ヴァイスとミア
第一区へ戻る道は、奇妙な静けさをまとっていた。
リオの隣を歩くヴァイスは、まだ人型を保っている。
黒銀の長髪が風に揺れ、青白い肌は外の光を受けるたびに、ほんの少しだけ現実から浮いて見えた。
獣体の時より静かだ。
だが、静かなぶんだけ異質さが際立つ。
ユリウスは、その数歩後ろで半ば放心しながら記録板を抱えていた。
「……本当に外へ出ている」
「記録官殿、今さらか」
と、ヴァルが笑う。
「今さらです」
「ですが、今さらでも書かねばなりません」
「偉い」
「仕事です」
リオは少し笑ったが、すぐに前へ目を戻した。
第一区の門はもう近い。
このまま入れば、何人かは気づく。
騒ぎになるかもしれない。
けれど、不思議と変な不安はなかった。
ヴァイスは暴れない。
むしろ今は、周囲を見ることに意識を取られているようだった。
「……外は、広いのですね」
と、ヴァイスがぽつりと呟く。
「まだ入口みたいなものだよ」
と、リオ。
「中に入ると、もっと変だよ」
「変、ですか」
「うん」
「人も魔人も、ごちゃ混ぜで暮らしてる」
「ドラゴンまで働いてるし」
「たまにザルクスが変なこと言うし」
「ヴァルはいつも変だし」
「おい」
と、ヴァル。
「否定できないでしょう」
と、ユリウスが真顔で補足した。
ヴァイスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑った、というほどではない。
でも、初めてその横顔から、迷宮の冷たさ以外のものが覗いた。
⸻
第一区の正門で、案の定、門番が固まった。
「……リオ様」
「その方、は」
リオは軽く手を挙げた。
「大丈夫」
「僕が連れてきた」
とても大丈夫とは思えない見た目をしていたが、門番たちはもう、リオがその手の説明を省く時ほど本当に何かあるのだと学習していた。
「……承知しました」
と、ひとまず頭を下げる。
ヴァイスは、そのやり取りを黙って見ていた。
「ご主人様」
「ん?」
「信じられているのですね」
「うん」
リオは少しだけ照れくさそうに笑う。
「たぶん」
「たぶん、で済むのがすごいな」
と、ヴァル。
⸻
中央広場へ入る頃には、夕方の灯りが石畳を柔らかく染め始めていた。
噴水のそばでは子どもたちがまだ走り回っている。
職人たちは仕事を切り上げつつあり、火の魔術を扱う調理場の辺りからは、早くも夕飯の匂いが漂っていた。
人の営みの匂い。
熱。
生活の流れ。
ヴァイスは、それらを受け止めるたびに、ほんのわずかに歩調を緩めた。
「大丈夫?」
と、リオ。
「……はい」
ヴァイスは答える。
「ただ、少しだけ」
「濃い」
その表現に、リオは思わず少しだけ笑った。
「それ、ミアも似たようなこと言うよ」
ヴァイスがそこで、はじめてはっきりと反応した。
「……ミア」
その名を、ヴァイスは静かに繰り返す。
「うん」
「会わせたいって言ったでしょ」
「はい」
ヴァイスの視線が、広場の向こうを探るように動いた。
「もう、近くにおりますね」
ヴァルが面白そうに眉を上げる。
「分かるのか」
「分かります」
ヴァイスは短く答えた。
「ひどく繊細なのに、深く沈んでいる」
「薄いのではなく、深い」
「そういう触れ方をする者は、珍しい」
その言葉に、ヴァルが笑みを深くする。
「やっぱりな」
⸻
ミアは、噴水の少し先にいた。
ちょうど、夕方の配布所の手伝いを終えたところだった。
布包みを抱えたまま、何かに気づいたように動きを止めている。
その顔を見た瞬間、リオは分かった。
もう、気づいている。
ミアは、ゆっくりとこちらを見る。
最初にリオ。
次にヴァル。
それから、その隣に立つ黒銀の女へ視線が止まった。
そして、ほんの一瞬だけ息を止めた。
「……ミア」
と、リオが声をかける。
ミアは返事をしない。
いや、できないらしい。
ただ、その場に立ったまま、ヴァイスを見つめていた。
前みたいな露骨な怯えはない。
でも、身体の奥のどこかが一気に揺さぶられた時の顔だった。
リオは、あえてゆっくり言う。
「紹介するね」
「ヴァイス」
ヴァイスは、静かに一歩前へ出た。
「はじめまして」
「ヴァイスと申します」
その声音は、よく整っていた。
冷たくはない。
だが、普通の人間のものとも少し違う。
深い水底から引き上げられた言葉みたいに、どこか古い。
