第五話:都合の悪い空白も、記録です。
翌朝、ギルバートさんが来る前に、ヨハンさんが来た。
今日は誰も連れていない。扉の叩き方も、昨日までと違った。開けると、ヨハンさんは「少しいいか」とだけ言った。
応接室に入ると、勧める前に椅子に座る。外套の雨粒がまだ落ちきっていない。でも、昨日までの「早くしろ」の気配がない。
しばらく、ヨハンさんは机を見ていた。
「あの羊皮紙だがな」
低い声だった。
「親父が残した荷の底から出てきた。何年も前の話だ。親父も、どこで手に入れたかは言わなかった。俺もそのまま、しまい込んでた」
わたしは何も言わない。
「今年、雨が続いて麦が詰まって、南村との話もこじれて……ふと、あの書状を思い出したんだ。東村の日数が書いてある。支局の記録だろうと思った。それで持ってきた」
ヨハンさんは顔を上げた。
「正直に言うとな。俺はあれが、どこの誰が作った物か、ほんとは知らねえ。親父も言わなかった。それを黙ったまま、あんたに押しつけてた」
わたしは、ヨハンさんの手元を見ていた。
「だから……先に、これだけは言っとこうと思ってな。今日どんな結果が出ようと、出どこを黙ったまま聞くのは、寝覚めが悪い」
立ち上がる。
「村の連中には、俺から話す。あの書状のことも、ぜんぶ」
出ていく前に、一度だけ振り返った。
「記録官。あんたが手順どおりにやってくれてるのは、分かってる」
扉が閉まった。
ヨハンさんは村へは戻らず、約束の刻限まで軒下で待つようだった。雨の庇の下に、外套の背中が見える。
わたしはしばらくその場に立っていた。それから机に向かって、今日の確認用紙を広げる。
*
小半刻した頃、ギルバートさんが来た。
ヨハンさんも軒下から入ってきて、二人は机を挟んで並んで座る。どちらも無言で、目を合わせない。
背後では、マルクさんが執務室の入口に寄りかかって黙って立っている。呼んでないのに、来ていた。証人のつもりだろうか。
わたしは確認用紙の端をそろえ、数字を書き付けた小紙片を横に置いた。並びを確かめてから、顔を上げる。
「真正性確認規程に基づく、照合の結果をご説明します」
確認用紙を示す。
「まず、ヨハンさんが持ち込まれた文書について。素材の状態は、相当な年数を経た羊皮紙と一致する特徴が確認されました」
ヨハンさんは、身を乗り出さない。
「ただし、素材が古いことと、その文面が当時に正式に書かれたかどうかは、別の問題です。古い素材に後から書かれた可能性は、状態だけからは排除できません」
「……」
「支局側の記録を確認しましたが、この文書に対応する受付控えはありませんでした。近い時期の他の文書では受付番号が連続していて、この文書に当たる番号も受理記録もありません」
ギルバートさんが、かすかに息を吸った。
「南村の控えと支局の記録は、おおむね一致しています。そこへヨハンさんの文書の割当日数を加えると、水車一基が一年に回せる日数を超えてしまいます。既存の記録と、この文書の両方が正しいということは成り立ちません」
応接室が静かになった。
ヨハンさんは机の羊皮紙を見て、それから視線を落とした。
「支局の記録上、この文書を正式な水車利用記録として扱う根拠は確認できません。――それが、今回の結論です」
ギルバートさんが、ふっと息を吐いた。背もたれに体を預け、ヨハンさんのほうをちらと見る。
「では、話は決まりだ。東村の書き付けは認められない。これまでどおり、南村が守ってきた慣習で水車を回す。――記録官どの、そういうことでよろしいな」
「いえ」
ギルバートさんを見る。
「今回の照合では、南村の控えのほうにも、確認できなかった部分があります」
ギルバートさんの背が、わずかに起きた。
「三十年前、東村が正式な村として扱われはじめた時期の記録に、利用日数が記されていない箇所がいくつかあります。南村の控えと支局の記録、その両方です」
ギルバートさんは、すぐには答えなかった。机の上の羊皮紙ではなく、閉じた箱のほうを見る。
ヨハンさんが顔を上げた。
「……それは、当時の書記の不手際だろう」
ギルバートさんの声が、少し硬くなった。
「古い書記の処理漏れを、まるで南村の落ち度のように言うのか。三十年、誰も文句を言わずに回ってきた慣習だぞ。それを、出所も知れん紙きれ一枚が出てきた途端、南村の記録まで疑うと?」
「疑っているのではありません」
ギルバートさんを見る。
「確認できていない、と申し上げています。三十年問題が出なかったのは、今の割当が正しかったからかもしれません。誰も記録を突き合わせなかったからかもしれません。今の記録だけでは、どちらとも言えません」
確認用紙を二人のほうへ向ける。
「東村の文書は、正式な記録としては扱えません。ですが、南村の控えにも、東村成立期の利用日数が記されていない箇所が残っています。片方だけを正しいことにして、こちらを埋めることはできません」
二人とも黙っている。
「この未記載の分について、両村で改めて話し合っていただけませんか。今の利用日数と、東村の戸数が増えていることも含めて、当面の運用を決めていただければ、その内容を支局で記録します」
確認用紙から抜き出した数字の書き付けを、二人の前に置いた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
ヨハンさんが書き付けを取って、数字を見る。
「……分かった。この数字で、南村と話してみる」
ギルバートさんは書き付けを見て、それからわたしを見た。
「記録に基づく話し合いなら、応じよう」
ギルバートさんが書き付けを手に、先に立ち上がる。
ヨハンさんも腰を上げた。戸口で一度足を止めたが、振り返らずに出ていった。
*
扉が閉まる。
わたしはまず、机の確認用紙を防水布の下へ収めた。両村の記録を重ねて、布をかける。羊皮紙をもとの筒に戻して、端に置く。
それが済んでから、椅子に座った。
背もたれに体を預けると、肩から力が抜けた。気づくと、指先に力が入りすぎていた。膝の上で手を重ねて、そのままにする。
「新米」
マルクさんが資料室の入口から出てきた。台帳を脇に抱えている。いつもの仕事の顔だ。
「羊皮紙は、引き取り手が来るまでここに置くのか」
「そのつもりです。預かり書を書いて、ヨハンさんに渡します」
「ならさっさと書け。書類を宙に浮かせたままにするな」
「はい」
また資料室へ戻っていった。
羽ペンを取ろうとして、雨の音が消えていることに気づいた。
窓の外を見る。
重い雲の切れ間から、ほんのわずかに明るさが差していた。雲の端には、昼の小月が、濡れた紙片みたいに白く貼りついている。地面の雨水が、その光をぼんやり跳ね返していた。
わたしは窓から目を離して、羽ペンを取り、預かり書を書きはじめた。
――と、泥除けの向こうから、リネットさんが湯気の立つ器を運んできた。
「記録官さん、今度は温かいうちにどうぞ」
器を机の端に置きながら、外のほうへ目をやる。
「さっき、東村の若い人――ニコさん、でしたっけ。軒下で、南村の使いの娘さんと、ぼそぼそ話してましたよ。親同士があれだけ睨み合ってるのに、若い方は存外、平気な顔して」
台帳には載らない話だ。
わたしは羽ペンを止めずに、小さくうなずいた。
書きかけの預かり書の続きを書く。
器のお茶は、まだ温かかった。
(休日のない水車の申立案件:了)




