第十二話:二十歩測ったら、村境が三つできました。
陽はもう畦道の真上まで昇っていた。朝のうちに黒く湿っていた土も、表面だけは白く乾きはじめている。それでも一歩踏み込めば底はまだ柔らかく、靴の縁から泥が小さく盛り上がった。
「では、記録官さん。その……植え替えたほうの桑の木から、とりあえず二十歩、測ってみますか」
東村のデニスが、鍬を杖のようにして言った。額の汗を腕で拭うたび、日焼けした肌に土の筋が増えていく。
南村の古株をはじめ、集まった両村の面々が、こちらを見ている。
「……ええ。確認のために、まずはやってみましょう」
二代目の桑が、三十年前の古桑と同じ場所に立っているかは分からない。
それでも、いまの桑から二十歩を測れば、どこへ出るかは確認できる。
「ニコさん、縄の端をお願いします」
ニコさんが黙って頷き、歩測用の縄の端を細い桑の根元へ押さえた。その横で、エリーズさんが帳面を開く。
「まずは、台帳の通りに『東へ二十歩』です」
わたしは縄を片手に、自分で歩数を数えながら東へ歩き出した。
一、二、三。
泥に足を取られながら、小股で二十歩を進む。畦道は思ったより狭く、片側へ寄れば畝へ落ちそうになる。二十歩を数え終える頃には、もう首筋がじっとり湿っていた。
二十歩目で足を止め、木札を一本、地面に軽く差す。
振り返る。
例のお弁当の石は、まだ少し先にあった。
「……届きませんね」
「おいおい、記録官さん。あんたの歩幅が小さすぎるんだよ。机のまわりを歩く足だろう、それは」
南村の大柄な農夫が、鼻で笑った。
失礼な。
だいたい当たっているので、言い返しにくい。
「次は俺が測ってやる」
大柄な農夫は桑の根元に立つと、丸太のような足を大きく振って歩き始めた。一歩ごとに泥が跳ね、靴の周りで小さな音を立てる。
「一、二、三……それ、二十!」
彼が踏みしめた場所は、お弁当の石を通り越し、東村側の畑の畝の中だった。
「おい! そこはうちの親父が耕した大根畑だぞ。踏むな!」
「何だと。じゃあ、お前が測ってみろ」
今度はデニスが桑の根元に立った。
彼は少し胸を張り、自分の歩幅で歩き出す。
一、二、三。
村人たちが声を揃えて数えはじめたせいで、ただの歩測が、だんだん祭りの余興のようになってきた。畦の上で大の大人が真顔で足を振り、まわりがそれを数えている。
地方支局の正式な現地確認である。
誰がどう見ても、村祭りの足自慢だった。
デニスの二十歩は、お弁当の石の左端をかすめる位置で止まった。
「ほら見ろ! やっぱりこの石は東村の敷地内だ!」
「いや、お前、最後だけ歩幅を広げただろう」
「広げてませんって!」
「広げた。俺は見た」
わたしの二十歩は石の手前。
大柄な農夫の二十歩は石の向こう。
デニスの二十歩は石の端。
三人とも、二十歩だった。
三十年前の記録官よ。
せめて、誰の二十歩か書いておいてほしかった。
言い合いに疲れたのか、村人たちはやがて、お弁当の石の周りに腰を下ろした。大人がふたり並んで掛けられる平たい石だが、今日は誰も真ん中には座らない。
誰かがパンを割り、別の誰かが干し肉を齧る。水筒の栓を抜く音がして、ぬるくなった水を回し飲みする。
問題の石のまわりで、問題の石を囲んで、昼飯が始まった。
なぜなのか。
いや、理由は分かる。
座りやすいからだ。
分かるのが、悔しい。
「そもそもな、五年前まで生きていた先代の桑は、いまの二代目より、もう二尺は南寄りに生えていたはずだ」
南村の古株が、干し肉を噛み切りながら言った。
「何を言ってるんです。先代の桑は、もっと東へ傾いてましたよ。根元はこっちです」
東村の古株が、水筒の水を飲みながら反論する。
「傾いていたのは枝だ」
「根も張っていた」
「根で歩数を測るやつがあるか」
「だったら、枝でも測らんでしょう」
わたしは木札を取り出した。
『旧桑位置、証言一致せず』
書けるのは、今のところそれだけだった。
「記録官さん、どうするんだい。どっちの歩数が正しいか、あんたが決めてくれよ」
パンの粉を払った村人が、わたしを見る。
「決められません」
「え」
「いま測ったのは、それぞれの方の二十歩です。三十年前の二十歩がどれなのかは、まだ分かりません」
村人たちが、あからさまに落胆した。
ある者は不満そうに鼻を鳴らし、ある者はまだパンを噛んでいる。
「では、どうするんだ」
南村の古株が言った。
わたしは、二代目の桑の細い幹を見た。
「先代の桑があった場所を探します」
「跡なんか、残ってるかね」
「分かりません。根株でも、土の色でも、何か残っていれば確認します」
木札に続けて書く。
『旧桑跡、要確認』
「あわせて、支局の記録も当たります。三十年前の台帳を作ったときの立会人の控えと、畦道や共有地の作業記録。桑を植え替えたときの記録があれば、それも見ます」
「また書類か」
デニスがうんざりした顔をする。
「はい。書類です」
わたしは頷いた。
荷物をまとめ、歩測用の縄を巻き取る。
ニコさんが縄についた泥を軽く払ってくれた。エリーズさんは、炭の乾いていない木札を指して、帳面に挟まない方がいいと手で示した。
ありがたい。
言葉がなくても、仕事は進む。
先代の桑の跡を探す。
ということは、明日もまた、この泥の畦へ戻ってくる。
ああ、胃が重い。




