14 襲撃
14
「ひゃーくの」
一日の授業が終わり、校舎の外へ出た瞬間、冬の空気とともに、ひとりの長身の影が視界にすっと滑り込んできた。まっすぐこちらだけを見つめる姿。すれ違う学生たちは皆、一様にぎょっとしては彼を横目で盗み見て通り過ぎていく。その反応だけで、佰乃は誰が待っているのかを察した。
外で待っていたのは、案の定ハルだった。
今日の彼は冬仕様らしく、いつもの薄いパーカーではなく、ほのかに温かい白の生地をまとい、その上からロングコートを羽織っている。もともとの整った体つきのせいで、その服装が妙に映えて見えた。どこか街の雑誌の一頁のようで、周囲の視線を集めてしまうのも仕方がない。
――つまり、今日のハルは制服ではない。
佰乃は小さく息を吐いた。ため息のような、呆れのような、そんな曖昧な吐息だった。
「まったく。授業を受けに来たわけじゃないなら、わざわざ迎えに来なくてもいいのに」
足を踏み出すと、ハルも自然と佰乃の歩調に合わせて横に並ぶ。
「なんでよ。来たっていいじゃん。家にいても退屈なだけだしぃ〜」
「……それはそうだけど」
るんるん、と足音に音符でもつきそうな軽さで、ハルは隣を歩く。
跳ねるたびにふわりと揺れる髪を眺めていると、ふと佰乃の頭に別のことがよぎった。
「そういえば、そろそろ髪、切ろうか。七羽のカラスの件も終わったし、時間あるでしょ? ハル」
「まーね。いつでも切ってっちょ。あ、……そういえばさ、小耳に挟んだんだけど、彼ら祓われたんだって?」
「……」
佰乃は短く、けれど重く頷いた。その瞬間、足元を冷たい風がすっと通り抜けていく。
「佰乃ってさぁ、たまに酷なことするよねぇ。あのとき、ハルたちが祓ってあげたほうが良かった気がするんだけどなぁ」
「でも、そしたら彼女たちは……」
「言ったじゃん」
ハルの声が、冬の空気よりも冷たく佰乃の言葉を遮った。
「ハル、昔言ったよね? 無駄に人生を延ばされるくらいなら、幸せな記憶のまま消えたほうがいいって。辛い未来が待ってるなら、そっちのほうがまだマシなんだよ」
佰乃は喉の奥で言葉を失った。ハルの言葉に押し返されるように、胸の奥がきゅっと縮む。
あの日の記憶が、淡い霧のように脳裏で揺らぎはじめる。
「……ハルは」
ようやく絞り出した声は、驚くほど弱く、頼りなかった。
「ハルは、嫌だった……? 今、私の隣にいるのが、嫌……?」
「だぁかぁらぁ」
ハルは、わざとらしく溜めてから、私の額へ軽くデコピンを放った。
「いった……」
「勘違いしないでね、佰乃。ハルは、佰乃のものなんだから。さっきはああ言ったけど、佰乃は例外。ハルは彼らの気持ちがわかるだけで、彼らじゃない。佰乃をこの世に一人残すなんて、そんな酷いことはしないよ。佰乃が消えるその日まで、ちゃんとそばにいるよ」
そう言うとハルは、タッタタッと軽快な足取りで少し前へ走り、ぱっと両腕を広げた。
――飛び込んでおいで、の合図。
私は思わず周囲を見渡す。部活帰りの声も、足音も、この道には今ひとつもない。よし――。
大きく地面を蹴り、ハルの胸の中へと身を預けた。コート越しに伝わる体温。その奥から、規則正しく小さな心音が響く。ハルの体を巡る血の中には、私の血が少し混じっている――そんなことを思い出すだけで、胸の奥がきゅっと強く縮んだ。
「だから、佰乃」
「なに?」
「ハルから、離れないで」
「……?」
