第四話:水車は一年中回れません
翌日、南村への要請書を出したその日に、ギルバートさんは木箱を自分で抱えて支局へやってきた。仕事が早い。
箱は外側がきれいに拭かれていて、蝶番に油が差してある。紐の結び目にも乱れがない。運んできたのは本人だけ。供も連れていない。
「南村が代々保管してきた、共同水車の利用日数控えです」
机に箱を置いて、自分で蓋を開ける。中の布包みも自分で解く。
包みから出てきたのは、古い帳面だった。背の革が乾いてひび割れ、束の端が褐色に変色している。角が崩れて、触れたら粉になりそうな部分もある。大事に保管されてきたのは確かだけど、年月には勝てなかったらしい。
わたしが帳面に手を伸ばした瞬間、後ろからマルクさんの声がした。いつの間に。
「開くな。まず状態を見ろ」
手を止める。
「くっついたページを無理に剥がせば、そこの数字ごと消える。読めない部分は読めないままにしておけ。欠けてるものを推測で埋めるのは、記録官の仕事じゃない」
それだけ言って、また資料室へ引っ込んだ。出番が短い。
ギルバートさんがわたしを見た。
「……ご指摘のとおりに確認します」
拡大鏡を借りて、帳面をゆっくりめくる。読める数字だけを確認用紙に写す。滲んで読めない箇所には「欠損」とだけ書く。ギルバートさんは腕を組んで、その作業を黙って見ていた。視線が、ちょっと痛い。
*
照合には時間がかかった。
南村の控えの受付番号と、支局の残存記録を並べていくと、細かな欠損を除けば、南村の控えと支局の記録はおおむね一致していた。
そこへヨハンさんの羊皮紙を当てはめる。
合わない。
羊皮紙の東村の粉挽き日数と利用順は、南村控えと支局控えの記録と合わない。それだけじゃない。羊皮紙どおりの割当日数を既存の記録に足すと、一基の水車が一年に回せる日数を超えてしまう。両方が同時に正しいとしたら、水車は一日も止まらず回り続ける計算になる。働きすぎだ。
確認用紙に書き足す手を、一度止める。
羊皮紙の文面が後から書かれたのか、既存の記録に不備があるのかは、数字だけでは決められない。
ただ、両方は同時に成り立たない。
「どうですか、記録官どの」
ギルバートさんが口を開いた。腕を組んだまま、少し身を乗り出している。
「南村の控えは、支局の記録と大筋で一致していましたな。対して、東村の書き付けは――」
「ヨハンさんが持ち込まれた文書と、既存の記録のあいだに、整合しない部分があることは確認できました」
ギルバートさんが、組んでいた腕をほどいた。口元がわずかに緩む。
「では、東村の文書を正式な記録として扱う根拠はない、ということだ。南村の慣習どおりに――」
「まだ結論ではありません」
眉が上がった。
「今回の照合で分かったのは、羊皮紙の数字が既存の記録と整合しない、という点です。それは確かです。ただ、今日この場で確認できなかった部分もあります。それについては、両村の代表の方に同席いただいた上でお伝えします」
「……両村」
「明朝、ヨハンさんにも来ていただけますか。確認結果をまとめてご説明します」
ギルバートさんは一度だけ、鼻から息を出した。
「分かりました」
帳面を布で包み直し、箱に収めながら、もう一度わたしを見る。
「記録官どの。南村はずっと、正しく記録を守ってきました」
「長く保管されてきたことは、確認しています」
箱を抱えて、出ていった。
*
応接室に、一人になる。
確認用紙を引き寄せて、今日の数字を写していく。羊皮紙の割当を足せば水車の稼働日数を超えること。南村控えと支局控えがおおむね一致していること。確かめられたことを書くあいだ、羽ペンは迷わなかった。
奥から巡回支局長が出てきた。わたしの手元を覗き込んで、数字の並びを目で追う。
「東村の数字は、通らないんだな」
「既存の記録とは整合しません」
「なら話は早い。東村に文書は認められないと返して、南村の慣習に戻す。それで閉じろ」
それで閉じることはできる。
南村の控えの、あの抜けた箇所に触れなければ。
羽ペンの先が止まった。
「支局長。東村の文書が整合しないのは確かです。ですが、南村の控えにも確認できなかった箇所があります」
「南村の?」
「三十年前、東村が正式な村として扱われはじめた頃の利用日数に、数字が抜けた箇所がいくつかあります。劣化で読めないんじゃなく、もとから数字が記されていない箇所です。東村の文書を退けるだけなら、そこには触れずに済みます。ですが触れずに『南村が正しい』と記録すれば、その抜けも一緒に、正しいものとして残ります」
支局長はしばらく黙っていた。雨の音が、応接室にも届く。
それから、こう言った。
「――その穴を、お前は両村の前で開けるんだな」
「はい」
「分かってるのか。南村に瑕疵ありと記録に残せば、向こうは黙っちゃいない。上位支局にも話が上がる。揉めれば、後始末をするのはこの支局だ。お前が引き受けることになる」
「分かっています。東村にも南村にも、確認できたことだけを伝えます。抜けているところは、抜けていると」
「後始末は?」
「引き受けます」
支局長はわたしの用紙をもう一度見て、奥へ戻りかけ、足を止めた。
「……勝手にしろ。だが、両方への説明はお前がやれ」
奥へ消えた。
確認用紙に向き直る。
羊皮紙の数字は合わない。支局には対応する受付控えがなく、南村の控えにも同じ記録はない。
南村の利用日数が記されていない箇所には、それぞれ「未記載」と書いた。
明日の説明用に、記録を順に並べる。
窓の外では、まだ雨が続いている。




