10
アデライン様は、十歩ほど歩いてから、ぽつりと言った。「何、あれ」
リーゼは思わず顔を上げた。「え?」
「あなた、ずっとあそこで働いてるの?」
「はい」
「何年?」
「もうすぐ三年です」
アデラインが足を止めた。「三年?」
「はい」
「……よく三年いたわね」
褒められたのだと思った。
「ありがとうございます」
アデラインは片手で額を押さえた。「褒めてないわよ」
「そうなんですか?」
「そうよ」
また歩き出す。リーゼもあとを追った。
「でも、皆さん悪い方ではないんです」言ってから、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。
アデラインも少し驚いたようだった。
「そう」
「セレフィナさんも、私のためを思って厳しく言ってくださっているので」
「へえ」
「ノアさんも手伝ってくれますし、ベネディクト様も相談すれば話は聞いてくださいます」
アデラインは返事をしなかった。その沈黙が気になった。
「何かおかしいでしょうか」
「今は何も言わない」
「今は?」
「私が言っても、たぶんあなた、あの人たちを庇うでしょう?」
そんなことはないと思った。けれど、たった今庇ったばかりだったので黙った。
治癒院で診察を受けると、蕁麻疹だと言われた。疲労が溜まっているところへ、何かの刺激が重なったのだろうという。
「一週間は休んでください」
また一週間だった。
「でも――」
言いかけると、横からアデラインに睨まれた。
「……わかりました」
治癒師が笑った。「その方の言うことは聞くんですね」
リーゼも少し笑った。「昔から、逆らいにくい方なので」
「失礼ね」アデラインはそう言ったが、少し嬉しそうだった。
帰り道、アデラインが尋ねた。「魔導通信器は?」
「持っています」
「切って」
「え?」
「休むんでしょう?」
「でも、何かあったら」
「何かあったら?」
「私しかわからない案件があるかもしれません」
「それが何?」
リーゼは答えられなかった。
「あなたが一週間いないだけで王宮の仕事が止まるなら、それはあなたの責任じゃないわ」
以前にも似たことを誰かに言われた気がする。思い出せなかった。
「でも、皆さん困ると思います」
「困ればいいじゃない」
あまりにも簡単に言われた。リーゼは思わず笑った。
「そんなこと言っていいんですか」
「あなたは休みなさいって診断されたんでしょう? それで困る人がいるなら、その人たちが考えることよ」
「……そういうものですか」
「普通はね」
普通ー最近、その言葉の意味もよくわからなくなっていた。
その夜、魔導通信器の電源を切った。最初の一時間は落ち着かなかった。何か連絡が来ているのではないか。
北部商会は。
大型案件は。
ノアに渡した件は。
何度も通信器を見た。
光っていない。
当然だった。
自分で切ったのだから。
それでも気になった。
二日目も同じだった。
三日目の朝になって、初めて少し長く眠った。
目を覚ますと、昼近かった。こんな時間まで寝たのはいつ以来だろう。お腹が減っていた。それが妙に嬉しかった。
簡単なものを作って食べ、何をするでもなく椅子に座った。仕事をしなくていい。通信も来ない。誰にも何も聞かれない。何をしてもいい。
そう思った途端、何をすればいいのかわからなくなった。仕方なく部屋を片づけた。
棚の奥から、古い手帳が何冊か出てきた。
十五歳のころのものだった。懐かしくなって開いた。
『返品は売上帳の右欄』
『同じことを二度聞かない』
『保温魔石、北方では性能低下。寒冷地用はリューデ工房』
字が幼い。
次の手帳には、輸送商会へ移ったころのことが書いてある。
『工房に急げと言う前に、いつならできるか聞く』
その横に、先輩の字で何か書かれていた。
『これは助かった。次から任せる』
別の頁。
『発注数、一桁間違い。送信前に数量だけ別確認』
その下に、『同じミスしなきゃいい』と店主の字がある。
リーゼはしばらくその頁を見た。
次の手帳には、新人を教えていたころの記録も残っていた。
『マリナ、発注一人でできた』
『次から北部商会を任せる』自分が誰かを教えていた。
そうだった。王宮へ入る前の自分は、誰かにずっとフォローしてもらっていたわけではない。仕事を任されていた。
