第十話:書いてあれば、羊は誰かのものです。
村長の家に、もう一夜泊めてもらうことになった。
翌朝、村長の家の戸を、誰かが遠慮なく叩いた。
村長が出てみると、共有羊の持ち分を持つ村人の一人だった。わたしも呼ばれて玄関へ出ることになった。
村人は名乗りもそこそこに、用件を並べる。今年の毛刈りの取り分が、去年より目減りしている。十頭ぶん、どこかへ消えた。羊は狼に食われたと聞いたが、食われるほど目を離していたのは牧夫の不始末ではないのか。だとしたら、その分は牧夫に弁償させるべきではないのか。
顔も洗っていない朝のいちばんに聞かされる話としては、ずいぶん欲がはっきりしていた。わたしは、朝いちばんに人の欲を仕分けられるほど、できた記録官ではない。
村人は言いたいことだけ言って、帰っていった。
弁償を求められているのは、牧夫だった。
*
牧草地へ行くと、牧夫は犬と一緒に、覆いを外した山羊のそばにいた。
昨日まで目を合わせなかった人が、今朝は、わたしを正面から見た。
「弁償しろと、言われましたか」
先に言うと、牧夫は短く笑った。笑うところではないのに、笑った。
「狼になんか、食われちゃいません。あの十頭は、わたしが歩かせて連れていったんです。北奥まで」
牧夫は、その夜のことを、ぽつぽつと話した。
村長に言われて、雪の前に、十頭の羊を北奥へ追っていったこと。残っているのは三軒きりで、干し草はとうに尽きていたこと。痩せた羊を見た北奥の老人が、声を出さずに、何度も何度も頷いたこと。
「連れていったのは、わたしです。なのに帳面の上では、その十頭は狼の腹の中だ。狼に食わせた間抜けな牧夫、ということになっている。――まあ、どっちにしても、わたしですよ。連れていったのも、しくじったことにされたのも」
わたしは牧夫に頭を下げて、村長の家へ戻った。
*
台帳を開いた。
まず、「狼害 十頭」の太い字。
これは、消さない。消してしまえば、なぜ十頭ずれたのか、あとから分からなくなる。
わたしはその一行に、細い取消線を引いて、横の余白に書いた。
――狼害の事実なし。前記載を取消。共有羊十頭、村長判断により北奥仮開拓地へ無届で移送。移送実施者は牧夫。村長指示による。
次に、共有資産台帳。
北奥へ移した十頭について、書かなければならないことが、ひとつずつ出てくる。
誰が、いつ、何頭を、どこへ。
返すのか、返さないのか。
冬に死んだら、誰の損か。
仔が生まれたら、誰のものか。
わたしは、それを村長に一つずつ尋ねながら書いた。
村長は、一つずつ答えた。
羊そのものはホルナー村のものとして、北奥に預けるつもりだったという。
なら、貸与になる。
共有資産台帳に、貸与として記載した。
山羊は、別の紙に移す。村が買った、村の資産だ。買った相手、買った値。乳の代金も、羊の収益から外して、山羊の帳面へ送る。
羊のふりをしていた山羊が、ようやく山羊の欄に収まった。
覆いは、もう要らない。
*
最後に、もう一枚。
冬越し扶助の申請用紙だ。
「羊を返してもらったら、北奥はまた裸になります」
村長が言った。
わたしは、申請用紙を村長のほうへ差し出した。
「村が黙って羊を回すと、こういう年は、毎回どこかで嘘が要ります。でも、北奥が困っていることを、村の名前で申請すれば、それは正式な記録になる。通るかどうかは、わたしには分かりません。決めるのは、上の支局です。――通らなくても、申請は残ります。来年また同じことが起きたとき、今年の書類が効きます」
村長は、申請用紙を両手で受け取った。
*
帳面を閉じる前に、ひとつだけ確認しておく。
「狼害と書いたのは、書き間違いではありません。虚偽の記載です。これは、わたしから支局へ報告します。村長どのには、上の支局から、たぶん注意があります。庇いはしません」
「……受けます」
ステファン村長は、背筋を伸ばした。
「父なら、どうしたか。それは、もう考えません。わたしのやったことは、わたしが受けます」
わたしは帳面を閉じた。
*
帰り支度をしていると、子供が部屋の入口から覗いていた。
「記録官さん」
「はい」
「ぜんぶ、書けた?」
ゆうべの問答を、覚えていたらしい。
「書けました」
わたしは答えた。
「書いてなかったものを、どこに書くか、ぜんぶ探しました。羊は羊のところに、山羊は山羊のところに。困っている人がいることは、困っていると書く紙に」
子供は、分かったような分からないような顔をして、それから、少しだけ笑った。
「記録官さんって、やっぱり、悪い人は捕まえないんだね」
「捕まえません。場所を、探すだけです」
荷馬車で村を出るとき、牧草地の脇を通った。
牧夫が、犬と並んで立っていた。
今度は、目を逸らさなかった。
わたしが頭を下げると、軽く下げ返して、覆いの取れた山羊のほうへ、ゆっくり歩いていった。
その山羊の一頭が、また後ろ脚で立ち上がって、低い枝に口を伸ばしていた。
今度は、誰も慌てなかった。
*
支局に戻ると、先任どのが顔を上げた。
「数えてきたか」
「数えました」
わたしは、綴りを机に置いた。
狼害の取消、貸与の附記、山羊の登録、乳の別帳、北奥の扶助申請。
行きには薄かった綴りが、帰りには、少し厚くなっていた。
「ただ、数える前に、何が羊なのかを決めるところからでした」
先任どのは、綴りをめくって、太い字の隣の細い字を、しばらく見ていた。
「……羊皮紙のほうが、まだ楽だったか」
「どちらも、楽ではありませんでした」
通用口のほうから、リネットさんの声がした。
「あら、戻ってこられたのね」
「戻りました」
リネットさんの目が、わたしの荷物に止まった。
「……その包み、まさか」
「いただいたパンです」
「まだ残ってるの?」
「はい。長くなりそうだったので」
リネットさんは、しばらくわたしを見た。
「そういうときは、ちゃんと食べなさい」
「はい」
持たせてもらったパンは、すっかり固くなっていた。
(服を着た迷い山羊の申立案件:了)




