ヴァイスの沈黙
第一地区の仮拠点に、いつもの会議の空気はなかった。
広間の窓は閉じられ、外の喧騒も遠い。
机の上には、ギルドから運ばれてきた報告書がそのまま置かれている。
だが、そこに書かれた文字よりも重いものが、すでにこの場には満ちていた。
“最初の穴”
“第120階層は、見られた”
“これ以上、深層へ触れるなら、王を出せ”
誰も軽く扱えない言葉だった。
ラルラゴは黙っている。
ノアは目を伏せたまま、机の端へ指を置いていた。
リュメリアは腕を組み、珍しく最初から茶化す気配がない。
ザルクスも、今日は椅子へだらりともたれず、浅く腰をかけている。
アヴニールは窓際ではなく、最初から席に着いていた。
リオは机の正面に立ち、報告をもう一度読み返すでもなく、ただその紙を見ていた。
そして、その場の誰よりも先に顔色を変えたのは、ヴァイスだった。
「……その言葉」
「まさか」
その一言から、もう時間が少し止まっている。
ヴァイスは、目を伏せたままだった。
静かだ。
だが、それは普段の静けさとは違う。
リオは、その横顔をじっと見ていた。
ヴァイスは元から、取り乱すタイプではない。
表情を崩すことも少ない。
だからこそ、今の沈黙が異常だとわかる。
「ヴァイス」
リオが低く呼ぶ。
ヴァイスの指先が、わずかに動く。
「お前、何を知ってる」
部屋の空気が、さらに静まった。
タオーですら、いまはひと言も挟まない。
レインも、ミアも、グラーも、ただヴァイスを見ている。
ヴァイスは、すぐには顔を上げなかった。
やがて、小さく息を吸う。
「……まだ」
「“知っている”とは言えません」
それは前と同じ返答だった。
だが、今度はそこで終わらなかった。
「ですが」
ヴァイスはゆっくり顔を上げる。
「わたしがいた、あの迷宮」
「第一ダンジョン」
「あれは、最初から“ただの迷宮”ではありませんでした」
ザルクスが小さく眉を動かす。
「ほう」
ヴァイスは続ける。
「当時のわたしには、理解できていませんでした」
「閉じ込められているのだと、そう思っていた」
「だから、見えるものしか見ていなかった」
「でも違ったのか」
と、レイン。
「はい」
ヴァイスは頷く。
「違ったのでしょう」
「いま思えば、あそこには“層”ではないものが混ざっていた」
「層ではない?」
リュメリアが静かに問う。
「つまり、階層構造とは別の何かが?」
「ええ」
ヴァイスは小さく頷く。
「迷宮の中にある“段”や“深さ”とは別の、もっと……」
一度言葉を探す。
「領域のようなものです」
ノアが目を開く。
「領域」
「はい」
ヴァイスの声は静かだ。
「下へ進めば深い、というだけではない」
「ある地点を越えた時、迷宮の空気そのものが変わる場所がある」
「階層が変わるのではなく」
「迷宮の“側”が変わるような感覚でした」
リオの目が細くなる。
第120階層。
その数字に意味があるのではない。
そこへ到達したことによって、“別の側”へ触れた可能性がある。
「じゃあ」
と、ミアが小さく言う。
「120階層から来たんじゃないんだね」
ヴァイスは、まっすぐミアを見た。
「その可能性は低いと思います」
「少なくとも、あれは“120階層にいた存在”というより」
「120階層に到達したことで、こちらを認識した側のものです」
部屋の空気が、また少し冷える。
タオーが思わず腕をさする。
「それ、嫌だな……」
「めちゃくちゃ嫌なんだけど」
「同感ね」
と、グラー。
ザルクスがそこで低く笑った。
「でも、嫌だからってやめるわけにもいかねえんだろ?」
誰も答えない。
答えなくても、その通りだからだ。
リオはヴァイスへ目を戻す。
「その使者の気配」
「お前には、どう見えた」
ヴァイスは、しばらく迷ったように沈黙した。
それから、正直に言った。
「……懐かしい、とは思いませんでした」
「ですが、遠いとも思わなかった」
リオが眉を寄せる。
「それって」
「わたしのいた迷宮の“延長”にあるものではない」
「でも、無関係でもない」
ヴァイスは静かに言う。
「似ているんです」
「迷宮の一部でありながら、迷宮の生き物ではない」
「そんな気配に」
ノアがそこで低く問う。
「迷宮の意思、のようなものですか」
ヴァイスはすぐには頷かない。
「そこまでは言えません」
「ですが」
「少なくとも“こちら側の基準で測るべき存在”ではないと思います」