取引先から名指しで呼ばれることもあった。
新人へ教える側だった。
「……私、こんなに仕事できなかったっけ」
声に出した。
誰も答えない。
けれど、胸の奥に小さな違和感が残った。
四日目の午後、アデラインが訪ねてきた。
食べ物を持っていた。
「ちゃんと休んでる?」
「はい」
「通信器は?」
「切っています」
「偉い」
褒められるようなことだろうか。
二人で茶を飲んだ。
アデラインは王宮の話をすぐにはしなかった。故郷のことを聞かれ、昔の商会の店主がまだ元気だという話をした。
話しているうちに、リーゼの方から手帳を見せた。
「これ、昔のものなんです」
「物持ちいいわね」
「捨てられなくて」
アデラインが頁をめくる。「あなた、昔からこんなに書いてたの?」
「忘れないように」
「王宮でも?」
「もっと書いています」
「もっと?」
「言われたことを忘れると困るので」
「見せて」
今使っている手帳を渡した。アデラインはしばらく黙って読んだ。
『セレフィナさんより北部優先。十五の鐘』
『ノアさんへ確認依頼。本人了承』
『ベネディクト様へ業務量相談。現状維持』
頁をめくる。「これ、仕事を覚えるための手帳じゃないわね」
リーゼは顔を上げた。「え?」
「昔のは、自分が次に仕事をするときのために書いてる。でも今のは、自分が何を言われたか忘れないために書いてる」
言われて、初めて気づいた。アデラインは手帳を閉じた。
「リーゼ。王宮へ来る前、何年働いてた?」
「五年くらいです」
「その五年間、ずっと今みたいだった?」
「今みたい、とは」
「仕事ができないって言われ続けた?」
「……いいえ」
「指示を理解できないって言われた?」
「いいえ」
「誰かにずっとフォローしてもらわないと働けなかった?」
「いいえ」
むしろ、新人を教えていた。
「じゃあ、王宮に入った途端、急に全部できなくなったの?」
答えられなかった。
アデラインは急かさなかった。茶を一口飲んで、待っていた。
「王宮は、民間とは違いますから」
ようやく出てきたのは、何度も聞いた言葉だった。
「そうね。違うでしょうね」
「私には、まだ足りないところが多くて」
「何が?」
「……」
具体的に聞かれると困った。
「視座とか」
アデラインが茶を吹きそうになった。「何?」
「視座です」
「それ、何をしたら高くなるの?」
「……わかりません」初めて、その言葉がおかしく聞こえた。
二人とも黙った。
やがてアデラインが言った。
「昔渡した住所、まだ持ってる?」
「はい」
「有効よ」
リーゼは手帳の最後に挟んだ紙を思い出した。
「……お仕事の話ですか?」
「そう」
王宮を辞める。考えただけで、胸が冷たくなった。
「でも」
「うん」
「せっかく王宮に入れたんです」
「知ってる」
「実家も喜んでくれて。村でも、王宮で働いてるって」
「うん」
「ここで辞めたら、逃げるみたいで」
アデラインは少し考えた。
「逃げたらいけないの?」
「……」
「燃えてる家から出ることを、逃げるとは言わないでしょう」
「でも、王宮は燃えてません」
「そうね」
アデラインは笑った。「じゃあ、蜘蛛の巣かしら」
「蜘蛛の巣?」
「あなた見てると、そんな感じがするのよ。動けば動くほど、いろんなものに引っかかってる」
そのときのリーゼには、まだその意味がよくわからなかった。けれど、その言葉だけは長く残った。
王宮へ戻る日が近づくほど、胸が重くなった。以前なら、休み明けには仕事が溜まっていることばかり心配していた。
今回は違った。
セレフィナに会う。
ノアに会う。
ベネディクトに会う。
そう考えるだけで、また腕が痒くなるような気がした。
休養の最終日、リーゼは机に向かい、退職願を書いた。
一枚書くのに、二時間かかった。
文面が失礼ではないか。
理由をどこまで書くべきか。
セレフィナなら何と言うだろう。
ベネディクトなら。
そこまで考えて、手を止めた。
もう、二人が何と言うかを考えなくてもいいのではないか。
退職願なのだから、初めてそう思った。
理由は簡潔にした。一身上の都合。それだけでよかった。
二十三歳の春。リーゼは王宮魔術院を辞めた。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります。




