外へ来ないか
ヴァイスのことは、まだ外へ大きくは出していなかった。
王国への報告も、浅層の異常、記録の濃度、混合型の敵性存在、再調査の必要性――そのあたりに留めてある。
“ご主人様”という呼び名も、魔神の一種であることも、そして迷宮の一部が何者かの意思を引き継いでいることも、今はまだオルビス・ノヴァの内側だけの話だった。
だからこそ、数日後の再入室も、かなり絞られた。
リオ。
ヴァル。
そして監理官兼記録官のユリウス。
今回は攻略ではない。
会いに行くための再訪だった。
⸻
第一穴の入口は、前回と同じように静かだった。
ただ、前よりも少しだけ“こちらを見ている感じ”が薄い。
それに気づいたのは、やはり最初にリオだった。
「……あれ」
「何です」
と、ユリウス。
「前より、刺さらない」
「刺さらない?」
「うん。なんか、入口の嫌な感じが少し薄い」
ヴァルが鼻を鳴らす。
「そりゃそうだろ」
「向こうも、もうお前を“初見の侵入者”としては見ていない」
ユリウスは、少しだけ眉を寄せた。
「迷宮側に認識された、と」
「嫌な言い方だが、だいたいそういうことだ」
と、ヴァル。
王印板による簡易記録を済ませ、三人は中へ入った。
前回の魔物の残骸は、もう残っていなかった。
いや、正確には“片づけられている”としか思えない消え方だった。
壁面の傷。
床の沈み。
魔気の癖。
そのすべては変わらないのに、通路だけが妙に整って見える。
「……嫌な整い方ですね」
と、ユリウス。
「歓迎されてるのかもな」
と、ヴァル。
「それはそれで気味が悪いです」
「いい記録官になれるぞ」
「その褒め方は不本意です」
少しだけ空気が軽くなる。
だが、魔気の濃い一室へ近づくにつれて、その軽さもすぐに消えた。
部屋の前で、リオは立ち止まる。
前回、自分の戦い方の断片を思い出した場所。
ヴァイスと会話した場所。
ただの一室では、もうなかった。
「入るよ」
と、リオ。
誰に言うでもない声だった。
でも、その声に部屋の奥が微かに揺れた気がした。
⸻
中は、静かだった。
前回のような殺気はない。
魔気は濃い。
だが、それは圧ではなく、呼吸のように部屋の奥で沈んでいる。
そして、その中央にヴァイスはいた。
黒銀の獣体。
だが、前回よりも姿勢が低く、敵意ではなく待機の気配をまとっている。
リオの姿を認めると、ヴァイスはすぐに頭を垂れた。
「……ご主人様」
その呼び方に、ユリウスがまた小さく硬直する。
もう驚き慣れたと思っていたらしいが、そんなものは甘かった。
リオは、部屋の奥まで歩いていく。
「また来た」
ヴァイスは静かに答える。
「お待ちしておりました」
「待ってたんだ」
「はい」
「前回のお言葉を、信じておりましたので」
ヴァルが後ろで肩を揺らす。
「重い忠誠だなあ」
「忠誠ではありません」
ヴァイスは視線を上げぬまま言う。
「当然の帰着です」
「余計重いな」
と、ヴァル。
リオは、ヴァイスの前でしゃがみ込んだ。
「体、どう?」
「前回より安定しております」
「ご主人様の手が、一時的に核の散りを止めてくださいました」
ユリウスの筆が一瞬だけ止まる。
やはり記録官泣かせの会話である。
リオは少しだけ笑った。
「それならよかった」
そして、少し間を置いてから本題を口にした。
「ねえ、ヴァイス」
「はい」
「外へ来ないか」
部屋の魔気が、そこで一瞬だけ揺れた。
ユリウスが顔を上げる。
ヴァルは何も言わず、面白そうに成り行きを見ていた。
ヴァイスは、すぐには答えなかった。
ゆっくりと、頭を上げる。
その目には明らかな驚きがあった。
それでも、次に出た声は静かだった。
「……外、に」
「うん」
リオは頷く。
「今すぐずっと、って意味じゃなくていい」
「でも、出られるなら出てみない?」
「みんなにも会ってほしい」
ヴァイスは、数秒だけ言葉を失ったようだった。
魔神。
迷宮の一部。
誰かの意思を引き継ぎ、核を削られながらこの一室を守っている存在。
そんなものに向かって、リオはまるで近所へ散歩に誘うみたいに言う。
「……わたくし、が」
ヴァイスはゆっくりと問う。
「外へ」
「うん」
「だめかな」
「だめ、では……ありません」
ヴァイスは、そこで初めて目を伏せた。
「ただ、わたくしはこの迷宮に強く繋がっております」
「長くは保てません」
「外へ出れば、核の散りが進む恐れもある」
「それでも、試したい」
リオは言う。
「僕も手伝うから」
ヴァイスが、また顔を上げる。
「ご主人様が?」
「うん」
「前に一回、止められた」
「だったら、外へ出るくらいなら、もしかしたら保てるかもしれない」
ヴァルがそこで、ようやく口を挟んだ。
「試す価値はあるな」
「どうせここで腐らせるには惜しい」
「それに」
と、少しだけにやっとする。
「ミアに会わせたら、面白いことになりそうだ」
ヴァイスの目が、そこでわずかに細くなる。
「……ミア」
「まだ会ってもいないのに反応するんだ」
と、リオ。
ヴァイスは低く答えた。
