森鴎外
「雨崎くんって舞姫とか好きかな」
雨の音の止まぬ日に文学の話題を持ちかけてくる栄生さん。よくわかっていらっしゃる。雨はワルツだ。一粒一粒が命をかけて鳴らし続けるノイズのような音に、時折混ざるトタンを打ちつけるリズム。幼いときに三拍子に聞こえて以来雨が降るたびにそれがぼくを覆っていく。ぼくはその世界に包まれながら本のなかを漂うのだ。まったく読書にうってつけである。
「ぼくはそのあたりの本を読んだことはないんだ。明治大正の時代の死生観がどうにも合わないような気がしてね。どんな話なのかな」
「雨崎くんが好きそうだと思ったのに知らないんだ。ざっくりと話すね。国の補助かなんかでドイツに留学していた男子学生が主人公でダンスホールみたいなところに足繁く通っていたの。そこの踊り子の一人を好きになっちゃったからね。でも踊り子は給料が少ないから身売りをする人もいたんだよ、その子は違うけど。それを見ていた他の学生が上に報告して退学、もちろん補助金も止められて路頭に迷う羽目に。でも知り合いの新聞記者の伝手で、その新聞社の特派員としてドイツで暮らすことができるようになって。給料は多くはなかったけど、好きな子と結婚して暮らしていたんだ」
なんだか普通だと思っていたけれど、時代を考えると結構な大事だ。身を削る思いもあったのだろう。それでも好きな人と一緒にいることを選んだ。ぼくにその気持ちがわかるのだろうか。いつかそういう日も来るかもしれないけれど、そういうことはそういう感情を持ってからでないと考えられないか。今は続きを聞くとしよう。
「ある日女の子が妊娠しているのがわかって頑張るぞって思っている矢先に、主人公の記事が偉い人に気に入られて日本に帰ってかなりいい仕事をしないかって誘われちゃうんだ。それで日本で頑張りたいという気持ちが強くて女の子にどう話そうか悩んでいたらちょっと倒れちゃったの。その倒れている間に主人公が日本に帰ることを知って、その女の子がパラノイアになっちゃって。目を覚ました主人公は女の子と生まれてくる子供のためにお金を渡して日本に帰ったっていうお話。うろ覚えだから間違えているところもあるかもしれないけど。大体は合っていると思うよ」
「なんともやりきれない物語だね。でもどうしてぼくがこの話を好きかもと思ったのかな」
「なんかこう、暗い話というか葛藤を描いているからなんだか好きそうかなと」
ぼくが陰鬱な人間だと思っているのだろうか。ぼくの心はパーティ会場だと自負している。煌びやかなシャンデリア、アールヌーボーのテーブルに所狭しと並ぶ豪勢な食事、それに群がる夏の虫のような人々。非常に鬱陶しい。もう連日開かれるパーティに辟易するほどだ。
そんなぼくが好む話といえば、ここは推理小説で例えよう。犯人に悲しい動機はいらない。犯罪を犯す気持ちもわからなくはない、でもそこまでしてはいけないんだ、なんてそんな正しさは必要ない。今日も暑いな。そうだ。目指そうぜ、完全犯罪。これくらい軽いノリでいいんだ。それを推理する探偵なり警察も動機のなさに驚くほど困惑していただけるだろう。ぼくはそんな推理小説が好きかもしれないので、誰か教えてください。
「栄生さんには意外に思われるだろうけどぼくはわりと明るい話が好きなんだよ。勧善懲悪ものとか」
「もちろん?」
「嘘ですね。本当はそういう話は嫌いではないです。ただ前に森鴎外の何かを読もうとしたら古典というより古文みたいだったから途中で読むのをやめたんだよ」
「文語体と口語体で全然違うからね。舞姫は口語体に近いから読みやすいと思うよ。是非是非読んで感想を聞きたいな。雨崎くんが主人公だったらどうしたか聞きたいな」
「栄生さんがそこまで言うなら図書室で借りてみるよ。ぼくが主人公だった場合は時代の違いで答えられないかもだけど」
「いいよいいよ。雨崎くんの考えが少しでも聞けたらいいから。あともし気に入ったらモリリンの他の作品も読んでみてね」
幻聴か。急に不思議な名詞が現れた。他の作品ということは人名か。話の前後から推測できない人だ。突然の出会いにぼくは狼狽えることすらできない。ここは落ち着いて挨拶からだ。
「初めまして。モリリンさん。日本語は話せますか」
「なに言っているの、雨崎くん。森林太郎だからモリリンなんだよ」
「続く名前はモンローですか」
「だから林太郎だって」




