第一話:記録官と古き羊皮紙
雨。三日目。
地方支局の屋根は今日も元気に水を通していて、天井の染みから落ちる雫が、床のバケツを几帳面に鳴らしている。ぽつ、ぽつ、ぽつ。間隔がさっきより詰まった――雨脚が強くなった、ということだ。わたしは羽ペンを置き、バケツを右へ少しずらす。これで真下に戻る。半年もいれば、漏る場所の手当ぐらい上手になる。胸を張れる特技ではない。
書庫付きの支局なのに屋根が雨を通す、というのは字面からしておかしい。修繕の申請は何度出しても後回しなので、今朝も柱に防水布を引っかけて台帳の束をかばってやった。書類が先、人間は後。
ちなみに今日、受付の机に座っているのはわたし一人だ。先任記録官は朝から上位支局へ報告に出ているし、巡回支局長はこの数日こちらに詰めていて、奥で別の難物にかかりきり。つまり誰が来ても、当面の壁はわたし。心強い話だと思う。主に来客にとって。
官服はわたしの身体には少し大きい。記録局の支給寸法は誰の身体にもぴたりとは合わないから、余ったところは自分でごまかすしかない。みんなそうしている。ただ、わたしは裁縫が下手だ。縫い目は甘く、ところどころ目が飛んで、左右で袖の長さが違う。袖は白い袖止めでなんとかして、背中に余った布は前掛けの紐に押し込んである。こうして官服に埋もれて座っていると、たいてい新人の使い走りに見えるらしい。それで困ったことはあまりない。
「ルカさん、そのお茶、とっくに冷めてますよ」
厨房からひょっこり顔を出したのはリネットさん。新しいの淹れますよ、と笑う。わたしは断る。書き写しの途中なので。
「いっつもそれね」
いつもそれで、すみません。
リネットさんは奥のマルクさんには湯気の立つ器を運んでいって、「年寄り扱いするな」と言われていた。同じ部屋で、わたしは新米の使い走り扱い、リネットさんは年頃の娘扱い。マルクさんが向ける顔がきれいに違う。べつに不満はない。
多分、村の人の半分くらいは、わたしを頼りない新人か、よくて使い走りの少年書記だと思っている。訂正はしない。それで困ったことはまだないし。
「そういえば」
戻りがけ、リネットさんが思い出したように言う。
「昨日ね、粉挽き帰りの南村の人と東村の人が、水車小屋の前で一緒に雨宿りしてたんですよ。お互い挨拶もしないで。仲が悪いって言うわりに、雨は同じ屋根で避けるんだから」
台帳には載らない話だ。それでも覚えておこう。
「おい、新米。東の棚の下の割当帳、危ないぞ」
泥除けの向こうからマルクさんの声。
「もう動かしました」
「ならいい」
それきり黙る。会話の燃費がいい人なのだ。
扉が乱暴に開いたのは、昼前だった。
「記録官はいるか!」
濡れた外套のまま踏み込んできたのは、東村の代表のヨハンさんと、村の人が数人。外套の裾に麦わら、靴に泥。野良仕事の途中から来た、という格好だ。その後ろに、ヨハンさんより若い男の人が一人、油布にくるんだ細長い包みを胸に抱えて続いた。息子のニコさんだ。
わたしは立って泥除けの手前に出たけれど、ヨハンさんはもう書類区画の境まで来ていた。早い。
「ヨハンさん、少しお待ちを――」
「待てるか!」
顔が赤い。雨の冷たさのせいではなさそうだ。
「もう何日雨が続いてると思う。畑は遅れに遅れ、麦は村に積んだままだ。晴れたらすぐ挽かなきゃならんのに、南村は水車を自分らの番ばっかりで回しやがって、東村に回ってくる日数がいつも足りん。このままじゃ今年も詰まる。だから言いに来た」
「共同水車の利用日数については――」
「だから、証拠を持ってきたんだよ」
ヨハンさんが顎をしゃくると、ニコさんが包みを解いて、縄を巻いた古い筒を差し出した。受け取ったヨハンさんが中の書状を机に広げ――ようとしたので、わたしは間に乾いた布を一枚、すべり込ませる。
「手の水気を、先に」
「なんだ」
「古い書状ですので」
ヨハンさんは眉を動かしてから、ニコさんに筒を返して、しぶしぶ手を拭いた。背後にいつの間にか来ていたマルクさんも書状に手を伸ばしかけたので、そっちにも一枚出しておく。あなたもです。鼻を鳴らして受け取られた。
書状は羊皮紙だった。
手触りが台帳紙と違う。すぐ分かったけれど、顔には出さずに文面を追う。東村が正式な村として扱われ始めた三十年ほど前、当時の支局が両村の水車利用を整理し直した――ということになっている文言が、整った受付書式で並んでいる。東村の粉挽き日数はたっぷり、利用順も南村と同等。
文面に欠けがひとつもない。三十年前の言葉づかいに見える。なのに、これだけ明確な取り決めが、どうして今の台帳に一行も反映されていないのか。南村の管理慣習だけが、なぜ何の問題もなく引き継がれてきたのか。
出来すぎている。
「どうだ記録官。これがあれば東村の日数を増やす証拠になるだろう。正式な記録として扱ってくれ!」
わたしの声は、たぶん少し小さくなった。
「現段階では、この羊皮紙を正式な記録として扱うことはできません」
「なんだと。少年、お前じゃ話にならん! どう見ても昔の記録だろうが!」
少年。はい、慣れています。
わたしは確認用紙を引き寄せた。
「真正性確認規程に従ってお答えしています」
息を吸う。声は大きくならなかったけれど、止まりもしなかった。
「由来の確認できていない文書が持ち込まれた場合、支局の台帳や過去の受付控えと照合して、手続きの連続性を確かめる精査に入る義務があります。それより先に、どちらかへ有利な判断を出すことはできません」
「精査だと! そんな悠長なことしてる間に、東村の麦はどうなる。村の生活がかかってるんだぞ!」
「分かっています」
目は逸らさない。
「ですから、速やかに精査に入ります。羊皮紙はお預かりして、終わり次第ご連絡します」
ヨハンさんは赤い顔のまましばらくわたしを睨んでいたが、「明日の朝一番に来るからな」と吐き捨てて踵を返した。
出ていく間際、ニコさんが机の端の羊皮紙にちらと目をやった。乱暴に扱われていないか、確かめるような目だった。目が合うと、小さく会釈して、父親を追っていった。
扉が閉まる。雨の音が戻ってくる。
わたしは書状に布を重ねて、動かさないように机の端へ置いた。
気づくと、指が少し震えていた。いつからだろう。机の縁をひと呼吸ぶん握って、それからバケツの位置を確かめ、防水布の端を直した。
「新米。来た頃は、怒鳴られるたびに筆まで止まってたのにな」
マルクさんが、いつもの皮肉な調子で言う。
「……マルクさん。これだけ都合のいい記録が、どうして今まで台帳に一度も出てこなかったんでしょうね」
「さあな。記録の筋がどこで切れたかは、調べりゃ分かることだ」
わたしは羽ペンを取って、分かることだけを書き止めた。
窓の外では、まだ雨が降っている。




