オルヴィス・ノヴァ最後のメンバー。ずっといたひと
ラルラゴが扉の方へ視線を向けたまま、短く言う。
「……ちょうどいい」
リオは、まだ現実世界の空気に馴染みきれていない身体のまま振り返った。
足音は、静かだった。
重くもない。
軽くもない。
なのに、その音が一歩近づくごとに、部屋の空気だけがすこし深くなる。
扉が開く。
そこに立っていたのは――
夢の5年の中で、何度も見たはずの女だった。
長い髪。
色は黒とも銀とも言い切れない、夜の終わりみたいな深い色。
前へ流れればやわらかく見えるのに、背へ落ちると刃のようにまっすぐだった。
大人の女だ。
若すぎない。
けれど老いてもいない。
静かに立っているだけで、場が「この人を中心に測り直される」ような、不思議な威圧がある。
服も派手ではない。
だが質感だけで分かる。
ただの旅装や貴族の装いではない。
戦える者の衣だ。
それでいて、どこか儀礼めいても見える。
そして何より――
その目だった。
冷たいわけじゃない。
でも甘くもない。
多くのものを見てきた目。
多くを切り捨ててきた目。
そのくせ、リオを見る瞬間だけ、そこにわずかな熱が灯る。
リオの喉が、音を立てた。
「……あんた」
知らない。
はずなのに。
知っている。
ラルラゴとの手合わせの時。
少し離れた後方で、腕を組んで見ていた。
1.5万の魔獣が押し寄せた時、小さな城の外で、一人だけ騒がず空を見ていた。
騎士団たちの後ろにもいた。
土地開発の場にもいた。
ザルクスと聖堂で話していた時でさえ、後ろの方で待っていた。
会話はしていない。
ろくに、言葉すら交わしていない。
なのにずっと、いた。
女は、しばらく何も言わずにリオを見た。
その沈黙に、見覚えがある。
夢の中でも何度か感じた、“あの人がそこにいる”という圧。
やがて、彼女はほんの少しだけ目を細めた。
「……ろくに話せなかったけれど」
その声が落ちた瞬間、リオの胸の奥が熱を持つ。
低すぎない。
高すぎない。
よく通るのに、妙に近い声だった。
女は、部屋の中へ一歩入ってくる。
ラルラゴの横まで来ると、そこでようやく、はっきりと言った。
「リオ、頑張ったわね」
一拍。
「えらいわ」
さらに、一歩だけ近づく。
「それでこそ、私のリオよ」
リオは、その場で完全に言葉を失った。
胸の奥で、何かが懐かしさに似た痛みを立てる。
知らないはずの相手に、そんなふうに言われる理由が分からない。
でも、不思議と嫌ではない。
むしろ――ようやく、そこへ辿り着いたような感覚さえあった。
「……ずっと」
リオはやっと絞り出す。
「ずっと、いたのか」
女は静かに頷く。
「ああ」
「いたわ」
「ずっと見ていた」
ラルラゴは、そのやり取りを邪魔しない。
ただ黙って、二人の間に流れるものを見ている。
リオは、目の前の女から視線を外せなかった。
「なんで……」
「なんで、夢の中では話しかけてくれなかったんだ」
女の口元が、ほんの少しだけ動く。
笑ったわけではない。
だが、痛みを知っている者だけが浮かべる、小さな苦さだった。
「事情があったの」
「私が強く干渉しすぎると、あっちの世界の流れが変わる可能性があった」
「あなたの成長も、接続の時期も、全部ね」
「……じゃあ、見てるだけだったのか」
「そう」
彼女はすぐに答えた。
「見ているしか、できなかった」
その言い方には、諦めより悔しさが滲んでいた。
リオは、その一言で逆に分かってしまう。
この人は、本当にただ“見守っていた”んじゃない。
本当は声をかけたかった。
近づきたかった。
でも、それをしなかった。
できなかったのではなく、しないと決めて耐えたのだ。
「……そうか」
それだけしか言えなかった。
女は、そこで初めて少しやわらかくなる。
「話せば長くなるわ」
「だから、それはまた」
