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『王宮を辞めたら、話が通じるようになりました ~「それくらい常識」と言われ続けた私が、もう一度仕事を好きになるまで~』  作者: なみゆき


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 アデライン様は、十歩ほど歩いてから、ぽつりと言った。「何、あれ」


リーゼは思わず顔を上げた。「え?」


「あなた、ずっとあそこで働いてるの?」


「はい」


「何年?」


「もうすぐ三年です」


アデラインが足を止めた。「三年?」


「はい」


「……よく三年いたわね」


褒められたのだと思った。


「ありがとうございます」


アデラインは片手で額を押さえた。「褒めてないわよ」


「そうなんですか?」


「そうよ」


また歩き出す。リーゼもあとを追った。


「でも、皆さん悪い方ではないんです」言ってから、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。


アデラインも少し驚いたようだった。


「そう」


「セレフィナさんも、私のためを思って厳しく言ってくださっているので」


「へえ」


「ノアさんも手伝ってくれますし、ベネディクト様も相談すれば話は聞いてくださいます」


アデラインは返事をしなかった。その沈黙が気になった。


「何かおかしいでしょうか」


「今は何も言わない」


「今は?」


「私が言っても、たぶんあなた、あの人たちを庇うでしょう?」


そんなことはないと思った。けれど、たった今庇ったばかりだったので黙った。


治癒院で診察を受けると、蕁麻疹だと言われた。疲労が溜まっているところへ、何かの刺激が重なったのだろうという。


「一週間は休んでください」


また一週間だった。


「でも――」


言いかけると、横からアデラインに睨まれた。


「……わかりました」


治癒師が笑った。「その方の言うことは聞くんですね」


リーゼも少し笑った。「昔から、逆らいにくい方なので」


「失礼ね」アデラインはそう言ったが、少し嬉しそうだった。


帰り道、アデラインが尋ねた。「魔導通信器は?」


「持っています」


「切って」


「え?」


「休むんでしょう?」


「でも、何かあったら」


「何かあったら?」


「私しかわからない案件があるかもしれません」


「それが何?」


リーゼは答えられなかった。


「あなたが一週間いないだけで王宮の仕事が止まるなら、それはあなたの責任じゃないわ」


以前にも似たことを誰かに言われた気がする。思い出せなかった。


「でも、皆さん困ると思います」


「困ればいいじゃない」


あまりにも簡単に言われた。リーゼは思わず笑った。


「そんなこと言っていいんですか」


「あなたは休みなさいって診断されたんでしょう? それで困る人がいるなら、その人たちが考えることよ」


「……そういうものですか」


「普通はね」


普通ー最近、その言葉の意味もよくわからなくなっていた。


その夜、魔導通信器の電源を切った。最初の一時間は落ち着かなかった。何か連絡が来ているのではないか。

北部商会は。

大型案件は。

ノアに渡した件は。

何度も通信器を見た。

光っていない。

当然だった。

自分で切ったのだから。

それでも気になった。


二日目も同じだった。

三日目の朝になって、初めて少し長く眠った。

目を覚ますと、昼近かった。こんな時間まで寝たのはいつ以来だろう。お腹が減っていた。それが妙に嬉しかった。

簡単なものを作って食べ、何をするでもなく椅子に座った。仕事をしなくていい。通信も来ない。誰にも何も聞かれない。何をしてもいい。

そう思った途端、何をすればいいのかわからなくなった。仕方なく部屋を片づけた。


棚の奥から、古い手帳が何冊か出てきた。

十五歳のころのものだった。懐かしくなって開いた。

『返品は売上帳の右欄』

『同じことを二度聞かない』

『保温魔石、北方では性能低下。寒冷地用はリューデ工房』

字が幼い。


次の手帳には、輸送商会へ移ったころのことが書いてある。

『工房に急げと言う前に、いつならできるか聞く』

その横に、先輩の字で何か書かれていた。

『これは助かった。次から任せる』


別の頁。

『発注数、一桁間違い。送信前に数量だけ別確認』

その下に、『同じミスしなきゃいい』と店主の字がある。

リーゼはしばらくその頁を見た。

次の手帳には、新人を教えていたころの記録も残っていた。

『マリナ、発注一人でできた』