その一言の響きが、先ほどまでとまるで違っていた。急に張りつめたような声。息をひそめるような低さ。何かあったのかと思い、抱きついたまま顔を見上げる。
――ハルの表情が変わっていた。
柔らかく笑っていた瞳は影を潜め、鋭い光だけが宿っている。まるで、獲物を一瞬たりとも逃さない捕食者の目。その視線は、私ではなく――私の背後へと、真っすぐ向けられていた。
そして、その視線の先には――。
「あ、天人――⁉︎」
その名を思わず漏らした瞬間、視界の先に立っている人物の姿がはっきりと焦点を結んだ。
茶色い髪が冬の光を柔らかく弾き、背の高い青年が静かに佇んでいる。学ランの襟は上まできちんと留められ、乱れたところが一つもない。見た目だけなら文句なしの優等生――けれど私は知っている。
あの穏やかな垂れ目の奥に、時折黒い冗談のような腹の読めない部分が潜んでいることを。初めて会ったとき、そのギャップに思わず身構えた記憶が、いまだ鮮明に胸の奥に残っていた。
「優一郎さん………。天人を、どうしたんですか……」
――小野内優一郎。
それが、彼の名だ。
優一郎の腕の中には、ぐったりと力の抜けた天人が抱えられていた。目を閉じて、静かに呼吸だけはしている。眠っている……そう言われれば信じてしまうほど、顔に外傷はない。少なくとも、優一郎さんが手荒に気絶させたようには見えなかった。
「あー、なんかねー、仕事を請けててさ。そいつを追っかけてたら、たまたま彼に会っちゃって。で、ついでに手合わせしたんだよ」
「……手合わせって。優一郎さんが半妖の存在を嫌ってるのは知ってます。でも、私たちと顔を合わせるのは――あの時まで待つって約束でしたよね」
声の調子を崩さないよう、佰乃は慎重に言葉を選ぶ。
優一郎の気を引きながら、心の奥では舞子との接続がつながるのをじっと待つ。
――そして。舞子は、期待通り、すぐに応答した。
『どうしたの? くのんちゃん』
『緊急なの。今すぐ、学校の裏門に――お父…征爾を呼んできて!』
『え、ええええ⁈ 呼び捨て⁉︎』
『今はそこ、突っ込むところじゃないから、舞子ちゃん』
珍しく、接続に自ら割り込んできたハルが、冷静にツッコミを入れる。その声が妙に落ち着いているせいで、逆に状況の緊迫を強く思い知らされる。
『緊急なら仕方ないけど……でも今、東先生、なんか陰陽道のどうたらこうたらで実験中らしくて……。私も今、それ手伝ってるところなんだけど』
『なに手伝わされちゃってんの⁉︎』
『とにかく、それ中断させて、こっちに来てもらって。……ま、征爾さんが来る前に、ハルが片付けちゃうけどね』
さらりと、とんでもないことを言ってのけるハル。佰乃は思わず、隣に立つ彼の横顔をのぞき込んだ。
「ハル……まさか、優一郎さんと手合わせするつもりじゃ………」
「もちのろん☆」
眩しいほど無邪気な笑顔。佰乃は恐る恐る視線を優一郎へと向ける。彼がまだ結界を展開していないことを、念のためもう一度確認する。もし結界が張られたら、こちらが一瞬で劣勢になるのは明白だ。
――優一郎が使役する“野焼”。
東家の分家「小野内家」の末っ子である彼は、兄の鉄郎から“野焼”を受け継いだ。
姿こそ幼い少女の式神だが、優一郎の結界の内側で発揮する力は、凶悪と言っていいほど強大だ。きっと征爾でさえ、正面から止められるかどうかは怪しい。
「ハル坊が僕の次の手合わせ相手とは……これはこれは、楽しみだ」
優一郎が、どこか達観したような声音で言う。