「夢記録の世界へ戻った時に、ゆっくり話しましょう」
リオの眉がわずかに寄る。
「戻れるのか」
ラルラゴがそこで初めて口を開く。
「戻る」
「お前はいま、二つの世界の間にいる」
「片方だけで終わる段階は、もう過ぎた」
女も頷いた。
「だから、急がなくていい」
「でも、今こうして会えたことには意味がある」
リオは、少しだけ息を吐いた。
現実世界。
1ヶ月半。
夢では5年。
その両方が本当で、その両方が今の自分へ繋がっている。
そしてこの女もまた、その五年を知っている。
「……名前」
リオが言う。
「聞いていいか」
女は、まっすぐにリオを見た。
そして静かに答える。
「アヴニール」
その名は、妙にすんなりと胸へ入った。
初めて聞くはずなのに、どこかで知っていた気がする。
あるいは、その名に至るまでの気配だけを、ずっと感じていたのかもしれない。
「アヴニール……」
「そう」
彼女は短く返す。
「あなたが夢で過ごした五年を、私も知っている」
「じゃあ」
リオは少しだけ目を細める。
「俺が何を見て」
「何を耐えて」
「何を取り戻し始めたのかも」
「全部じゃない」
アヴニールは言う。
「でも、知ってる」
「あなたが立ち止まらなかったことも」
「途中で、何度も迷ったことも」
「それでも前へ行ったことも」
その言葉に、リオの胸がまた熱くなる。
ザルクスの言葉は、からかい混じりだ。
ラルラゴの言葉は、重くてまっすぐだ。
でもアヴニールのそれは、どこか違った。
“知っている者”の声だった。
ずっと近くで見ていた者の声。
「……なんか」
リオが苦笑する。
「今日は、知らないことばっかり知る日だな」
「まだあるわよ」
アヴニールはあっさり言った。
「え」
「でも今は、そこまでにしておいてあげる」
「助かる」
「助かってる顔には見えないけど」
その返しに、リオは少しだけ笑った。
その笑いを見て、アヴニールの目元もわずかにゆるむ。
けれど次の瞬間には、もういつもの静かな顔へ戻っていた。
ラルラゴが低く言う。
「お前が夢で過ごした五年は」
「俺たち全員の中に、違う角度で残っている」
アヴニールがその先を引き継ぐ。
「だから、あなたが思っている以上に」
「私たちは、もう“夢の中のお前”を知ってるの」
「……こわいこと言うな」
「安心しなさい」
アヴニールは少しだけ首を傾ける。
「少なくとも私は」
「今のあなたも、ちゃんと好きよ」
リオが一瞬、固まる。
「……今、それ普通に言う?」
「言うわ」
「だって事実だもの」
ラルラゴは何も言わない。
ただ、口元だけがほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
部屋の空気が、すこしだけやわらぐ。
現実世界で目を覚まし、ラルラゴと話し、そして今、最後の一人とも再会した。
夢の五年の中で、ずっと近くにいたのに話せなかった人。
現実でようやく言葉を交わせた人。
アヴニールは、扉の前へ戻るでもなく、その場に静かに立ったまま言う。
「まだ時間はある」
「でも、そんなに多くはない」
リオが目を上げる。
「何の時間だ」
アヴニールは答えない。
代わりに、ラルラゴを見る。
ラルラゴもまた、短く頷くだけ。
そのやり取りだけで、また次の話があるのだと分かった。
アヴニールは最後にもう一度だけリオを見た。
「動けるようになったなら、次は現実側の話をしましょう」
「夢だけじゃない」
「こっちの世界でも、待っているものがある」
リオは、ゆっくり頷いた。
夢の五年は終わっていない。
現実の1ヶ月半もまた、始まったばかりだ。
そしてその両方を知る者が、今ここに揃い始めている。
アヴニール。
最後の一人。
ずっといた人。
その再会は、派手ではなかった。
だが、これまでのどの戦いよりも、静かに深くリオの中へ残っていった。




