こぼれた名
第二区の医務室は、夜になると妙に静かだった。
昼のあいだは怪我人や働き手たちの出入りで慌ただしい。
だが今は、薄い灯りと薬草の匂い、それから寝台の軋む音しかない。
その中央の寝台に、レインは寝かされていた。
顔色は悪い。
汗はもうだいぶ引いたが、まだ目を覚まさない。
脈はある。呼吸もある。
けれど、身体の奥の方だけが、まだ何かを消耗し続けているみたいだった。
リオは寝台の横に立ったまま、じっとレインを見ている。
「……大丈夫、なんだよね」
ノアの光が、静かにレインの胸元を照らした。
「命に別状はございません」
「ですが、消耗の質が少し特殊です」
「身体より、内側の方を大きく使ってしまったのでしょう」
ヴァルが壁にもたれながら言う。
「無茶な《接続》をしたんだ」
「倒れて当然だな」
「当然、で済ませるには心臓に悪いよ」
と、リオ。
ユリウスは少し離れた机で記録板を抱えたまま、珍しく筆を止めていた。
「……あの場で起きたことを、私はまだ正しく分類できていません」
「分類できないものを見た日は、だいたいそういう顔になる」
と、ヴァル。
「慰めになっていません」
そこへ、遅れてミアとヴァイスが入ってきた。
二人とも、さっきよりは落ち着いている。
けれど、目元はまだ赤い。
医務室の空気が、そこで少しだけ変わった。
リオが振り向く。
「ミア」
「ヴァイス」
ミアは、寝台のレインを見るなり唇を噛んだ。
「……ごめん」
「わたし、止められなかった」
「それは違う」
リオはすぐ首を振る。
「悪いのは、たぶん一番勢いで繋いだレイン」
「聞こえてたら後で怒るからね、これ」
ヴァルが小さく笑う。
だが、誰も本気では笑えなかった。
リオは、今度は真っすぐ二人を見る。
「何が見えたの」
その問いは短かった。
でも、逃がさない問いだった。
ミアはすぐには答えられない。
指先がまだ少し震えている。
布を握るでもなく、自分の手をもう片方で押さえ込んでいた。
代わりに、ヴァイスが口を開いた。
「断片です」
その声は、いつもよりわずかに低かった。
「ですが、ただの映像ではありませんでした」
「血に近い」
「記憶より、もっと深く残っているものです」
リオが一歩近づく。
「具体的に」
ヴァイスは一度、目を伏せた。
「この娘から感じた“引っかかり”の理由が分かりました」
「わたくしが見たのは、知らぬ者の顔ではなかった」
そこで、ミアが小さく息を吸う。
「……女の人がいた」
全員の視線がミアへ向く。
ミアは、自分でもまだ整理できていない顔のまま、ぽつりぽつりと続けた。
「最初、知らない人だった」
「でも、ずっと……」
「ずっと、わたしを見てた」
「どう見てた?」
と、リオ。
ミアの喉が少し鳴る。
「大事なものを見るみたいに」
「失くしたくないものを見るみたいに」
「それで、すごく……あったかかった」
そこで、ミアの目がまた少し潤んだ。
「でも最後だけ、すごく苦しかった」
「走ってた」
「置いていくのに、置いていきたくなくて」
「ごめんね、ごめんねって……何度も」
医務室が、しんと静まる。
ヴァイスが静かに言った。
「ビニアです」
その名が落ちた瞬間、ミアの肩がびくりと震えた。
「……ビニア」
「はい」
ヴァイスはミアを見た。
「あなたの母君です」
リオが息を呑む。
「母親……?」
ミアの目が大きく開かれる。
「お母さん……?」
その声は、驚きよりも先に空白だった。
その名を、彼女はほとんど知らないまま育ってきたのだ。
ヴァイスは、慎重に言葉を選びながら続けた。
「わたくしは、遠い昔、この地である方に仕えておりました」
「その方は、わたくしにとって主であり、家族でもありました」
ヴァルも、今度は茶々を入れなかった。
「主には娘がおりました」
