13 偽善者
13
――人は誰しも「守りたいものがある」と言ったら、それは綺麗事になるのだろうか。
ただ手放したくなくて、誰かに壊されるのが怖くて、できることなら自分の掌の内に留めておきたい。
そんなふうに胸がざわついたことは、一度くらい、誰だってあるはずだ。
それは独占欲に似ているようで、どこか違う。
むしろ、自分の世界を乱されたくないという――生き物が本能的に抱える、小さな叫びのようなものなのかもしれない。
藤崎天人は、弾かれたように目を覚ました。
「………………」
胸に手を添えると、乱れて跳ねる鼓動が指先に伝わる。妙に速い。嫌な夢の残滓がまだ体内にまとわりついているようで、背中を汗が筋を描いて流れ落ちた。
次の瞬間、こめかみの奥を鋭い痛みが突き抜ける。天人は小さく舌打ちした。
「……まったく。朝っぱらから、最悪の気分だ」
体の奥に鉛が沈んでいるみたいに重い。疲れが抜けていないのは明らかだった。壁にかけてある無地のカレンダーへ視線を向ける。
今日を含めて、登校日は残り8日。
8日。
その8日が過ぎれば冬休みで――そして俺たちは、あの突男に会いに行く。目的は、まだ分からない。ただ、行かなければ分からない、ということだけははっきりしていた。
時計を見る。思った以上に針は進んでいた。
枕元の目覚ましに目をやると、アラームはとうに止まっている。いつ止めた? その記憶がまるでない。余韻に浸っている場合ではない。
天人は布団を跳ね飛ばし、冷気をものともせずベッドから起き上がった。壁のハンガーから制服を引きはがし、鞄を無造作に掴む。
(……今日の授業の準備、したっけか?)
本来なら、前日にきちんと準備してから寝る。だが昨夜の自分の記憶は、疲れて帰宅したところで途切れ、あとは靄に包まれている。
まるで、誰かに睡眠へと引きずり込まれたかのように。
「……まあ、いっか」
短く息を吐き、天人は覚悟を決めたように玄関へ走り出した。
┈┈┈┈┈┈┈ ❁ ❁ ❁ ┈┈┈┈┈┈┈┈
朝食を食べ損ねたことに気づき、天人は足早に購買部へ向かった。
棚に整然と並んだパンの一つを手に取った――まさにその瞬間、1限目の始まりを告げるチャイムが校舎に響き渡る。
「ありゃあ、こりゃあ遅刻確定だねぇ」
購買のおばちゃんが朗らかに笑いながら、天人の手に釣り銭を載せてくれる。天人は小さく肩をすくめ、財布をしまうと、買ったばかりのパンを鞄に押し込んだ。
「じゃ、行ってきます」
そう言って微笑むと、さっきまで不機嫌に曇っていた顔が、ふっと和らいだ。
――ドンッ。
思いがけない衝撃に、天人の体がわずかに揺れた。
誰かと肩がぶつかったのだ。普段なら、人混みを縫うように歩くのは得意で、ぶつかることなんて滅多にない。それなのに――今日はどうにも、意識が散っている。
「す、すいません……」
反射的に頭を下げて振り返る。
そして、その姿を目にした瞬間、胸の奥で何かが僅かにざわめいた。
ぶつかったのは、同じクラスの佐々木音音だった。
天人よりもひと回り小柄で、猫背ぎみのせいか、影が薄いように見える。目深にかぶった帽子は相変わらずで、その上から学ランの襟元に重ねるようにパーカーのフードがのぞいている。どこか冬眠した小動物のような、守りに徹した格好。
――彼がどうしてこの身なりを続けているのか。
その理由を、天人は知っている。
「……音音」
背を向けて去ろうとする肩へ、天人は短く呼びかけた。音音はぴたりと足を止め、ゆっくりと首だけを振り返る。だが、帽子の影がその表情を深く覆い隠している。
「どうしたんだよ。お前の教室、こっちだろ」
天人は彼が歩いてきた方向を、軽く親指で示す。
「ちょうど俺も教室向かってたとこだし。行こうぜ、一緒に」
「……相変わらず、なんだな」
音音の声は、乾いた細い糸のようだった。広い廊下にぽつりと落ち、すぐに空気へ溶けていく。
「僕のことなんか、もう気にしてないんだと思ってた。誰にでも平等に接して、気にかけて……それって、元生徒会長の持ち味みたいなもの?」
その言葉が胸の奥に触れた瞬間、天人のどこかがズキリと疼いた。
「そういうわけじゃ――」
「今さら、話しかけてくるなよ」
ピタリと、空気が変わった。
