胡蝶の夢
「そういえば昨日すごく不思議な夢を見たんだよ」
今朝起きた時の動揺は栄生さんに伝えることに値するものであろう。そう焦る気持ちもありぼくは珍しく昼休みに話をしている。周りの喧騒もあるため今日は感情を揺らされることもあるまい。ぼくは自分の思う以上に顔に出やすいらしいので、冷静を装える環境に身を置くことでそれを隠すことができる。しかも多方から見られないように教室の片隅だ。なんと考えられた行動だ。自画自賛も甚しい。この思考も周りにはわからないように振る舞えていると思う。
「どんな夢を見たの?」
いつもの教室での栄生さんだ。なんて自然に振る舞えるのだ。こう見ると放課後とは少し雰囲気が違うのかな、少し嬉しくなる。湧き上がる感情を抑えて話を続ける。
「内容はほとんど覚えていないんだけど、ぼくが小学生だったんだ。何か驚くことがあって起きたんだけど、起きてしたことが周りの状況を確認して教科書を探したんだ。自分が小学生なのか高校生なのか本当にわからなくなっていたんだ。そこまでしてやっと今は自分が小学生ではなく高校生なんだと思えた。そのあとこれが夢なのかどうかと考えながらまた寝て、起きたらちゃんと今が現実だって自然と感じていたんだ」
「んー、遅刻した夢を見たときとは違うのかな」
「あれは時間確認したら夢だったかってすぐ納得できるよね。それと違って、この場合遅刻してない方が夢なんじゃないかって感覚になってると思う」
「一度起きたのが夢だったとか」
「教科書が出ていたからちゃんと起きて確認しているんだよね。だからその悩んだこと自体は夢じゃない」
「まるで胡蝶の夢だね。この事件の解決、わたしに任せなさい」
「栄生さんは脳科学に詳しいのかい」
「そんなことは一切知らない。要は雨崎くんが納得できる答えを出せば安心するんだよ。心安らかであることこそがあなたの幸せなのです」
ぼくは栄生教の教義を履修した覚えはないのだが。いや、すでに信徒なのかもしれない。意識せずにぼくの中に浸透していてもおかしくない。
「放課後までにこの不安に対する解答を導き出しましょう。というわけで放課後大丈夫かな?」
「もちろん。じゃあ放課後いつも通りに」
ぼくは何事もなかったと言わんばかりの表情で自分の机に戻った。
「では、栄生さんの結論を聞かせてもらおうか」
日の傾きは鋭くあとニ時間もすれば夜の帳が下りきっているだろう。この時間の教室は相変わらず人はいない。時折遠く聞こえる部活動の音がわずかにガラス窓を揺らす。そのささやかな静けさの堰を切らないように栄生さんはゆっくりと口を開いていた。
「雨崎くんはきっと逃げたいことがあるんじゃないかな」
現状に不安か不満があったりしてそれをなかったことにしたいのではないか、現実逃避のような感情で小学生になろうとしていると言う。
「というわけで今直面している悩みを解決したらいいんだよ」
まるでぼくが悩んでいることを前提に話をされた。いや、あるんだけど。というか誰にだって悩みはあるだろうが。
「悩みはあるけれどこれは栄生さんにはお伺いを立てられないよ。これはぼくの得意な自問自答の領域だからね」
「いや、自分の得意なところで悩んだらなおさら外に聞かないと駄目じゃない。まあわたしに言いにくいこともあるだろうから無理にわたしにとは言わないけれど」
少し悄気ているのがわかる。そんなにお悩み相談をしたいのか、それとも。良く受け止めてぼくの力になりたいのであろう。そしてぼくを弄りたいのであろう。今がそうであるのできっとそうだ。しかしぼくの悩みに栄生さんが関わっているので相談はできない。だからここは上手く逃げるのだ。
「栄生さんにはまず夢のほうを解決してもらわないといけないからね。悩み事はあれど小学生に戻りたいと思うわけでもないので。寧ろ今の方が良い環境だと思っているよ」
「ええ、つまんないなぁ。今の方が良いなんて。昔に戻ってやり直せるかもだよ。まあ良くなるかはわからないけどね」
「その言い方だと、栄生さんはあまり満足ではないのかな」
「いやいや満足も満足だよ。ただ、もしもを体験できたら楽しそうじゃない。実際に戻りたいわけじゃあないよ」