「その娘も成長し、やがて子を産みました」
「その子の名が、ビニアです」
ミアの瞳が揺れる。
「ビニア……」
「はい」
「わたくしは、主と、その娘と、ビニアと」
「この第一ダンジョンの土地で、長く共に暮らしておりました」
リオが低く聞く。
「じゃあ、ミアは」
ヴァイスははっきり頷いた。
「ビニアの娘」
「この地にいた一族の末裔です」
ミアは、その場で座り込みそうになるのを、ぎりぎりで堪えた。
知らないはずなのに、懐かしかった理由。
ヴァイスを見た瞬間から涙が出そうだった理由。
胸の奥が勝手に痛んだ理由。
全部、そこに繋がっていた。
だが、話はそこで終わらなかった。
ヴァイスの表情が、少しずつ暗くなる。
「主は、あまりに強すぎました」
「かつて、大規模な魔獣の群れをひとりで滅ぼしたことがある」
「国のため、土地のため」
「ですが、その残党は消えきっていなかった」
「復讐、か」
と、ヴァルが低く言う。
「はい」
ヴァイスは頷く。
「長い時間をかけ、残党は力を蓄えました」
「しかも、その中には知能の高い魔神が混ざっていた」
リオは拳を握る。
「それで、襲われた」
「ええ」
ヴァイスの声が、わずかに掠れる。
「主も、その娘も」
「……死にました」
沈黙。
「ですが、ビニアだけは違った」
「主は事前に、幼かったビニアを逃していたのです」
ミアの目から、また涙が落ちた。
逃がされた。
生き残った。
それが母。
ヴァイスは、さらに続ける。
「ビニアは遠い土地へ流れました」
「そこで生き延び、やがて子を授かった」
「それが、あなたです」
ミアが、かすかに首を振る。
「じゃあ……」
「お母さんは、生きてたの」
「少なくとも、その時は」
ヴァイスは答える。
「わたくしが見た断片では、そうでした」
ミアの口元が震える。
「幸せだったはずです」
「ですが、その後……崩れた」
今度はヴァイスの方が、一瞬だけ言葉に詰まった。
「魔神が、ビニアを探していたのです」
「主を殺した、あの残党の魔神が」
「長い歳月をかけて、とうとう見つけた」
「なんでそこまで……」
と、リオ。
「主への執着でしょう」
「あるいは、主の血への執念」
ヴァイスは言った。
「強い者の血を、憎み、欲し、消したかったのかもしれません」
ミアは、両手で口を押さえた。
そこから先は、彼女自身の中に流れ込んできた断片が強かった。
「……あった」
と、ミアは震える声で言った。
「紙……」
「手紙……」
リオが顔を上げる。
ミアは、涙で濡れたまま必死に言葉を繋いだ。
「置いていった」
「わたしを、孤児院の前に」
「それで……」
「手紙……残して……」
ヴァイスが、静かに頷く。
「置き手紙です」
「ビニアは、あなたを守るために置いていった」
ミアの唇が震える。
「なんて……書いてたの」
それは、誰に向けた問いでもなかった。
でも答えられるのは、今この場ではヴァイスしかいなかった。
ヴァイスは、目を閉じる。
「……断片ですが」
「確かに、見えました」
そして、ゆっくりと口にする。
「『ミアへ。ごめんね、お母さんは強くないからミアを守れなかった。一緒に過ごすことができなかった。勝手なママを許してなんて言わない。恨まれても仕方ないよね。でもね、これだけは本当、ミアを世界一愛してる。弱いママでごめんね。叶うなら、もし叶うのなら、またミアに会いたいな。会いに行くね。元気でね! ミア!』」
ミアは、その途中でもう耐えられなかった。
顔を覆って、声を殺して泣いた。
知らなかった。
でも、確かにそれは自分へ向けられたものだと分かる。
言葉が、まっすぐ胸に入ってくる。
リオは、ミアへすぐには触れなかった。
今はただ、そこに落ちる涙を止める権利が誰にもない気がした。
やがて、ヴァイスが次の真実を口にした。
「……わたくしも、死んだはずでした」
