術鬼、喰らう
「見てる」
その一言だけを背に受けて、レインはもう振り返らなかった。
目の前では、潰したはずの黒い魔害の残滓が、まだ地面の上でじわじわと蠢いている。
消えたわけじゃない。
ただ、形を崩された。
流れを変えられた。
それだけだ。
「……なるほどな」
レインは、右腕を見下ろした。
黒い文様が、まだ薄く残っている。
首筋から肩、肘の内側、手の甲へと、焼き印みたいに線が走っていた。
痛みはある。
だが、嫌な痛みじゃない。
使った痛みだ。
次の瞬間、左右から魔虫が二体、同時に飛び込んできた。
低い。
速い。
だが、さっきより見える。
レインは前へ出た。
避けるのではなく、踏み込む。
「っ!」
右腕の手刀が一閃する。
一体目の胴が、節ごとずれる。
だが二体目はその上を跳び越え、頭上から鎌脚を振り下ろしてきた。
そこで、背後の影が揺れる。
一本。
二本。
三本。
そのうち二本が一瞬だけ実体を持つ。
右後方の影腕が魔虫の脚を掴み、左後方の影腕が頭を押さえつける。
そこへ本体の左拳が叩き込まれた。
ぐしゃっ。
魔虫の頭殻が砕け、黒い液が散る。
「うわ……」
タオーが思わず顔をしかめる。
「今の、腕三本出てなかった!?」
「二本半くらいね」
と、グラー。
「半って何!?」
ノアは、静かに目を細めていた。
「不安定ですが、出力は上がっています」
「影から実体への移行が早い」
「順応が予想以上です」
リュメリアは腕を組んだまま言う。
「でもまだ粗い」
「余剰が多いわ」
「力を出してるんじゃなくて、力に出させてもらってる段階ね」
リオは、その言葉に小さく頷いた。
その通りだった。
レインは今、術鬼を“使いこなしている”わけじゃない。
術鬼が勝手に答えを出し始めているのへ、必死で追いついている段階だ。
だが、それがいい。
最初から綺麗にまとまる力じゃない。
怪神族の適応は、いつだって実戦の中で骨と肉へ刻まれていく。
「来るよ」
ミアが、小さく言った。
その声と同時に、森の奥の暗がりが不自然に揺れた。
今度は魔獣だけではない。
四足の獣の群れの奥から、もっと大きいものが出てくる。
節の多い脚。
硬質の前殻。
だが頭部は獣に近く、顎だけが異様に長い。
虫と獣の中間。
あるいは、魔害が両方へ噛みついて混ぜたような、不快な姿。
ヴァイスが低く言う。
「……混ざってます」
「魔虫と魔獣が、魔害を介して歪んでいる」
「面倒なやつね」
と、リュメリア。
タオーが青ざめる。
「な、なんだあれ……」
「気持ち悪……」
グラーの声も少しだけ硬い。
その異形が、ゆっくりとレインを見た。
眼球らしいものはない。
だが、見ていると分かる。
そしてその周囲の黒い靄が、まるで息をするみたいに膨らんだ。
「……親玉か?」
レインが低く呟く。
ノアが首を振る。
「親玉ではありません」
「ですが、群れの中核です」
「放置すれば、この一帯の害をさらに増幅させます」
「よし」
レインは短く吐いた。
「じゃあ、あれからだ」
その瞬間、異形が吠えた。
音というより、魔気の濁流だった。
吠え声と同時に地面を這う魔害が一斉に盛り上がり、周囲の魔虫と魔獣がさらに凶暴化する。
「っ……!」
レインの足元へ、黒い靄が巻きついた。
今度はさっきより濃い。
重い。
ただの害ではない。
意志の断片みたいなものすら混じっている。
「レイン!」
リオが声を飛ばす。
「まだ行ける!」
レインは返す。
「たぶん!」
「たぶん、か」
ザルクスなら笑っていたところだが、ここにいない。
代わりにリュメリアが冷たく言う。
「その“たぶん”が崩れたら、すぐ言いなさい」
「わかってる!」
そう返した瞬間、異形が来た。
速い。
巨体に似合わぬ加速だった。
四本の脚で地面を蹴ったかと思うと、次の瞬間にはもうレインの間合いへ入っている。
長い顎が横薙ぎに振るわれ、後ろ脚が同時に地面を抉る。
レインは右へずれ、左腕を硬化させて受ける。
がぎんッ!
