第十四話:ただの物置きにつき。
資料室の旧区画は、昼間でも薄暗い。日が落ちたいまは、灯りの輪のすぐ外が、もう闇だった。
棚の奥へ入ると、紙と乾いた木と、何年分か分からない埃の匂いが鼻の奥にまとわりつく。
畦道の泥とは違う種類の汚れだ。
今日は、こっちの方がいい。
探すものは決まっている。
あの石に、誰かが金をかけて境界標を立てた記録があるか。
それだけだ。
わたしは片手に灯りを持ち、もう片方の手で棚札をなぞっていった。指の腹が、たちまち煤で黒くなる。
「二十年前の共有地なら、その三つ上だ」
背後から、マルクさんの声がした。
振り返ると、踏み台に片足をかけて、棚の一角を指している。
「……ありがとうございます、マルクさん」
「長居するな。埃で喉をやられる」
「はい」
「くしゃみで帳面を飛ばすな」
「はい……」
それだけ言うと、マルクさんは資料室の表側へ戻っていった。
棚の段までは教えてくれた。
中身は自分で探せ、ということらしい。
踏み台に上り、『共有地作業日誌』と書かれた分厚い束を引き抜いた。
重い。
机まで運び、古い綴じ紐をほどいた。
日誌の大半は、わたしが探しているものとは関係がなかった。
『雨により作業中止』
『泥の掻き出し、人足十二名』
『畦道の補修、午後半刻』
『鍬一本、柄を折る。弁償未定』
最後の一本がどうなったのか少し気になったが、今日は鍬ではない。
金額の欄を追って、頁をめくる。
指が止まった。
『東村と南村の境界付近にて、畦道の端に半ば埋もれた大石を掘り下げる。人足を増やして引くも、動かず。石工を呼びて砕くには余計な費用を要するため、作業中の農具、荷、弁当等を置く台として、現場に残すこととする』
場所は合う。
大石。
畦道の端。
荷物と弁当を置く台。
ただし、土地台帳は三十年前。この作業日誌は二十年前だ。
同じ石だとは、まだ書けない。
その下に、金額の欄があった。
石工への支払い。
銅貨二枚、減額。
「……減ってる」
境界標を刻ませたなら、費えが残るはずだ。
けれど、この日誌に残っていたのは、仕事をしなかった分だけ支払いを減らした記録だった。
わたしは、もう一度本文を読んだ。
農具、荷、弁当等を置く台として、現場に残すこととする。
「……どうせ動かせないなら、その浮いた銅貨二枚で、名前のひとつ、線の一本でも刻ませておいてくれればよかったのに」
灯りの芯が、ぱちりと鳴った。
「そうすれば二十年後に、泥の中を這いずる新米記録官がひとり、出ずに済んだんですよ。たった二枚です」
返事はない。
二十年前の記録官なのだから当然だった。
余白を見ると、同じ筆跡で小さな書き足しがあった。
『昼の汁、塩強し。次回、厨房へ申し入れ』
わたしはしばらく黙った。
「汁の塩加減を書く余裕は、あったんですね」
ますます返事はなかった。
木札を取り出した。
『二十年前共有地作業日誌に、境界付近の大石を掘り下げ、荷物置きとして残置した記録あり』
『石工支払、銅貨二枚減額』
『境界標として設置・刻印した旨の記載なし』
『三十年前土地台帳記載の大石との同一は確認できず』
四行を読み直した。
これなら書ける。
この石が境界石ではない、とは書けない。
けれど、この石を境界標として据えた記録が確認できないことは書ける。
日誌を閉じ、棚へ戻そうとした。
そのとき、下段に詰め込まれていた別の古い名簿の束が、ずるりと傾いた。
「わ」
慌てて片手で支えたが、数枚の紙が床へ滑り落ちた。
拾い上げて頁を揃える。
そのうちの一枚に、目が止まった。
古い母子保護記録だった。
母親の名。
子の名。
引受先。
父親の氏名を書く欄だけが、空いている。
村籍転記欄にも、細い横線が一本引かれているだけだった。
「……」
わたしは紙を持ったまま、少しだけ止まった。
今の案件とは関係がない。
関係のないものまで拾い始めると、帰れなくなる。
紙を元の束へ戻した。
今日は、扱わない。
共有地作業日誌を抱えて旧区画を出た。
袖口は煤で汚れ、指先も黒い。
足の泥は、まだ完全には落ちていない。
必要な記録は見つかった。
銅貨二枚ぶん、安く済ませた記録だった




