第十一話:お尻の下の境界線
「あの、記録官どの。ちょっと、本当にくだらない相談なんですけれどね」
支局の狭い受付窓口に立っていたのは、東村の若い農夫デニスだった。初秋の朝の光が斜めに差し込んで、彼の日焼けした腕と、首筋に浮いた汗の粒を照らしている。鍬の柄を握ったままなので、相談に来たのか畑へ行く途中なのか判然としない。土と汗と、まだ青い草の匂いが、彼の体から受付窓口の中へ流れ込んできた。
その後ろには、白髪頭で皺の深い南村の古株が腕を組んで控えている。日に焼けた顔は風雨で硬く削られていた。
「相談、ですか」
わたしは手元の書類から顔を上げた。
できれば、そのくだらない揉め事は村の寄り合い所で片付けてほしい。
先の水車案件以来、どうもわたしを「話を聞いてくれる記録官」と勘違いする者が増えた。わたしはただ、静かな資料室を愛するお留守番記録官でいたいだけなのに。
「ええと、石のことで」
「石、ですか」
「昼に使ってるやつです。畦の端の平たい石。弁当を置いて、腰を下ろすのにちょうどよくて」
「おい、デニス。腰掛けの話だけにするな」
南村の古株が横から、低く唸るような声をあげた。
「お前が毎日尻を乗せとるその石だ。あれは昔の境の目印に似とる。もしそうなら、こいつは南村の畑で昼飯を食っていたことになる」
「いやいや! あそこはうちの親父の代から使ってますって。荷物置きです。弁当置きです。境なんかじゃありません」
弁当と、お尻。
そんなものの位置ひとつで、村の男たちが大真面目に言い合いを始めている。
わたしは羽ペンを置いた。
「まずは、支局にある記録を確認してみましょう」
資料室の奥から三十年前の公式土地台帳を引っ張り出してきた。革と古い糊の匂いがする厚い束をめくり、東村と南村の境界に関する記述を探す。
台帳そのものは正式なものだった。少なくとも、後からいじられたような痕跡はない。
ただし、正式な台帳が、親切な台帳とは限らない。
「……ありました。三十年前の記述ですね」
二人が窓口から身を乗り出す。デニスの腕から汗が一滴、台帳の縁の手前で止まった。慌てて拭いてくれたのは、ありがたかった。
そこに書かれていたのは、短い一文だった。
『古桑の木から東へ二十歩、畦道の端の大石を以て境界とする』
「ほら見ろ! 大石って書いてあるじゃないか!」
南村の古株が声を強める。
「いや、でも『畦道の端』って書いてありますよ。あの石はもっと畑寄りだ」
デニスも負けじと抗弁した。
記述自体は明瞭だ。
けれど、基準になっているのは桑の木と歩数と大石だった。
正式に境を残したのなら、標石の刻みや立会人、費えの記録が支局に残るはずだ。
ところが、この台帳にはない。
「……現地を確認しましょう。文字だけでは、その『大石』が今の石と同じものか判断できません」
わたしは歩測用の縄と、記録を書き留めるための木札を抱えた。
外勤である。
あまり好ましくない響きだった。
*
現場までの泥の畦道は、歩き慣れないわたしにとって、ちょっとした試練だった。
夜のうちに雨が降ったらしく、畦の土はまだ湿って黒く、一歩ごとに靴の底へ吸いついてくる。気を抜くと足を取られて、縄の束を抱えたままよろけそうになる。日差しはもう高く、首筋がじわりと汗ばんできた。
すれ違う村人から「お疲れ様です、記録官さん」と、少し酸っぱい野生の桑の実を手渡される。齧ると、舌の上でぷつりと潰れて、青くさい酸味が広がった。甘くはない。
やはり、資料室から出るべきではなかった。
現場には、すでに両村の若い者が数人集まっていた。
ニコさんが縄の束を黙って受け取り、エリーズさんが風でめくれそうになる帳面の端を指先で押さえた。指の節に土が少しついている。さっきまで何か作業をしていたのだろう。
目は合ったようだったが、言葉はない。
ありがたい。こういう沈黙は、記録に向いている。
「さて……」
いわゆる「お弁当の石」の前に立ち、わたしは木札を取り出した。
確かに平らで、大人がふたり並んで腰掛け、パンを齧るには絶好の石だ。よほど重いのか、地面に深く据わって、びくともしそうにない。人の尻でこすられてきたのか、座る辺りだけ表面が滑らかに乾いて、白っぽくなっている。
刻みは、ない。
境界標なら、村の境を示す刻みや符牒が入っているはずだ。指でなぞってみたが、表面はただ滑らかなだけで、人の手が文字を入れた痕はどこにもなかった。
「台帳の通りに確認します。まず、基準となる『古桑の木』ですが……」
わたしが指差した先にあったのは、どう見てもまだ若く、幹の細い桑の木だった。葉の色も浅い。
「あ、記録官さん。その桑の木、五年前くらいに先代が枯れちまって、植え替えた二代目の木なんですよ」
そばにいた農夫が、のんびりと教えてくれる。
わたしは縄を持つ手を止めた。
先代が枯れて、植え替えた。
なら、この木の根元が三十年前の『古桑の木』と同じ場所だとは限らない。
「では、一応その木を起点として、東へ二十歩を……」
言いかけて、また止まった。
そもそも、誰の二十歩なのか。
わたしの歩幅と、あそこに立っている大柄な農夫の歩幅では、同じ二十歩でもまるで違う。三十年前にこの台帳を書いた人が、誰の足を基準にしたのかも分からない。
「記録官さん?」
デニスが不安そうにこちらを見る。
南村の古株も、黙ってこちらを見ていた。
わたしは木札に、炭で書いた。
『基準木、五年前に植替え』
『旧基準木との位置関係、未確認』
『現存大石に境界標の刻みなし』
木札を見直す。
さて。
二十歩。
誰の足で測ればいいんだろう。