「ねぇ、優一郎さん。ハルのこと、馬鹿にしてるでしょ? してるよねぇ? 知らないよ、後悔しても」
その瞬間だった。
優一郎の視界に映ったハルの顔が、ふっと変わった。つい先ほどまでの笑顔が、まるで霧が晴れるように消え失せ、代わりにそこにあったのは――。
自分を真っ直ぐに見上げる、捕食者の眼。
ゾワリ、と優一郎の背筋を冷たいものが駆け抜ける。
「………」
だが優一郎は、深く息を吸い、乱れた心をすぐに整えた。鼓動をぴたりと静め、冷静そのものの声で口を開く。
「zhangai」
優一郎の指先がわずかに動いた瞬間、空気がぴしりと張りつめた。目には見えない薄膜が空間に走り、透明な壁が世界を囲い込むように結界が閉じる。
――ついに、彼は結界を張った。
佰乃は反射で手を伸ばし、指先を優一郎へ向ける。
「jupi」
短い呪が空気を震わせ、佰乃の陰が鋭い矢のように放たれた。だが、それは結界に触れた途端、硬質な音を立てて弾かれ、跳ね返った陰がそのまま佰乃の胸に、深く突き刺さるように衝撃を与えた。
「ひゃくのっ!」
今にも優一郎へ飛びかかろうとしていたハルは、構えをほどき、佰乃へ駆け寄る。外傷はない――しかし、胸の奥を掴まれるような痛みが佰乃を襲っていた。
呪言返し。
それは傷つけるのではなく、精神そのものを喰う術。
「だめでしょ、佰乃ちゃん」
優一郎は肩をすくめ、やれやれと首を振る。
「それ、陰陽師の中じゃ“やってはいけないランキング”上位だよ? 明らかに格上ってわかってる僕に“陰”を放ったら、呪言返しが来るって知ってるはずなのに」
「佰乃……大丈夫……?」
「だい、じょうぶ……」
佰乃は胸に手を当て、自身の“陽”を精神に浸透させるように流し込む。
陽の力で精神を満たし、少しでも呪言返しの痕跡を薄める――応急処置としてはこれが最善だ。
けれど。この状況は明らかに不利だった。
すでに優一郎の結界の中に踏み込んでしまっている。佰乃自身が結界を展開すれば多少の対抗はできるが、相手は格上。この空間はすべて“彼の領域”――そこに入り込んでしまった時点で、形勢は決して軽くない。
非常に――まずい。
「おい! 天人! 起きろよ! 何、そこで伸びてんだよ!」
ハルが声を張り上げるが、天人は地面に倒れたまま、かすかに胸を上下させるだけ。深い眠りに落ちているようで、反応はまったくない。
「……念のため言っとくけど、僕の仕業じゃないからね?」
優一郎はそばに立つ野焼の頬をゆっくり指で撫でた。
「彼、僕が何かする前にふっと倒れちゃってさ。さすがに眠ってる人間を襲うのは気が引けたから、ここまで連れてきただけ」
…………ありがとうございます、とは言えなかったが。
佰乃は天人へ視線を向け直す。外傷はない。ただ――顔色がひどく悪い。血の気が引いて、紙のように白い。
……もしかしたら、七羽のカラスの件を、天人は胸の奥でずっと気に病んでいたのだろうか。
彼にとって、あれは初めて「救えた」と実感した妖怪だった。それなのに、最終的に彼らを祓ったのは――他ならぬ陰陽師たちだ。
だから佰乃は、あの後ずっと、彼らの耳に真実が届かないように気を配ってきた。しかしもし彼が知っていたとしたら……当然、舞子にも伝わっていることになる。
佰乃はぎゅっと下唇を噛む。
――なのに、私は気づけなかった。
彼らの心の揺れに、影に、痛みに。
私は東家に生まれた陰陽師なのに。
この町を、みんなを守るために存在しているはずなのに――!