音音がゆっくりと顔を上げる。帽子の鍔の陰から、暗がりを裂くように、その眼差しが天人を真っ直ぐ射抜いた。
細いのに、どこか刃のような光。逃げ場のない透明さが、天人の胸をひやりと撫でる。
そして――。
「この偽善者野郎」
吐き捨てた声は、軽く震えていた。怒りか、諦めか、あるいはもっと別の何か。
廊下の静けさの中でその一言だけが鋭く響き、天人の心臓の奥深くに突き刺さる。
思わず、息が詰まった。
┈┈┈┈┈┈┈ ❁ ❁ ❁ ┈┈┈┈┈┈┈┈
音音が、木の床の軋む廊下を角の先へと消えていく。その背中が見えなくなるまで――俺は、ただ立ち尽くしていた。
まるで、自分だけが時間の流れから取り残されたみたいに。
足は地面に縫いとめられ、呼吸の仕方さえ忘れていたのかもしれない。窓を揺らす風がカタカタと硝子を叩く音だけが、遠い世界の出来事のように響いていた。他には何も――何ひとつ、耳に入ってこなかった。
……誰だっただろう。
最近、同じ言葉を浴びせられた記憶が、ぼんやりと頭の奥で手を伸ばしている。
『偽善者野郎』――。
たしかに、誰かもそう言った。俺は長く、深く息を吐き出した。
…………あっ。
突如、稲妻のような激痛が頭の中心を走った。天人は思わず額――前頭葉のあたりを両手で押さえる。
「やば……」
いつもの鈍い頭痛じゃない。
頭蓋が内側から割れるような、鋭く暴れる痛み。朝から調子がおかしいのは分かっていたが、これは明らかに異常だ。
――こんな痛み、源郎の力を継いでからは一度もなかった。
放課後、あいつに聞こう。源郎なら、何か知っているかもしれない。そう思った瞬間、少しだけ足元の現実に重さが戻ってくる。俺はようやく、石のように固まっていた足を前へと動かした。
無言のまま振り返り、自分の教室へ向かって歩き出す。
「ちょっとまったぁああああ!」
そのとき、背後から景色を突き破るような甲高い声が響き――。
ドンッ、と。
俺の背中に、何かが勢いよくぶつかった。
……今度は、なんだよ。
呆れを滲ませつつ振り返った俺の目に飛び込んできたのは――さっき別れたばかりの音音だった。
ただ、その顔つきは先ほどとはまるで違う。
何かから必死に逃げてきた小動物のように、息が荒く、肩が上下している。帽子の隙間から覗く瞳は怯えで微かに揺れ、助けを乞うように俺を見つめていた。
「音音……お前……」
掴まれた俺の服に、ぎゅ、と指が食い込む。布地越しに伝わる指先の震えが、ただ事ではないと告げている。
「もしもーし。逃げないでくれますー……って、あれれ? 非者がいるのかー?」
背後から、不気味な鼻歌のような声が響き、空気が冷えた。
音音が走ってきた廊下の奥――そこに一人の生徒が立っている。制服はこの学校のもの。だが見覚えはまったくない。1つか2 つ年上だろうか、茶髪の青年で、背筋の伸びた体つき。人懐っこいようでどこか歪んだ笑み。目元と口元がちぐはぐに釣り上がっている。
視線を落とすと、学ランのバッジが青。
やはり上級生だ。
「非者……じゃなさそうですねえ」
青年はぶつぶつと言葉を転がしながら、こちらを観察するように目を細める。その横には――輪郭の薄い、人の形だけを残した女の影。
空気に滲むように立つその存在が、明らかに現実のものではなかった。
“非者”が何なのかも、
その透けた女が何者なのかも、
まったく分からない。
「君……もしかして……」
青年が口を開いた。その瞬間、俺は全神経で視た。
一瞬でも、動きを止めるために。
そして、その刹那の隙を利用し、音音の手を掴んで駆け出した。
何が起こっているのか、まだ分からない。
けれど――。
このままでは、まずい。
突男に遭遇したときと同じ。心臓の底で、原始的な恐怖が警鐘を鳴らしていた。
「逃がさないよ。僕の野焼からは、逃れられないよ」
「……!」
言葉を聞く間もなく、背後から強烈な力が襟を掴んだ。引き戻され、勢いのまま床へ叩きつけられる。
「いって……っ!」
尻に鋭い衝撃が走り、呼吸が乱れる。
くそ……たしかに止めたはずだろ……!
横を見ると、音音も床に崩れ落ちていた。その視線の先――そこには、ぽっかりと口を開けた闇が揺らいでいる。
「音音、逃げろっ!」
叫ぶ。
だが、届いているのかどうか……音音はただ、その闇に縫いつけられたように動かない。
くそっ……!
