞かれなかったから」


それを言われると何も返せない。


「それに、あのとき身分を言ったら、あなた絶対態度変えたでしょう」


「当然です」


「だから言わなかったのよ」アデラインは楽しそうだった。


リーゼは少し頭が痛くなった。十七歳のころ、辺境伯令嬢に向かって「考えたふりをしても三日ではできません」と言った。今さらどうにもならない。


「それで、仕事の話なんだけど」アデラインが机の上に何枚か書類を置いた。


「近いうちに、隣国の国境伯家の次男と婚姻することになってるの」


「おめでとうございます」


「ありがとう。向こうは次男だから、婚姻後はこちらへ来てもらう予定」


国境を接する家同士の婚姻なら、政治的な意味も大きいのだろう。


「それに合わせて、隣国との交易を増やす話が進んでるの。今までも取引はあったけど、規模を広げたい」


書類を一枚渡された。

交易品の一覧だった。

魔導具、鉱石、織物、薬草。

輸送経路も書いてある。

リーゼは思わず読み始めた。


「どう?」


「この街道は冬に使えませんよね」


「そうね」


「こちらへ迂回すると日数がかなり増えます」


「うん」


「それと、魔導具と薬草を同じ便に載せるのは少し危ないと思います。温度管理が違いますから」


アデラインが笑った。「やっぱりあなたに頼んで正解だった」


リーゼは書類から顔を上げた。「私が担当するのでしょうか」


「そのつもり」


「ですが、私は辺境伯家で働いた経験がありません」


「王宮に入ったときもなかったでしょう」


「それはそうですが」


「商会で働いた。輸送もやった。工房との調整もした。外国商会との取引も経験してる。何が足りないの?」


聞かれて考えた。


「貴族家での経験でしょうか」


「それは働けばつくわよ」


あまりにも簡単に言われた。


「できない?」聞かれた。


リーゼは資料をもう一度見た。以前なら、できるかどうかを考えただろう。今は別のことを考えた。できないと言ったら、何と言われるだろう。期待していたのに。それくらいできないの。経験者でしょう。頭の中に、聞いてもいない言葉が並んだ。


「リーゼ?」


「はい」


「無理なら無理でいいのよ」


顔を上げた。「……いいんですか?」


「何が?」


「できないと申し上げても」


アデラインはしばらくリーゼを見た。


「できない仕事を、できるって言われる方が困るけど」


昔も同じことを言われた気がした。

いや、言ったのは自分だったかもしれない。

リーゼはもう一度資料を見た。


「全部を一人ではできません」


「うん」


怒られない。


「輸送条件を整理する人と、隣国側との契約を確認できる人が必要です。それから魔導具については技術担当の方に入っていただきたいです」


「ほかには?」


「現地を一度見たいです。地図だけでは冬の輸送が判断できません」


「わかった」


アデラインは紙へ書き始めた。「人は用意する。現地視察も組む。それなら?」


「できます」


「じゃあお願い」


話が終わった。リーゼはしばらく座っていた。


「何?」


「いえ」


「まだ何かある?」


「……ないです」


本当に、なかった。


できない条件を言った。

必要なものを言った。

相手が答えた。

それで話が終わった。

何か裏があるような気がした。


もちろん、裏はなかった。仕事を始めてからも、しばらくはその調子だった。


「アデライン様。この三件ですが、どれを優先すればよろしいでしょうか」


「二番。一番は明日でいい。三番は来週」


「承知しました」席へ戻りかけて、止まった。


「何?」


「二番を優先、でよろしいのですよね」


「そう言ったけど」


「はい」


戻った。


翌日になって、

「どうして一番を先にしなかったの?」

と言われるのではないかと思った。


言われなかった。


別の日。「こちらの納期ですが、予定通りは難しいです。五日延ばせれば確実です」


「理由は?」


「峠で荷崩れがあり、馬車が二台使えません。代替を手配すると五日です」


「三日なら?」


「別の荷を遅らせれば可能です」


「それは困るわね。じゃあ五日延ばしましょう。先方には私から話す」


「……よろしいんですか?」


「何が?」


また聞いてしまった。


「いえ。ありがとうございます」怒られなかった。


あるときは、アデラインから受けた指示に矛盾があった。気づいた瞬間、胃が重くなった。

言うべきか。自分が何か勘違いしているのではないか。過去の書類を確認した。やはり矛盾している。もう一度確認した。間違いない。

それでも、アデラインのところへ行くまでに随分時間がかかった。


「どうしたの?」


「先ほどの件ですが」


「うん」


「こちらを優先するようご指示いただきましたが、昨日の契約変更ですと、こちらを先にすると納入日が重なります」


アデラインは資料を見た。「あ」


リーゼは身構えた。


「あ、本当ね。私が間違えたわ」


「……」


「昨日の変更、こっちに反映するの忘れてた。じゃあ順番逆にして」


「はい」


アデラインが顔を上げた。「何?」


「いえ」


「最近、その言葉多いわね」


「申し訳ありません」


「それも多い」


リーゼは黙った。


「私が間違えたのに、なんであなたが謝るの?」


答えられなかった。


アデラインは少し困った顔をした。


「まあ、いいわ。そのうち戻るでしょう」


何が戻るのか、そのときはわからなかった。

婚姻準備のため、隣国から人が来ることも増えた。

その中に、アデラインの婚約者に仕える従者がいた。


テオドールという男だった。リーゼより二つ年上で、愛想はあまりよくない。

初めて会ったときも、「交易実務を担当するリーゼです」と挨拶すると、「テオドールです。こちら側の輸送と契約確認を担当します」それだけだった。余計なことを言わない人らしい。


仕事はやりやすかった。

「この日程では無理です」ある日、リーゼが輸送計画を見て言った。


テオドールは資料へ目を落とした。「理由は?」


「峠を越える荷馬車が足りません。予定通りなら、ほかの荷を遅らせる必要があります」


「では三日延ばせば?」


「可能です」


「そうしましょう」


話が終わった。


リーゼは思わず彼を見た。 


「何です?」


「いえ」


「ほかに問題が?」


「ありません」


「では、これで」


本当に終わった。

あとになって、少し笑った。話が通じる。それだけのことが、妙に面白かった。


別の日、隣国から届いた書類に知らない言い回しがあった。

以前なら、まず自分で調べた。

辞書を見る。過去の文書を探す。

それでもわからなければ、質問していい内容なのかを考える。


今回はそこまでしてから、ふと手を止めた。

テオドールがすぐ近くにいる。聞けばいいのではないか。そう思ってから、声をかけるまでにまた少し時間がかかった。


「テオドールさん」


「はい」


「この単語の意味を教えていただけますか」書類を見せた。


「ああ。これは北部だけで使う言い回しです」紙に意味を書いてくれた。

「正式な文書ではほとんど使いません。知らなくても当然です」


「……当然?」


「はい」


「そうですか」


「何か?」


「いえ。ありがとうございます」


知らなくても当然。そんなことを言われたのは、随分久しぶりな気がした。

お読みいただきありがとうございます。

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