『次から北部商会を任せる』自分が誰かを教えていた。


そうだった。王宮へ入る前の自分は、誰かにずっとフォローしてもらっていたわけではない。仕事を任されていた。

取引先から名指しで呼ばれることもあった。

新人へ教える側だった。

「……私、こんなに仕事できなかったっけ」

声に出した。

誰も答えない。

けれど、胸の奥に小さな違和感が残った。


四日目の午後、アデラインが訪ねてきた。

食べ物を持っていた。


「ちゃんと休んでる?」


「はい」


「通信器は?」


「切っています」


「偉い」


褒められるようなことだろうか。


二人で茶を飲んだ。

アデラインは王宮の話をすぐにはしなかった。故郷のことを聞かれ、昔の商会の店主がまだ元気だという話をした。


話しているうちに、リーゼの方から手帳を見せた。


「これ、昔のものなんです」


「物持ちいいわね」


「捨てられなくて」


アデラインが頁をめくる。「あなた、昔からこんなに書いてたの?」


「忘れないように」


「王宮でも?」


「もっと書いています」


「もっと?」


「言われたことを忘れると困るので」


「見せて」


今使っている手帳を渡した。アデラインはしばらく黙って読んだ。


『セレフィナさんより北部優先。十五の鐘』


『ノアさんへ確認依頼。本人了承』


『ベネディクト様へ業務量相談。現状維持』


頁をめくる。「これ、仕事を覚えるための手帳じゃないわね」


リーゼは顔を上げた。「え?」


「昔のは、自分が次に仕事をするときのために書いてる。でも今のは、自分が何を言われたか忘れないために書いてる」


言われて、初めて気づいた。アデラインは手帳を閉じた。


「リーゼ。王宮へ来る前、何年働いてた?」


「五年くらいです」


「その五年間、ずっと今みたいだった?」


「今みたい、とは」


「仕事ができないって言われ続けた?」


「……いいえ」


「指示を理解できないって言われた?」


「いいえ」


「誰かにずっとフォローしてもらわないと働けなかった?」


「いいえ」


むしろ、新人を教えていた。


「じゃあ、王宮に入った途端、急に全部できなくなったの?」


答えられなかった。


アデラインは急かさなかった。茶を一口飲んで、待っていた。


「王宮は、民間とは違いますから」


ようやく出てきたのは、何度も聞いた言葉だった。


「そうね。違うでしょうね」


「私には、まだ足りないところが多くて」


「何が?」


「……」


具体的に聞かれると困った。


「視座とか」


アデラインが茶を吹きそうになった。「何?」


「視座です」


「それ、何をしたら高くなるの?」


「……わかりません」初めて、その言葉がおかしく聞こえた。


二人とも黙った。


やがてアデラインが言った。


「昔渡した住所、まだ持ってる?」


「はい」


「有効よ」


リーゼは手帳の最後に挟んだ紙を思い出した。


「……お仕事の話ですか?」


「そう」


王宮を辞める。考えただけで、胸が冷たくなった。


「でも」


「うん」


「せっかく王宮に入れたんです」


「知ってる」


「実家も喜んでくれて。村でも、王宮で働いてるって」


「うん」


「ここで辞めたら、逃げるみたいで」


アデラインは少し考えた。


「逃げたらいけないの?」


「……」


「燃えてる家から出ることを、逃げるとは言わないでしょう」


「でも、王宮は燃えてません」


「そうね」


アデラインは笑った。「じゃあ、蜘蛛の巣かしら」


「蜘蛛の巣?」


「あなた見てると、そんな感じがするのよ。動けば動くほど、いろんなものに引っかかってる」


そのときのリーゼには、まだその意味がよくわからなかった。けれど、その言葉だけは長く残った。


王宮へ戻る日が近づくほど、胸が重くなった。以前なら、休み明けには仕事が溜まっていることばかり心配していた。

今回は違った。

セレフィナに会う。

ノアに会う。

ベネディクトに会う。

そう考えるだけで、また腕が痒くなるような気がした。


休養の最終日、リーゼは机に向かい、退職願を書いた。

一枚書くのに、二時間かかった。

文面が失礼ではないか。

理由をどこまで書くべきか。

セレフィナなら何と言うだろう。

ベネディクトなら。

そこまで考えて、手を止めた。

もう、二人が何と言うかを考えなくてもいいのではないか。

退職願なのだから、初めてそう思った。

理由は簡潔にした。一身上の都合。それだけでよかった。


二十三歳の春。リーゼは王宮魔術院を辞めた。

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