ラルラゴが、そこで初めて口を開いた。
「使者は何をしに来たと思う」
それは、誰へともつかない問いだった。
だが、ヴァイスが答えた。
「通知です」
リオも、同じ言葉を思っていた。
ギルドでそいつは、そう言った。
通知。
脅しではない。
交渉でもない。
ただ、“ここから先は国として答えろ”という一線。
ヴァイスは続ける。
「敵意で来たわけではありません」
「ですが、好意でもありません」
「向こうにとって必要だから、こちらへ来た」
「そういう感じでした」
リュメリアが小さく息を吐く。
「いちばん面倒なやつね」
「ええ」
ヴァイスも同意する。
「しかも、“最初の穴”と言いました」
「それを第一ダンジョンのことだと知っている」
「なら、こちらの到達状況も、ある程度把握しているのでしょう」
レインが腕を組んだ。
「向こうから見えてるってことか」
「見えてる」
と、ヴァイス。
「あるいは、見ようとすれば届く」
「そういう線へ、私たちが踏み込んだのだと思います」
ザルクスがそこで机を軽く叩いた。
「いいじゃねえか」
「ようやく向こうも無視できなくなったってことだろ」
「雑に喜ばないで」
と、リュメリア。
「こっちは“向こう”が何なのかすらまだ曖昧なのよ」
「でもゼロじゃなくなった」
ザルクスは肩をすくめる。
「今までは闇雲だった」
「今は、闇雲な先に“返事”が来た」
「それだけでも進んでる」
意外にも、その言葉を否定したのはラルラゴではなかった。
ノアでも、リュメリアでもない。
アヴニールだった。
「そうね」
「進んではいるわ」
全員の視線がそちらへ向く。
アヴニールは頬杖をついたまま、静かにヴァイスを見ていた。
「でも、だからこそ」
「ヴァイスが黙っていた理由も、わかる」
ヴァイスのまつげがわずかに揺れる。
アヴニールの声は、やわらかい。
でも、逃がさない声でもある。
「あなた、自分の中で整理がついていないんでしょう」
「知っているとは言えない」
「でも、何も知らないとも言えない」
「だから、一番つらいところに立ってる」
ヴァイスは、しばらく何も言わなかった。
そして、小さく頷く。
「……はい」
その一言だけで十分だった。
それがいまのヴァイスの正確な位置なのだと、全員が理解したからだ。
リオは、そこで少しだけ表情をやわらげた。
「じゃあ、今のお前に無理に全部話せとは言わない」
ヴァイスが目を上げる。
リオは続ける。
「でも、次にその使者と向き合う時」
「お前にいてほしい」
「わからないなら、わからないままでいい」
「でも、感じるものがあるなら、それはたぶん必要だ」
沈黙。
ヴァイスは、その言葉をまっすぐ受け取っていた。
やがて、静かに頭を下げる。
「……承知しました」
タオーがそこでようやく、我慢していた息を吐く。
「はあ~~~……」
「なんか、ずっと息止めてた気がする」
「うるさい」
と、グラー。
「でも、ちょっとわかる」
ミアは、ずっと考え込むような顔をしていた。
「120階層まで行ったから見られたんじゃなくて」
「120階層に“届いたこと”が向こうへ伝わった」
「そういう感じなんだね」
「ええ」
ヴァイスは頷く。
「だから、次に深く触れれば」
「次はもっとはっきり返ってくるかもしれません」
リュメリアが低く言う。
「なら、慎重に行くべきね」
「でも、止まるべきではない」
ラルラゴが短く頷いた。
「その通りだ」
リオは、机の上の報告書を手に取る。
ギルドへ来た使者。
“最初の穴”
“王を出せ”
まだ何も解明されていない。
でも、ほんの少しだけ輪郭が見えた。
ダンジョンは、ただの資源でも災害でもない。
深層へ触れるということは、向こう側からも触れ返されることだ。
「……次だな」
と、リオ。
「ええ」
ノアが頷く。
「今度は、こちらから確認しに行きましょう」
レインが目を上げる。
「第一ダンジョンか」
「そう」
リオは静かに答える。
「第120階層の先触れが来たなら」
「今度は、こっちが“その先”を見に行く」
その言葉に、空気がまた少しだけ引き締まる。
ヴァイスの沈黙は、完全には解けていない。
でも、ただの沈黙ではなくなった。
それは、迷宮の向こう側へ続く最初の証言になっていた。
そしてアストラ・エクリプス王国は、また一歩だけ、
まだ誰も知らないダンジョンの真実へ近づき始めていた。




