第六話:古文書の次は羊です。
雨季が明けても、支局はすぐには乾かない。
資料室の隅では、雨漏りの跡が天井から細く垂れて、まだ木の色を変えている。屋根の修繕申請は、たぶん来年も後回しだ。バケツはもう要らなくなったが、布だけは外せず、わたしは古い帳面の上に防水布をかけ直した。
棚の前に、小さな踏み段が増えていた。棚によじ登った人間の心当たりは、ある。
書類が先で、人は後。半年もいれば、その順番にはさすがに慣れる。慣れたところで、わたしの背丈も度胸も、半年では伸びなかったが。
雨季のあいだに溜まった持ち込み文書を、わたしは番号順に並べ直していた。受付控え、村控え、確認用紙。どれも湿気を吸って、端がわずかに波打っている。
「ルカ」
奥から先任記録官の声がした。
顔を上げると、先任どのは片手に薄い綴りを持って、もう片手で月末の帳尻を押さえていた。机の上には上位支局への照会状が、署名待ちのまま開いている。
「古文書の次は羊だ」
わたしは綴りと先任どのの顔を、順番に見た。
「……羊ですか」
「少なくとも、羊皮紙ではなく生きている羊だ」
前の案件で、わたしは古い羊皮紙を一枚、さんざん照合した。素材は古いのに、書かれた中身だけが新しい羊皮紙。あれに比べれば、生きている羊のほうがまだ正直そうに思えた。
「それは、助かります」
「助かるかどうかは、数えてから言え」
先任どのは綴りをわたしの机に置いた。
ホルナー村、と表紙にあった。
北方寄りの、歴史のある村だ。こないだの東村や南村とは別の、もっと北の村。支局からは馬車で一日の距離になる。
「冬前の共有家畜資産調査だ。羊の台帳と、出荷と、手間賃がどうにも噛み合わない」
先任どのは照会状から目を離さずに言った。
「書類だけで閉じられないんですか」
「閉じられるなら、お前に回さない」
わたしは綴りを開いた。
ホルナー村の共有羊は、秋の台帳で六十頭。
春の終わりから初夏にかけての羊毛出荷記録は、五十頭分。毛刈りの手間賃も、五十頭分で支払われている。
数が、十頭ずれている。
台帳には六十頭。毛を刈ったのは五十頭。
刈り損ねた羊が十頭いた、とは書いていない。
わたしはもう一枚めくった。秋口の買い付け控え。干し草と塩。冬越しのための飼料だ。量は、六十頭を養うにはやや足りず、五十頭にはやや多い。中途半端だった。
そして、備考欄の隅に一行だけ字が太い。
「狼害 十頭」
墨が濃い。ほかの行より、明らかに筆圧が強い。
わたしは綴りの後ろをめくった。
狼害なら、まず被害の届が要る。共有の資産が十頭減るのだから、減耗の承認も要る。追う者を出したら手間賃が残る。死骸を回収したら、皮なり処分なりの控えが残る。
そのどれも、見当たらなかった。
書類だけでは、これが何なのか決められない。
書き忘れただけかもしれない。羊が病気で減ったのかもしれない。台帳の数え間違いかもしれない。あるいは、誰かが数を合わせるために太い字を一行足したのかもしれない。
どれなのかは、現物を見ないと分けられない。
「現物の確認が要りますね」
わたしが言うと、先任どのはやっと照会状から顔を上げた。
「だろうな。だから羊だ」
「先任どのは行かれないんですか」
「月末締めと、上位支局の照会と、別件が三つある」
羊より重い紙が、先任の机には積まれているらしかった。
先任どのは付け足すように言った。
「表向きはただの数合わせだ。羊を数えて、帳面と引き比べるだけ。新米でも務まる」
務まると言われたのか、軽い仕事だと言われたのか。たぶん両方だ。
現物確認といっても、牧草地で頭数を確かめて、台帳と引き比べるだけだ。数が合えば、それで閉じる。
わたしは綴りを閉じた。
*
翌朝、わたしはホルナー村の荷馬車に乗せてもらうことになった。
用足しに町へ出ていた村の荷馬車が、ちょうど帰るところだった。支局にも寄って、帰り便にわたしを乗せてくれるという。御者は村の使いで、荷台には空の麻袋と修繕用の板が積んである。
わたしは帳面を油紙で包み、その上から防水布で巻いた。出張は慣れていない。荷馬車の揺れで墨がにじむのも、雨でふやけるのも困る。書類が先だ。自分の荷は、その次でいい。
リネットさんが通用口まで来て、布に包んだパンと塩の効いた干し肉を持たせてくれた。一泊するなら要るだろう、と。
「荷馬車は冷えるから、しっかり着込んでいきなさい」
「一泊で戻ります」
「戻ってこられたらね」
笑いながら言うことかと思ったが、半分は本当だろう。雨季明けの道は、まだぬかるんでいる。
*
荷馬車は北へ向かった。
道は乾ききっていない。轍の底に水が残り、車輪が時々ぬかるみを噛んで、荷台が大きく傾く。わたしは帳面の包みを膝の上で抱え直した。
荷台には屋根がない。半日も揺られていると、リネットさんの言ったとおり、座っているだけで体の芯が冷えてくる。わたしは干し肉をかじり、パンを少しずつ口に入れた。
今夜の宿は、村長の家になるらしい。客間が空いているそうだ。わたしはまだ顔も知らない村長の、その空いた部屋のことを少しだけ考えた。
「今年の北奥は寒いですよ」
御者が前を向いたまま言った。
「北奥、というのは」
「ホルナーのもっと先です。村にもならない開いたばかりの土地でね。あすこは毎年ぎりぎりだが、今年は冷えるのが早い。春先にも霜を食らって、干し草をだいぶ使ったそうです。だから、今年は早い」
御者は、少し間を置いて続けた。
「わたしも夏に、塩を運んだことがありますよ。家は数えるほどで、子供も年寄りもいる。あんな先で、よく冬を越すものだと思いますがね」
今年は冷えるのが早い。
わたしは台帳の太い字を思い出した。
狼害 十頭。
荷馬車はぬかるむ道を北へ揺れていった。




