第七話:村長の家には、空いた部屋がありました。
ホルナー村に着いたのは、日が傾きはじめたころだった。
荷馬車が村の道に入ると、家々の屋根から細い煙が上がっていた。夕餉の支度らしい。軒下には薪が高く積まれ、庭先では干し草が囲われている。どの家も、冬の支度の途中だった。北の村は、夏のうちから冬を見ている。
村の中ほどに、ほかより一回り大きな家があった。その前で、若い男が待っていた。
「記録官どの。ようこそおいでくださいました」
男は背筋を伸ばして、丁寧に頭を下げた。年は二十代の後半か、三十のはじめくらい。声がよく通る。
「ホルナー村の村長、ステファン・コヴァーチです」
わたしはなんとなく、自分の後ろを振り返りたくなった。記録官どの、と呼ばれて出迎えられることに、まだ慣れない。支局では、新米と呼ばれて雑用を回される側だ。
「記録官のルカです。お世話になります」
「遠い道を、わざわざ。さ、中へ。冷えますから」
ステファン村長は、わたしの帳面の包みを自分で持とうとした。
「いえ、わたしが持ちます。村長どのにお持たせするわけにはいきません」
断ると、村長は少し残念そうな顔をした。わたしも、もてなされるのには慣れていない。
「狭いところですが、ゆっくりしてください。村長の家として、恥ずかしくない程度には整えてあります」
恥ずかしくない程度には、というところに、わずかに力がこもっていた。
*
客間として通された部屋は、思っていたより広かった。
使い込まれた寝台と、古い衣装箱がある。箱の角は丸くなり、長く誰かが使っていた気配が残っていた。けれど今は、誰も使っていない。
「親の部屋でした」
ステファン村長が、わたしの視線の先を見て言った。
「父も母も、もういません。だから、部屋は空いています」
それ以上は言わなかった。わたしも訊かなかった。
*
夕餉は、家族と同じ卓だった。
黒パン、豆と根菜の煮込み、干し肉、酸味のある漬け物。素朴だが、量はしっかりある。冬を見据えた、北の村の食べ物だった。
ステファン村長の奥方が、わたしの椀に煮込みをよそってくれた。
「お口に合うとよいのですが」
「じゅうぶんです。ありがとうございます」
だれかの椀が空くと、奥方はすぐに気づいた。卓の上のことは、ぜんぶ見えているらしい。
卓の向こうでは、七歳の子供がわたしをじっと見ていた。
大人たちの話が途切れると、思いきったように口を開いた。
「記録官さんって、悪い人を捕まえるの?」
「これ。記録官どのに失礼だろう」
ステファン村長がたしなめたが、わたしは首を振った。
「いいんです」
わたしは少し考えて、できるだけやさしい言葉を選んだ。
「いいえ。書いてあることと、実際にあるものが、同じかどうかを見る仕事です」
「違ったら?」
「どこから違ったのかを、書きます」
「書いてないものは?」
わたしは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……まず、どこに書けるかを探します」
子供は、分かったような分からないような顔で頷いた。それでいい。わたしも、いつもそういう顔で帳面に向かっている。
奥方が小さく笑って、子供の口元についた煮込みを拭いてやった。
*
食事のあと、奥方が子供を寝かせに立った。
卓には、ステファン村長とわたしだけが残った。火の音がする。村長は少し、口が軽くなっていた。
「記録官どのは、ホルナーの台帳を見にいらした」
「はい。羊の数を、帳面と引き比べるだけです」
「数は、合っています」
言い方が、少し早かった。わたしが何か言う前に、村長は続けた。
「この村は、古い村です。北奥の連中の面倒まで見ている。父の代から、ずっとです」
北奥、という言葉が出た。御者の言っていた、村にもならない土地だ。
「父なら、こういう年も、うまく切り抜けたでしょう。あの人は、何とかする人でした」
ステファン村長は、火を見たまま言った。
わたしは、何も書かなかった。書けることが、まだ何もなかったからだ。
ただ、「数は合っています」と「父なら何とかした」が続けて出てきたことは、覚えておく。
*
翌朝は、霜が降りていた。
冷えるのが早い、と御者が言ったが、このホルナーでも朝の冷えは強い。わたしは官服の上に借りた外套を重ねて、ステファン村長について牧草地へ向かった。
「お見せします。六十頭、揃っております」
村長の声は、昨夜より硬かった。
牧草地は、村の外れの緩い斜面にあった。朝靄の残るその斜面に、羊が散らばっている。白い背中が、点々と草の上に浮いていた。
斜面の端には、年かさの牧夫が一人、犬を連れて立っていた。わたしたちが近づくと、軽く頭を下げたが、目はどこか、別のところを見ていた。
わたしは目で数えはじめた。十、二十、三十。霜と靄でぼやけるが、数えられないほどではない。
六十頭ほど、確かにいた。
数は、合っている。
斜面の端のほうで、何頭かが、ほかの羊とは少し違う動き方をしていた。跳ねるような、軽い足の運び。牧夫の犬は、その何頭かには、なぜか近づこうとしなかった。
遠目では、それ以上は分からない。




