第十三話:消えた根っこ、止まる帳簿
翌日も、よく晴れた。
わたしはまた泥の畦道を歩いていた。
先代の桑がどこに立っていたか分かれば、二十歩の起点を戻せるかもしれない。
枯れて植え替えたのなら、根株の跡や掘り返した土くらいは残っているだろう。
少なくとも、わたしはそう考えていた。
考えていたのである。過去形だ。
二代目の桑の根元に立ち、南へ二尺ほどの地面を見下ろす。南村の古株が「先代はもっと南寄りだった」と言っていた辺りだ。
「……ここ、ですか」
しゃがんで、指で土を軽くなぞる。
土の色は、まわりと変わらなかった。
窪みも、ない。
代わりに、固く踏み固められた一筋の轍が走っていた。荷車の通り道だ。
「ああ、そこかい。そこは去年あたりから、荷車の抜け道に使ってるんだよ」
近くで草を刈っていた村人が、鎌を止めて教えてくれた。
「以前は、何かありませんでしたか。切り株とか」
「さあ。切り株なんてあったかね。畦の端を広げたときに、ついでに均しちまったかもしれん」
均した。
根株があったとしても、もう地面からは分からない。
気を取り直して、東村の古株が指したもう一方の場所へ移った。
ニコさんが先に歩き、エリーズさんがそのあとをついてくる。
そちらの地面には、新しい黒土が盛られていた。
「そこは春の長雨で畦が崩れてね。みんなで土を入れ直したんだ」
別の村人が、すまなそうに言った。
「いえ。直さないわけにもいきませんから」
畦は直すものだ。
ただ、直された地面から三十年前の木の跡を探すのは難しい。
午前いっぱい、候補になりそうな場所を見て回った。
根株は出なかった。
土の色も、決め手にはならなかった。
手に入ったのは、泥のついた膝だけだった。
立ち上がろうとしたとき、草を刈っていた村人が、思い出したように言った。
「そういや記録官さん。あの二代目の桑な、二代目って言うけどよ」
「はい」
「先代が枯れたあと、最初に植えた若木も、根づかずに一度枯れたんじゃなかったか。いまの木は、その次に植え直したやつだった気がするんだが」
わたしは、手についた土をゆっくり払った。
「……では、今の木は三本目ですか」
「たぶん」
「たぶん」
木札を取り出す。
『現存桑、植替回数不詳』
一本だったはずの起点が、いつの間にか何本あるのかすら分からなくなっていた。
これでは二十歩を測り直しようがない。
無理だと分かるために、半日かけて泥まみれになった。
割に合わない。
*
支局へ戻ると、執務室から呼ばれた。
先任どのは、山積みの書類から視線を上げずに言った。
「現場へ二日通って、起点は出たのか」
「……出ませんでした。先代の桑の跡は、荷車道と畦の補修で確認できません。それどころか、いまの桑が何代目なのかも分からなくなりました」
「では、境界は引けないな」
「はい」
先任どのは、そこでようやく顔を上げた。
「お前のところでペンが止まると、こちらの帳簿も止まる」
机の上の書類を指先で叩く。
「あの境界の確認が終わらないと、今年度の東村と南村の収穫割が締められない。共同水路の修繕負担も決められん」
「……はい」
「境界を決めろとは言っていない」
もう一度、書類を叩いた。
「帳簿を止めるな。閉じる理由を書け」
境界は決められない。
けれど、今年の帳簿は閉じなければならない。
「……ひとつ、提案があります」
先任どのの目だけが、こちらを向いた。
「今年度の収穫割と修繕負担は、前年通りの数字で一時処理します。境界そのものは確定しません」
「それで」
「来秋、両村立会いでもう一度確認します。古い基準点を復元できなければ、その場で新しい基準点を定めるところからやり直します」
先任どのは、しばらく黙っていた。
「昔の線を、分からないまま引き直すのではなく?」
「はい。戻せないものを戻したことにはできません」
羽ペンが手に取られた。
「先送りと、保留は違う」
「はい」
「理由を書いて保留するなら、帳簿は閉じられる。次に何をするかまで書いておけ」
「書きます」
「ただし」
ペン先が、控えの束をとん、と突いた。
「現在の石を境界標として扱えない理由を、現場の話だけで終わらせるな。記録の側からも一つ足せ」
「記録の側、ですか」
「正式に境界標を立てたなら、金が動く。石工を呼んで刻ませた費え、据えた人足、立会い。何か残る」
もう一度、控えの束を指す。
「台帳だけで足りないなら、畦や道を扱った古い作業日誌を当たれ」
「……分かりました」
「急げ」
先任どのは、もう次の書類を見ていた。
話は終わったらしい。
*
資料室へ戻ると、マルクさんが古い地誌の綴じ糸を直していた。
わたしの泥だらけの靴を一瞥する。
「現場は、無駄だったか」
「……無駄ではありませんでした。無理だということは分かりました」
「そうか」
「それで、石や畦を扱った古い作業日誌を探したいんですが」
マルクさんは綴じ糸から手を離さないまま、顎で資料室の奥を示した。
「旧区画」
「旧区画」
「畦や道や石を、いつ誰が動かしたか。いくら払ったか。そういうのは、あっちだ」
「ありがとうございます」
それきり、マルクさんは手元へ戻った。
どの棚かまでは言わない。
いつものことである。
わたしは泥のついた靴を脱ぎ、灯りをひとつ手に取った。
資料室の奥へ入る。
今度は、足ではなく帳面で探す。