俺は身体を起こし、音音の軽い体を抱え上げると、廊下の端へと引きずった。距離を確保したまま、敵のほうへ鋭く睨み返す。
ズキズキと頭痛が広がる。
さっきとは比べものにならないほどの痛みが、頭蓋の内側で暴れ回る。吐き気まで込み上げてくるが、なんとか堪えて目を細めた。
……それにしても。
天人は周囲をキョロキョロと見回した。
廊下。教室。窓の外――逃げられる場所を、探す。
なのに――。
なんでこんな大騒ぎなのに、誰も気づかねぇんだよ。
俺の目には、教室の中で授業を受ける生徒たちの姿も、教壇に立つ教師の輪郭も視えている。
なのに、彼らは誰一人こちらを見ようとしない。
窓の外では風が枯葉を舞い散らせているのに――この場だけが、世界から切り離されているみたいだった。
「異空間」と、そいつは爽やかな声で言った。
首をかしげながら、ゆっくりと、だが確実に距離を詰めてくる。隣には透けた女。彼女は少年の手に引かれるまま、無言で付いてくる。
「僕が作る結界の空間はね、その場しのぎの目くらましなんかじゃない。異空間そのものなんだよ。だから、僕の結界内にいる限り、周囲の人間が僕らを認識することはできない。もちろん、助けも来ない」
……結界。
ってことは、こいつは陰陽師か。
この学校に通ってるってことは、西の――なんだったか……まぁいい。
あの御三家の連中じゃないなら、まだマシってもんだ。
「ちょっと待て。俺は東佰乃の同級生で――こいつは、俺の友達だ」
「……友達、じゃない」
音音が小さく呟くのを、俺は軽く手で制して押し黙らせた。今は言葉の順番より、守るべきものがある。
「なんで襲う? 陰陽師なら――どうして――――」
「どうして?」
彼は俺の言葉を途中で切り捨て、鼻で笑った。その一歩一歩が、まるで時間を引き延ばしたようにゆっくりと迫る。嫌な汗が背中を伝い、肌を冷やした。
「僕はね、半妖という存在が、この世でいちばん嫌いなんだよ。どんな妖より、どんな亡霊よりも、ずっと――許せない」
その声は淡々としているのに、形のない黒い毒だけが濃く滲んでいた。
「だから、この夏にこの町で起きたことも絶対に許さない。その力を得て、何事もなかったように日常を生きてる君たちのことも理解できない。征爾さんの子供だろうと関係ない。佰乃ちゃんも同罪。陰陽道の規約違反者なんだからね?」
――ぐっ……。
天人は、奥歯をきしむほど噛みしめた。
彼から滲み出るのは嫌悪なんて生易しいものではない。それはもっと深く、冷たく、長い年月をかけて熟成された呪いに近い憎悪だ。
まるで――。
“半妖”という存在そのものを、この世から根絶したいと願っているかのような暗い闇。
「そもそも、僕は君に用があって来たわけじゃないんだ」
彼はゆっくりと目線を俺の肩越しへ移す。
その視線の先――音音。
俺は条件反射で一歩前に踏み出し、音音を背中に隠した。……勝ち目のない戦いを前に、盾になっている気がした。
彼の隣にいる透けた女。あれは生者の匂いがしない。ただそこに立っているだけで、空気がひずむような異様さがあった。青年はその女をちらりと見て、大切なものを包むような仕草で、そっと抱き寄せた。
その様子は――。
愛情とも執着とも違う。
「今、君が庇ってるその友達さん。彼は――祓わなければならない」
「……祓う?」
天人は息を呑んだ。
彼の瞳が――ゆっくりと、血のように赤く染まってゆく。その色が深みに達したとき、目尻から一滴の赤い涙がこぼれ、頬を伝い、ぽたりと落ちた。
ポチャン――。
床に……いや、水面に水滴が落ちるような音。
いつの間にか、俺たちの足元には薄い膜のような水が広がっていた。
直後、彼の足元から真紅の波紋が静かに広がり、教室の床を舐めるようにして一面を染めていく。
――ズキリ。
脳天を釘で貫かれたような痛みが襲った。最後の一手を突き立てるかのように、痛みは瞬く間に頭から全身へ駆け抜ける。
視界が傾ぐ。
音が遠くへ引き剝がされていく。
平衡感覚が崩れ、身体が前へ倒れ込む。
ただ、落ちていく。世界のほうが離れていく。
その刹那。
視界の隅に、音音の顔が映った。
(――ああ……)
その表情だけは、流れ去るビルの景色のように歪んでいく世界の中で、なぜか鮮明に、焼きつくように残った。
暗闇に沈む直前、最後に掴んだのは――彼の怯えと、痛みと、何か言いたげに震えたままの瞳だった。
ご感想等お待ちしております☺︎