「それはよかった。ぼくは小中学のときの強い思い出がないからね。覚えていることは多々あれど、簡素な感想しかでないくらいのものだから。なんとなく無難に過ごしていただけだから。まだ今のほうが楽しいよ」
「…簡素な感想…」
「いや、そこは洒落を言ったわけでは…」
「そうだよね。寒いと思うのは冬に近くなったから空気が乾燥しているだけだもんね」
「少し寒いときはマラソンをしっかりと完走したいものだね」
「いやいや、雨崎くんみたいな人は走る前に還送されるよ」
「おやおや、それはしっかりと歓送してもらわないといけないな」
「その間はしっかりと音楽をかけてあげるね。間奏は踊ってね」
「それは困った。その間は観想しようと思うのだけれど」
「…まいりました」
ぼくの勝ちだ。でいいのか。ぼくも次は出ないのだが。簡素な感想も入っているのかな。ここでの勝ち負けはどうだっていいのだが。
「それはそうと、雨崎くんって昔に良い思い出ないの?」
「ないわけではないけどあの時をもう一度体験したいなんて思うほどのことはないよ。ほどほどに良く生きた小中学時代だね。平々凡々だよ。後悔はないと言えば嘘になるけど、まあ他愛もないことばかりでやり直したいほどのことはないからね」
「それはそれで羨ましいな。わたしなんて気を張ってばかりいたような気がするもん。中学の時にそんなに気を張っても周りの人はそんないろんなことを気にしていないんだって思って。疲れた小学生時代をもう少し気楽に過ごしてみたいとは思うよ」
「でもその時代があるから今気楽に、且つさりげない気配りのできるようになっているんだよ。小学生時代を楽に過ごした栄生さんがもう少し気をつかっていきたいと思い、時間を遡って今に至っているのかもだからね」
「素敵なこと言ってくれるね。でも折角なら比べられたらいいのに」
「比べて今のほうが辛かったらまた戻してって思うよ。だから忘れてしまうほうがいいんだ。栄生さんは今のままでいいんだと思うよ」
「ありがとう。そう、今のわたしはとっても素敵。だから大丈夫」
栄生さんも悩んでいることはもちろんあるのだろう。多感な時期だ。些細なことでも悩む。普段しっかりと考える人だからあまり考えないようにしたいのだ。疲れちゃうからね。それでもやはり考えはする。そうするように生きてきたのだから。考える人は自責の念も強くなる。だから自分に言い聞かせているんだ。大丈夫。
「うん、栄生さんは大丈夫だよ。ぼくなんかよりもずっとしっかりと考えているんだから。間違えなんてそもそもないんだから」
栄生さんの悩みがなんなのかはわからない。それを聞くと余計なお世話になるかもしれない。まだ踏み込んではいけない。でも栄生さんを励ましたいとは思っている。
「間違いなんてないってどういうことかな」
「だって栄生さんは良かれと思って行動するでしょう。じゃあ栄生さんにとって正しいことなんだよね。相手がいてそれと違うものを求めていたとしても、人の機微に関しては正直どっちも正しいと思うよ。ほら、むしゃくしゃしているときだと素直に感謝できないときとかあるよね。人の感情なんて自分でもわからないときもあるから」
「優しいよね、雨崎くん」
思いがけない言葉だった。悩みはわからないけど、なんとなく励ましたくてついた言葉。いつものぼくよりも少し深く入り込んだ距離感、間違えていても笑い話で終わる程度のこと。そう思って出た言葉に感謝の意を受けた。驚きもあれど少し嬉しかった。役に立てたのか、それはわからない。栄生さんなら的を射ていない言葉でも同じように言っていたであろう。そうであってもぼくは栄生さんに感謝されたということが嬉しかった。直前に自分の言ったことがまさしくそうであったということなんだと思う。
「どういたしまして」
たぶんぼくは今優しく微笑んでいるのだろうと感じる。これが夢なら覚めないでほしいものだ。
「でもね雨崎くん、昼休みの話しかけ方は面白かったよ。あまりに険しい顔で、ちょっといいかな、って。周りの子に喧嘩とか聞かれちゃったよ。とにかくなんとなく誤魔化すために、果たし合いの約束って答えておいたよ」
たぶんぼくは今顔面蒼白なのだろうと感じる。これが夢であってほしいものだ。