鈍い音。
骨が軋む。
だが折れない。
「硬っ……!」
レインが歯を食いしばる。
受けられた。
だが、受けただけだ。
異形は止まらず、その体表から黒い靄を噴き出した。
顎の奥にも、節の隙間にも、魔害が満ちている。
「なるほど」
レインの目が細くなる。
「お前、殴るだけじゃ駄目なやつか」
背後の影が、今度は四本に増えた。
うち二本が実体化する。
一本が顎を押さえ、一本が脚へ絡みつき、残り二本が背中の後ろで揺れたままタイミングを待つ。
「術鬼――」
レインの声が、少しだけ低くなる。
自分で名を呼んだ瞬間、体の奥が応える。
ただ腕を増やすだけじゃない。
ただ硬くなるだけでもない。
理解したものを、戦い方へ変える。
さっき魔害へ触れた。
構造を少しだけ読んだ。
なら、この異形の中で魔害がどう噛んでいるかも、少しならわかるはずだ。
「見せろよ」
レインが低く言う。
「お前、どこで繋がってんだ」
異形が、また吠える。
その吠えに合わせて靄が膨らむ。
胸。
喉。
いや、違う。
レインの目が、一点で止まった。
「そこか」
腹の奥。
魔害が“核”のように集まっている一点。
獣でも虫でもない、害の中心。
レインは一歩踏み込んだ。
異形の顎が振り下ろされる。
だが今度は避けない。
左腕で受ける。
右腕の文様が一気に濃くなる。
背中の影腕四本が、一斉に前へ伸びた。
一本が顎を押し上げる。
一本が首の付け根を押さえる。
一本が前脚の関節を外側へひねる。
最後の一本が、腹部へ食い込む。
「う、おおおおっ!!」
レインの本体の右腕が、異形の腹へ突き刺さる。
拳じゃない。
刃でもない。
術鬼で変質した腕そのものが、肉と魔害の“つなぎ目”を読むための術式になっていた。
異形が暴れる。
地面が抉れる。
黒い靄が噴き上がる。
タオーが叫ぶ。
「レイン!!」
「動くな!」
と、グラーが押さえる。
ミアは両手を胸の前でぎゅっと握っていた。
「……いける」
「でも、ギリギリ」
ヴァイスも一歩だけ前へ出かける。
だが、リオが手で制した。
「まだ」
短く、だがはっきりと。
リオの声は揺れていない。
見ている。
信じている。
でも、危なくなればすぐ動くつもりの声でもあった。
レインは、その背を感じていた。
一人ではある。
だが、完全な孤独ではない。
なら、行ける。
「術鬼――喰解」
その言葉は、半ば本能でこぼれた。
次の瞬間、右腕の文様が腹の中へ広がる。
黒い魔害の核が、レインの術式に“読まれる”。
理解され、噛み砕かれ、組み方を崩される。
異形の体が、内側から大きく痙攣した。
「――ッ!?」
声にならない吠え。
腹の奥の核が、ぐしゃりと潰れる。
それと同時に、全身を覆っていた魔害の靄が一斉に薄れた。
顎の硬度が落ちる。
脚の節がぶれる。
虫と獣を無理やり繋いでいた“害”が剥がれ始める。
「今だ」
レインが自分へ言うように呟く。
影腕が、残り全部を引き裂いた。
異形の体が地面へ崩れ落ちる。
黒い靄が、さっきまでと違って広がらない。
核を喰い解かれたことで、害としての連なりを失ったのだ。
静寂が、一拍だけ落ちる。
それから、森の空気が変わった。
「……薄くなった」
ミアが目を見開く。
「ええ」
ヴァイスも頷く。
「周囲の魔害が連動していました」
「今ので、一部の流れが切れました」
ノアが、はっきりと告げる。
「成功です」
「少なくとも、術鬼は魔害へ干渉できます」
レインは、その場で片膝をついた。
息が荒い。
右腕の文様が、まだ濃いままだ。
背中の影腕も完全には消えていない。
だが、顔は上がっていた。
「……なるほどな」
リオが、そこでようやく一歩だけ前へ出る。
「大丈夫か」
レインは苦笑した。
「聞くの遅えよ」
「でも、まだ大丈夫」
リュメリアが近づきはしないまま言う。
「今のは悪くなかったわ」
「特に最後」
「壊したんじゃない」
「読んで、ほどいて、落とした」
「褒めてる?」
と、レイン。
「半分だけ」
「出たよ、それ」
騎士団たちも、ここでようやくざわめき始める。
ゼルクは低く呟いた。
「……たしかに見届ける価値がある」
サイラスも、目を逸らさずに言う。
「怪神族と接続の組み合わせ」
「予想以上だ」
タオーはもう我慢できなかった。
「レインすげええええ!!!」
「今の見た!?」
「食った!」
「なんか食ってた!」
「喰解だ」
と、レイン。
「食ったわけじゃない」
「いや、見た目はだいぶ食ってたぞ」
と、グラー。
そのやり取りに、少しだけ笑いが起きる。
だが、次の瞬間。
ノアの目が森のさらに奥へ向いた。
「……まだ終わっていません」
その一言で、場がまた締まる。
レインも、ゆっくり立ち上がった。
遠く。
森のさらに深い場所で、別の何かが蠢いている。
さっきの異形より、もっと大きい気配。
もっと古くて、もっと土地に近い“害の芯”みたいなものが、まだ奥に残っていた。
リオが低く言う。
「レイン」
「ん」
「次で、たぶん本命だ」
レインは、右腕を一度握ってから開いた。
文様はまだ消えない。
むしろ、今の実戦を経て少しだけ馴染んだように見える。
「……いいよ」
その声は、さっきより落ち着いていた。
「やっと、術鬼の使い方が見えてきた」
第二地区の外。
森の入口での初戦は終わった。
だが、本当の“外”はまだその先に広がっている。