全員が、そちらを見る。
「主と共に、あの場で果てた」
「そのはずだった」
「でも生きてる」
と、リオ。
「ええ」
ヴァイスはゆっくり頷く。
「後に現れた、あの魔神が」
「わたくしを生かしたのです」
「どうやって?」
ユリウスが、思わず問いを挟んだ。
ヴァイスの目が、わずかに冷える。
「自らの肉を食わせました」
医務室の空気が凍る。
「は?」
と、リオ。
「強制的に」
「わたくしを、別のものへ進化させた」
「そして言ったのです」
「――お前の主人は死んだ。忘れろ。私と共に参れ、と」
ヴァルが、静かに息を吐いた。
「最低だな」
「はい」
ヴァイスは初めて、はっきりと感情を乗せた。
「あれは、最低の存在です」
「でも、お前は従わなかった」
と、リオ。
「従う前に」
ヴァイスは言う。
「ダンジョンが、現れたのです」
その一言に、ラルラゴまで目を細めた。
ヴァイスは、少しだけ遠くを見るような目になった。
「本当に、突然でした」
「地が裂ける、という表現では足りません」
「生きているかのようでした」
「想像を絶する恐怖でした」
「……ダンジョン出現の瞬間」
ユリウスが呟く。
「はい」
「主と、その娘と、その土地と」
「ビニアを逃した願いと」
「殺された無念と」
「守れなかった悔しさと」
「故郷を想う気持ちと」
「死に方と、術と、壊れた理と」
「すべてが重なり、土地に還った」
ヴァイスの声が静かに沈む。
「複数人の想いが重なった時、地は変質する」
「一人や二人では、ここまで深いものにはなりません」
「この第一ダンジョンは、そうして生まれた」
誰も、すぐには口を開けなかった。
それは理屈だった。
だが、今は理屈で聞こえなかった。
死の奥で、誰かたちの生きた証が重なって、ひとつの迷宮になった。
「その後」
ヴァイスは、もう一度自分の手を見る。
「わたくしは、その迷宮の中で生きることになりました」
「最初は、ほとんど何も覚えていなかった」
「ただ、何かを待たねばならないことだけは知っていた」
ゆっくりと、リオを見る。
「ご主人様のおかげです」
「少しずつ、記憶が戻り始めたのは」
リオは何も言えなかった。
ヴァイスの過去。
ミアの血。
ビニア。
主とその娘。
魔神。
ダンジョンの誕生。
全部が、レインの《接続》によって、一気に繋がってしまった。
その中心で倒れているレインを見て、リオは小さく呟く。
「……やっぱり、あいつすごいな」
「すごい、で済ませていいんでしょうか」
と、ユリウス。
「よくはないな」
ヴァルが言う。
「だが今は、それでいい」
ノアの光が、静かにレインの額に触れる。
「この子は、起きた時にまたひとつ重いものを抱えるのでしょうね」
「だろうな」
と、ヴァル。
ミアは、ようやく少しだけ顔を上げた。
「……お母さん」
「生きてるかな」
その問いだけは、誰にも簡単には答えられなかった。
ヴァイスも、すぐには言葉を返せない。
やがて、静かに答える。
「分かりません」
「ですが、断ち切れたとは感じませんでした」
ミアが、涙で濡れたままそちらを見る。
「それって……」
「まだ、何かが続いているということです」
ヴァイスは言った。
「少なくとも、わたくしはそう思いたい」
ミアは、そこでまた泣いた。
でも、さっきまでの泣き方とは少し違った。
悲しいだけじゃない。
失っただけでもない。
まだ、どこかに続いているかもしれないと思ってしまった涙だった。
リオは、レインの手を軽く握る。
「起きたら、言わなきゃだな」
「お前、とんでもないことしたぞって」
医務室の灯りは静かだった。
けれど、その夜。
オルビス・ノヴァの中で、いくつもの点がひとつの線へ繋がった。
そして、その線の先にはまだ――
生きているかもしれない誰かが、残っている。




