第十五話:お弁当を広げるための合意
両村の代表と顔役たちが集まった畦道は、妙に静かだった。
初秋の陽は柔らかく、刈り取りを終えた畑が乾いた金色に広がっている。
問題の平たい石を囲んで、東村と南村の年長者たちが腕を組んでいた。
誰も座っていない。
大人がふたり並んで掛けられる、ちょうどいい石なのに。
わたしは歩測用の縄を鞄へ戻し、木札を一枚だけ手元に残した。
できれば資料室へ帰りたい。
その前に、報告がある。
「支局の記録を確認しました。現場と、二十年前の共有地作業日誌の両方です」
南村の古株が低く喉を鳴らした。
東村の長老も黙ってこちらを見ている。
「結論から申し上げます。この石を、支局記録上の境界標として扱う根拠は確認できません」
何人かの顔が動いた。
「この石には、境界標としての刻みがありません。標を据えた支出の記録も確認できませんでした。二十年前の作業日誌には、この付近の大石を掘り下げたものの動かせず、農具や荷物、弁当を置く台として残した記録があります」
木札を見ながら続ける。
「石工への支払いも、銅貨二枚ぶん減っています」
「では、やっぱり境界石ではないと」
南村の古株が言った。
「そこまでは言えません」
「なぜだ」
「三十年前の土地台帳にある『大石』と、二十年前の作業日誌にある『大石』が同じものだと確認できる記録がないからです」
少し間が空いた。
「いま言えるのは、この石を正式な境界標として据えた記録が確認できない、というところまでです」
両村とも、あまり嬉しくなさそうだった。
わたしも嬉しくない。
「では、今年の帳簿はどうする」
南村の古株が腕を組み直した。
「今年度の収穫割と共同水路の修繕負担は、前年通りの数字で一時処理します。境界そのものは、今回は確定しません」
「また来年、測るのか」
「同じ二十歩を、もう一度測るだけではありません」
わたしは二代目――たぶん二代目ではない桑を見た。
「来秋、両村立会いで基準点から見直します。古い基準点を復元できなければ、新しい基準点を定めます。そのうえで、今度は歩数ではなく、後から確かめられる形で残します」
「後から確かめられる形?」
「位置と距離。標を置くなら、その刻みと設置の記録もです」
三十年後の記録官に、誰の二十歩か悩ませるつもりはない。
少なくとも、わたしは。
しばらく誰も喋らなかった。
風が畦道の草を揺らし、誰かの包み紙がかさりと鳴った。
「……じゃあ、この石はどうするんだ」
デニスが言った。
「来秋まで、触らない方がいいですね」
「座るのも?」
「座るくらいなら、たぶん」
「たぶん」
「支局は、座り方までは管理していません」
後ろで誰かが吹き出した。
デニスも笑う。
「だったらさ。今まで通り、両方で使えばいいんじゃないか。弁当置いたり、腰掛けたり」
「勝手なことを言うな」
南村の古株がすぐに言った。
けれど、東村の長老が顎を撫でた。
「境が決まるまで、この石の周りを荒らさんよう両方で見ておく、というならどうだ」
「草刈りは?」
「年ごとに交代でいいだろう。今年は東、来年は南」
「畝を崩したら?」
「崩した方が直す」
話が勝手に進み始めた。
わたしは木札を取り出した。
「それは、両村の申し合わせとして記録します」
炭を走らせる。
『境界再確認までの間、現地大石周辺の草刈り及び畦手入れを両村交代で行う旨、申し合わせあり』
境界は決めていない。
石の使い方と手入れを決めただけだ。
これなら書ける。
人が少しずつ散り始めた。
木札をしまおうとしたとき、南村の古株だけが石の前に残っていた。
「……記録官さん」
「はい」
「あんたの帳面には、あれは境の標じゃないと書くんだな」
「正式な境界標として確認できない、と書きます」
古株は石ではなく、その向こうの畑を見た。
「わしが子どもの時分にな、親父に教わったんだ。あの石までがうちの土地で、そこから先は東村だとな」
風が刈り田を渡っていく。
「親父も、その親父から同じように聞いたと言っていた。刻みだの銅貨だのは知らん。だが、親父は嘘をつく男じゃなかった」
わたしは木札を持ったまま、少し考えた。
「その話は、いつ頃聞かれましたか」
古株がこちらを見る。
「……子どもの頃だ。五十年は前になる」
「場所は、この石ですか」
「ああ」
「お父上から。その前は、お祖父上からと」
「ああ」
木札を開き直した。
「それなら、証言として残せます」
「載るのか」
「境界を決める根拠としてではありません。南村側に、そう伝えられてきたという証言としてです」
炭で書く。
『南村住民より、現地大石を境として先代・先々代より伝承された旨の申述あり。裏付けとなる記録は確認できず』
古株は、書かれた文字をしばらく見ていた。
「……それでいい」
そう言って、一度だけ頷いた。
*
村人たちが散ったあと、平たい石の上にパンの包みが残っていた。
その横には、干し肉の小さな包み。
エリーズさんが、抱えていた瓶を石の上へ置いた。
「……南村の木苺です。少し酸っぱいですけど」
「東村のパンは、硬い」
縄を巻き取りながら、ニコさんが言った。
「見れば分かります」
エリーズさんが小さく笑った。
東村のパンと、南村の木苺が並んだ。
誰も石をどちらかの村へ動かそうとはしなかった。
そもそも、動かないのだけれど。
わたしは鞄を持ち上げた。
今回の書類は、これで一旦閉じられる。
来秋には、またここへ来る。
そのときは、歩測用の縄だけでは足りない。
三十年後の誰かに文句を言われないくらいには、ちゃんと測ろう。
(境界石とお弁当:了)