「落ち着いて、佰乃。……佰乃が激情するのは、よくないよ」
ふっと、肩に温かな手のひらが置かれる。ハルの温度が、張り詰めた心を一度で宥めるようだった。佰乃は視線を落とし、吐息を細くこぼす。
ハルは、優一郎に決して聞こえないほどの低い声でささやいた。
「さっき、征爾さんに連絡とったでしょう? あの人が来れば、なんとかしてくれる。だから、今は――それまでの時間稼ぎ。……そう思えばいいんじゃない? ……まあ、優一郎さんがハルたちに時間をくれるとは思わないけどね」
「時間稼ぎ……」
――そうか。それもまた一つの戦術。生き残り、次へ繋げるための、大事な戦い方。
「ハル……くれぐれも、無茶はしないで」
「わかってるよ、佰乃。――さあ、命じて。ハルはどうすればいい?」
その声の優しさが、佰乃の混乱を静かに鎮める。荒れていた心が、すうっと澄んでいくようだった。佰乃は、鋭く優一郎を睨み据える。
「あいつを止めよう」
「りょーかいッ!」
一瞬――本当に瞬きよりも短い時間だった。
ハルの身体が地を蹴り、残像だけが視界にひらりと残された。
「Nuo| ya ru ni suo yuan」
優一郎の、かすかにハスキーがかった声が空気を震わせた瞬間、結界の内側に、常識を無視した暴風が一気に巻き起こった。空気が――ひと払いされた。
「うぎゃっ!」
ハルは情けない叫びを上げ、身体ごと結界の壁へ叩きつけられた。天人も同様に吹き飛ばされ、地面を何度も転がってから壁にぶつかって止まる。
佰乃は重心を極限まで低くし、足裏で地面を噛むようにして踏みとどまる。
優一郎はひややかな目で、私をゆっくりとなぞるように見つめた。
「……さすが、征爾さんの子だね。というか東家の子というか。今の一瞬で自分の周りに結界を張って、風圧を相殺するなんて。頭の悪い僕には思いつかない応用法だよ」
彼は楽しそうに唇を弧にし、
「……あ、それとも、御役目の儀式が終わったばかりで、まだ術の経験が少ないだけ?」
………ぐっ。
図星すぎて、佰乃は無意識に手を握りしめる。
「あはっはは。そりゃそうだよね。ごめんごめん、僕の配慮が足りなかったよ」
「あの……優一郎さんって、腹黒すぎません?」
「そお?」
優一郎は顎をわずかに上げ、にこりと笑ってこちらを見る。その瞬間――佰乃は気づいた。
隣にいたはずの野焼の姿が、ない。
そして、角度を変えて顔をよく隠しているのかと思ったが……。
優一郎の右目の下を、赤い液体が一筋、頬を伝い落ちていた。
「ッ!」
横薙ぎの風。身体が反応したのは、ほとんど反射だった。佰乃は半歩だけ後ろへ身を引き、野焼の振り下ろす刀を紙一重でかわす。
ま、じ、で、殺す気⁉
このアホンクラ先輩ッ……!!
しかし、避けた瞬間に残った風圧が佰乃の身体を弾き飛ばした。背中が結界の隅にぶつかり、視界が一瞬揺れる。頬についた泥を乱暴に払って、必死に立ち上がる。
「……その腹黒さ、榊家に劣らないと思いますよ……」
「…………」
優一郎の目が細くなる。光を失った水晶のような瞳が、じっと佰乃を射抜いていた。
「……野焼。もういいや。遊ぶのも疲れた。勝手にやっちゃって」
――やばいッ!
本能が、警鐘を鳴らした。
言葉にならない声で、全身が“逃げろ”と叫ぶ。
なのに。
鎖骨の奥から神経が震え、指先まで電流のように痺れが走る。太腿を通る大動脈が、ドクドクと音をたてるほど脈打つ。
動け――動けって言ってるのに!
脳の命令が、体に届かない。恐怖が処理を阻害して、筋肉が固まっている。野焼の黒い目が、ぬらり、とこちらへ迫ってくる。その距離は、もう避けられないところまで来ていた。
佰乃は、ぎゅっと目を瞑った。
嫌だ――死にたくない。
ここで終わりたくない。
何よりも……優一郎さんに殺されるなんて、絶対に嫌だ!
グシャッ‼︎
耳の奥の鼓膜を破るような、生々しい音。
「…………え…………?」
その声は、私ではなかった。
――ハルだった。
ご感想等お待ちしております☺︎