「前回より、外の気配が増えております」
「その中に、ひどく繊細で、しかし深い触れ方をする者の気配がある」
ユリウスは、もう記録を取りながら理解を半ば放棄し始めていた。
一方ヴァルは、完全に面白がっている。
「やっぱりな」
「お前も気づくか」
リオは、そこで少しだけ嬉しそうに笑った。
「じゃあ、なおさらだ」
「外へ来てよ、ヴァイス」
「ミアにも会ってほしい」
ヴァイスは、今度こそ長く黙った。
部屋の奥で、魔気がゆっくりと呼吸する。
迷宮そのものが、彼女の返答を待っているみたいだった。
やがてヴァイスは、静かに言った。
「……もし」
「うん」
「ご主人様が、わたくしの核を一時的に繋ぎ止めてくださるのであれば」
「短い間なら、可能かもしれません」
リオの目が少しだけ輝く。
「やろう」
「軽いな」
と、ヴァル。
「軽く言わないと、緊張するから」
と、リオ。
「それは少し分かります」
と、ユリウスが珍しく同意した。
ヴァイスは、部屋の中央でゆっくりと身を伏せた。
「では、お願いいたします」
リオは、黒銀の獣体の胸元へ手を当てる。
前回と同じ場所。
だが今度は、“死ぬな”ではない。
もっと静かで、もっと細い目的だ。
繋ぎ止める。
散らさない。
外へ連れていく。
目を閉じる。
深く息を吸う。
前にレインが自分へ接続を試した時の感覚。
あの時、少しだけ過去の異能の断片が繋がった。
今はまだ不完全でも、その不完全な橋は残っている。
リオは、その橋を思い出すように、掌へ意識を集めた。
「……行くよ」
ヴァイスの胸の奥で、ゆっくりと脈が打つ。
どくん。
どくん。
黒い霧のように漏れていたものが、一瞬だけ逆流した。
ユリウスが目を見開く。
ヴァルは、珍しく黙る。
リオの掌から、目に見えない何かが伸びる。
光ではない。
結界でもない。
でも確かに、存在を縫い止める側の力だ。
ヴァイスの身体が、大きく震えた。
「――っ」
獣体の輪郭が、少しだけぶれる。
次の瞬間。
その巨体は、黒銀の粒子を散らしながら縮み始めた。
「……は?」
と、ユリウス。
骨格が変わる。
四肢が組み替わる。
獣の輪郭がほどけ、人のかたちへ寄っていく。
完全ではない。
だが、獣体のまま外へ出るよりは、明らかに“抑えた形”へ変質していく。
やがて、そこに立っていたのは――
黒銀の長い髪を背に流した、青白い美貌の女だった。
細身。
しなやか。
年若く見えるのに、目の奥だけがひどく古い。
人の形をしているのに、人ではないとひと目で分かる。
着衣のように見えるものも、布ではなく、黒銀の魔気が薄く形を取ったものに近い。
その姿のまま、彼女は最初にリオへ膝を折った。
「……外へ、お連れくださるのですね」
「ご主人様」
ヴァルが、ようやく口笛を吹いた。
「おいおい」
「そう来るか」
ユリウスは、もはや何を書けばよいのか分からない顔で、それでも無理やり記録していた。
魔神一種ヴァイス、一時的人型安定を確認。
女性体。
リオ・レヴァンスの接触により、核散逸を抑制した可能性あり。
書きながら、自分で頭が痛くなった。
分類不能の記録ほど、役人泣かせなものはない。
リオは、少しだけ息を切らしていた。
でも笑っている。
「どう?」
ヴァイスはゆっくりと、自分の両手を見下ろした。
指先。
手首。
人の形をした細い腕。
次に、そっと自分の髪へ触れる。
長い黒銀の髪が、さらりと肩から落ちた。
それから彼女は、静かにリオを見た。
その目には、驚きと、感謝と、それ以上にもっと古い何かが浮かんでいた。
「……可能なのですね」
「ご主人様と共にあることが」
リオは、少しだけ照れたように笑う。
「うん」
「とりあえず、今は」
「十分です」
ヴァイスはそう答えた。
ヴァルが肩を叩く。
「安心しろ」
「うちの連中は、だいたいもっと変だ」
「慰めになってるんでしょうか、それ」
と、ユリウス。
「少なくとも本当だ」
「本当でも困ります」
小さなやりとりのあと、三人と一体は、部屋を出た。
魔気の濃い一室から通路へ。
通路から入口へ。
入口から――地上へ。
ヴァイスが第一穴の外へ足を踏み出した瞬間、外の光がその輪郭を照らした。
朝とも昼ともつかない明るさの中で、ヴァイスはほんの一瞬だけ立ち止まる。
風が吹く。
草の匂い。
土の匂い。
遠くで人が生きている気配。
ヴァイスは、目を細めた。
「……これが」
誰にともなく、ぽつりと言う。
「外……」
リオが、その横で笑った。
「うん」
「ようこそ」
ヴァイスは、しばらく何も言わなかった。
ただそのまま、少しだけ空を見上げる。
迷宮の中にはない色。
迷宮の中にはない広さ。
迷宮の中にはない風。
その横顔を見て、リオは思った。
たぶん、これでよかった。
この存在は、ただ地下で待ち続けるだけじゃなくていい。
もう少し、外へ触れていい。
そして、その次に会わせたい相手の顔が、自然に浮かんでいた。
ミア。
ヴァイスも、きっともうそれに気づいている。
ダンジョンの外で吹く風の中、物語はまた静かに一歩進んでいた。




