第二話:板挟みの記録官
翌朝になっても、雨は降っていた。律儀なものだ。
扉を開けると、昨日より雨の匂いが濃い。夜のうちに風が出たらしく、防水布の端が柱から外れかけていた。先に掛け直して、台帳の束に水が回っていないか確かめる。だいじょうぶ、濡れてない。バケツには縁ぎりぎりまで水が溜まっていたので、一度空にしてから、袖留めをはめ直して、砥石包みの位置を戻す。朝の儀式である。
「おい、新米。昨日の記録は書き終えたのか」
泥除けの向こうからマルクさん。
「昨夜のうちに」
「ならいい」
その直後に、応接口の扉が叩かれた。
ヨハンさんだった。外套の雨粒がまだ落ちきっていない。昨日より早い。わたしはまだ茶の器を持ったままだ。間が悪い。
「昨日の羊皮紙の確認は終わったか」
「恐れ入りますが、まだ手続きの途中です」
「途中だと」
ヨハンさんは応接室に入るなり、立ったまま腕を組んだ。座る気配がない。
「村の麦は積んだままで、晴れたらすぐ挽かなきゃならん。それなのに水車の番が――」
「ヨハンさん。昨日うかがった内容は、確認用紙に記録してあります」
「じゃあ早くしてくれ」
「順番に確かめています」
ヨハンさんは黙って、部屋の隅に目をやった。机の羊皮紙にかぶせた布。それを見て、また腕を組み直す。
ヨハンさんを椅子のほうへ誘導しようとしたとき、外でまた別の足音がした。
仕立てのいい外套の初老の男性が、傘を畳みながら入ってくる。南村の総代、ギルバートさん。後ろに女性が一人、濡れた傘を受け取って壁際にすっと控えた。ギルバートさんの妹で、南村の使いもこなすエリーズさんだ。ヨハンさんに気づくと、ギルバートさんは挨拶もせず目を逸らした。
「記録官どの」
ギルバートさんはわたしの前に立って、声を落として話す。
「東村の者が妙な書き付けを持ち込んだと耳にしましてね。南村が代々守ってきた水車の慣習を、出所の知れない紙きれで崩されるのは、断じて認められません」
「出所の知れない紙きれとは何のことだ、ギルバート」
「事実を申し上げているだけですよ、ヨハンさん」
「お二人とも」
わたしは二人のあいだに割って入った。応接室が急に狭くなった気がする。ヨハンさんは背が高く、ギルバートさんは横幅がある。わたしはその中間で、ちょっとだけ背伸びをして立った。
「南村の慣習も、東村から出された記録も、どちらも手続きに則って確認します。いまこの場でどちらかを優先することは、記録官の権限ではできません」
「だから早く――」
「本日はお引き取りください」
両方を見る。
ヨハンさんは何か言いかけて、やめた。ギルバートさんは一度だけわたしを見てから、静かに傘を開いて出ていった。ヨハンさんも、重い足取りで続く。
エリーズさんは兄の傘を持って続こうとして、戸口で一度足を止めた。張りつめた空気の中で、リネットさんと目が合う。小さく会釈をして、兄を追っていった。顔見知りらしい。
扉が閉まる。
泥除けを整えてから、ひとつ息を吐いた。机に向き直って、羊皮紙の布を外す。
*
「借りるぞ」
マルクさんが棚の奥から蝋燭を持ってきた。古い拡大鏡を片手に、羊皮紙を机の端へ引き寄せる。蝋燭を斜めに当てて、拡大鏡を静かに動かしはじめた。
わたしは横で黙って待つ。
マルクさんの手は急がない。端から中央へ、表から裏へ、時間をかけて見ていく。眉も動かさない。感想も出てこない。わたしも余計なことは言わずに待つ。待つのは得意だ。
しばらくして、口が開いた。
「表面の皮目を見ろ」
蝋燭の光で覗き込む。拡大鏡の端に、細かい凹凸。
「羊皮紙は獣の皮を伸ばして乾かしたものだ。紙とは違う。こういう皮目が出る。それから、ここの黄変だ」
端から中央へ、均一に薄く褐色がかっている。
「古い羊皮紙の黄変は、表面の色が変わるんじゃない。素材の中まで入り込む。後から着色したのとは質が違う」
素材が古い。黄変も内側まで届いている。受付書式も整っている――なら、これは本物では?
「では、本物ということですか」
「気が早い」
ばっさりだった。
「素材が古いことと、その上の文面がいつ書かれたかは、別の話だ」
……あ。
「古い羊皮紙は、古い書類の束にいくらでも残っている。素材の年代が分かっても、そこに何がいつ書かれたかまでは、見ただけじゃ分からん。――むしろ逆だ。素材が古いほど、後から書くにはおあつらえ向きでな」
わたしは確認用紙の手を止めた。
「確認用紙には何と書けばいいですか」
「素材の状態は古い羊皮紙のそれと一致。文面の真正性については確認できず。それだけだ」
書き留める。書き終えると、次にやることはもう決まっていた。
もし三十年前に正式な公文書として作られたなら、支局に受付控えがあるはず。台帳に受理痕があるはず。東村に渡った経緯を示す由来の連鎖があるはず。
わたしは立ち上がって、資料室の扉を開けた。