ミアの指先が、布包みの端を少し強く握る。
「……はじめ、まして」
声は出た。
でも、少し掠れていた。
ヴァイスは、それ以上すぐには近づかなかった。
ただ、じっとミアを見る。
見る、というより――
確かめる、に近い。
「やはり」
と、ヴァイスが小さく言った。
リオが目を瞬く。
「何が?」
ヴァイスは、少し間を置いてから答える。
「この娘は、表面で拾っているのではありません」
「もっと奥の、残り方に触れている」
ミアの目が、わずかに揺れる。
“残り方”。
その言葉に、何かが引っかかったらしい。
ヴァイスは続ける。
「違和感の先」
「気配の層」
「消えきらずに沈んだもの」
「まだ名になっていない引っかかり」
ミアは、そこで小さく息を呑んだ。
リオはすぐに気づく。
これは当たっている。
しかも、かなり深いところを。
「ミア?」
と、リオが一歩近づく。
だが、ミアは首を振った。
「……だいじょうぶ」
「でも」
「ちょっと、近い」
その言い方に、ヴァイスはすぐ反応した。
彼女はそれ以上近づかず、逆に半歩だけ距離を取った。
「失礼しました」
「今の距離では、まだ重すぎますね」
ヴァルが腕を組む。
「やっぱり相性がいいどころじゃないな」
「強すぎるのよ」
と、いつの間にか現れたリュメリアが言った。
リオが振り向く。
「いつからいたの」
「途中から」
「面白そうだったから」
ヴァルが笑う。
「お前も同じじゃないか」
リュメリアはそれを無視して、ミアを見る。
「どう?」
「無理ならすぐやめるわよ」
ミアは、少しだけ考えた。
前なら、たぶんすぐに引いていた。
でも今は違う。
「……怖くは、ない」
「ただ、深い」
「すごく」
「その人のまわりだけ、何枚も重なってる感じがする」
ヴァイスの目が、そこで少しだけ柔らかくなる。
「そうです」
「わたくしは、ただここにいるのではなく」
「いくつも沈めたものを抱えたまま在る」
ミアは、その言葉を聞いて、なぜか少しだけ涙ぐんだ。
リオがぎょっとする。
「えっ、ミア!?」
「ちがう」
ミアは目元を押さえながら首を振る。
「苦しいとかじゃない」
「なんか……」
「今まで触ったことのないものに、触れた感じがして」
ヴァイスは、そこでようやくはっきりと頷いた。
「それでよいのです」
「無理に開こうとしなくていい」
「今はまだ、触れただけで十分」
リュメリアが静かに目を細めた。
「……分かるのね」
「ええ」
ヴァイスは答える。
「この娘は、まだ細い」
「ですが器は浅くない」
「開けば、もっと遠くまで届くでしょう」
ミアは、その言葉をどう受け取ればいいのか分からない顔をした。
リオは、そんなミアを見て、少しだけ嬉しそうに笑う。
「よかった」
「やっぱり会わせて正解だった」
「正解、ですか」
と、ヴァイス。
「うん」
リオは頷く。
「たぶんミア、ずっとひとりで曖昧なまま拾ってたから」
「それを“それでいい”って言ってくれる人、必要だったと思う」
ミアが、少しだけ目を見開く。
その言葉は、ヴァイスに向けているようで、同時にミア自身にも向けられていた。
ヴァイスは、その意味を理解したらしかった。
「……ご主人様は」
「本当に、変えてしまうのですね」
「何を?」
「周りを」
リオは、少し困ったように笑った。
「そんなつもりはないんだけどな」
「そのつもりがないからでしょう」
と、リュメリア。
「それ、褒めてる?」
「半分だけ」
ヴァルが吹き出す。
噴水の向こうでは、夕方のざわめきが少しずつ夜へ移っていく。
火の魔術が強くなり、光の魔法が石畳の影をやわらかく押し返し始める。
その中で、ミアとヴァイスはもう一度だけ視線を交わした。
何かが、確かに始まっていた。
まだ名にならない。
まだ使いこなせない。
まだ表に出せるほど整っていない。
でも、ミアの中の“本来の力”は、確かに今、初めて外側から正しく触れられた。
そしてヴァイスもまた、ただ地上へ出ただけではなかった。
この世界で、自分がまだ果たせる役目を見つけ始めていた。
リオは、その二人を見ながら静かに思う。
たぶん、これは次の扉だ。
レインの《接続》とも違う。
剣とも、術とも違う。
でもきっと、同じくらい大きい扉。
その扉が、夕暮れの噴水のそばで、音もなく少しだけ開き始めていた。




