剣を置く瞬間
正式な許可は、すぐに下りた。
もっとも、誰でも好きに入ってよいという意味ではない。
王国法に基づく、限定探索許可。
対象は成埜の地近郊に確認された第一ダンジョン。
人数制限あり。
持ち出し物は全件申告。
深層侵入は禁止。
同行者として、王国より監理官兼記録官が一名。
その名は、ユリウス・セルヴァン。
そして今回の探索隊は、絞られた。
リオ。
ヴァル。
ユリウス。
ラルラゴたちも異論はなかった。
これは大規模攻略ではない。
むしろ、“浅層の顔”をもう一段だけ確かめるための探索だ。
リュメリアは見送り際、冷たく言った。
「深追いしないで」
「今日は確認だけ」
「分かってるよ」
と、リオ。
ヴァルは笑いながら酒瓶を揺らした。
「確認、確認」
「確認ついでに少し楽しむだけだ」
「その“少し”が信用ならないんですよ」
と、ユリウス。
「おや、もう私の扱いが分かってきたか」
「分かりたくありませんでした」
ノアの光が、小さく揺れた。
「お気をつけて」
リオは軽く手を振る。
「いってくる」
⸻
第一ダンジョン――成埜外縁第一穴。
入口は、前回と変わらぬ顔をしていた。
ただの割れ目に見えて、そうではない。
見ているだけで、皮膚の表面を何かが薄く撫でていくような感覚がある。
ユリウスが王印板をかざし、短く確認する。
「第二次正式浅層確認、開始」
「記録対象、オルビス・ノヴァ所属リオ・アオレイ、ヴァル・グレン」
「同行記録官、ユリウス・セルヴァン」
ヴァルが、通路を覗き込みながら言う。
「相変わらず、嫌な入口だな」
「嫌、で済ませていいものなんですか」
「嫌だから済ませるんだよ、記録官殿」
「意味が分かりません」
「分からなくていい」
三人は、そのまま中へ入った。
⸻
前回より奥へ進むと、空気の質が明確に変わった。
浅層のはずだ。
だが、もう“浅い”だけでは説明しきれない。
壁面には古い傷が増えている。
剣痕のようなもの。
爪痕のようなもの。
熱で焼けたのか、術式で削れたのか判断しきれない崩れ。
そして何より、魔物の数が多い。
最初に出たのは、灰殻の獣が五体。
続いて、骨針のような脚を持つ巨大な蟲が二十。
さらに、通路の奥から黒い泥みたいな魔気をまとった魔獣が続々と湧いてきた。
ユリウスの顔色が、さすがに変わる。
「……浅層で、この数は」
「普通じゃない」
と、リオ。
「普通じゃないから来てるんだろ」
ヴァルが笑う。
その直後には、もう動いていた。
ヴァルが酒瓶の栓を抜き、軽く振る。
飛び散った透明な液体が空中で白く弾け、蟲の群れを一気に凍らせる。
「前菜だな」
リオも剣を抜いた。
灰殻獣が飛びかかる。
一歩踏み込み、斬る。
二体目の首筋を返しの刃で断つ。
三体目が横から来るのを、身を沈めて避ける。
速い。
だが、まだ間に合う。
「ユリウス! 下がって!」
「記録を優先します!」
「それはいいから生きてて!」
ユリウスは後退しながらも筆を止めない。
肝は据わっている。かなり嫌な職業適性だ。
通路の先から、さらに魔物が押し寄せる。
「多いな!」
リオが言う。
「多いなあ!」
ヴァルが楽しそうに返す。
その様子に、リオは一瞬だけ笑いそうになった。
でも、次の瞬間には笑えなくなった。
通路が開けたのだ。
前方に、広い一室。
天井は高く、壁面には黒い鉱脈のようなものが走っている。
魔気が、目に見えそうなほど濃い。
空気が重い。
浅層とは思えない圧。
ヴァルが立ち止まり、少しだけ目を細めた。
「……おい」
リオも、同時に気づいた。
この部屋の魔物は、さっきまでの雑な湧き方じゃない。
奥に、いた。
一際大きな黒銀の獣。
狼に似ている。
だが目が違う。
ちゃんと見ている。
考えている目だ。
その周囲には、甲殻の青黒い魔虫が六体。
蟲だ。
なのに、配置が妙に良い。
獣を囲むように、死角を埋めるように動いている。
「……知能高いな」
ヴァルが笑みを消した。
獣が、一歩前へ出た。
低く唸る。
だが、ただの威嚇じゃない。
測っている。
リオの背筋を、薄い寒気が走る。
次の瞬間。
来た。
魔虫が左右へ散開。
一体は天井、二体は壁面、残りは正面。
獣は一拍遅れて中心から来る。
「チーム戦かよ!」
リオが叫ぶ。
「いいねえ!」
と、ヴァル。
全然よくない。
リオは剣を振るう。
一体、二体、三体。
だが、この部屋に入ってから、妙に噛み合わない。
剣筋は通っている。
動きも悪くない。
それでも。
違う。
獣が、紙一重で踏み込みをずらしてくる。
魔虫が、まるで“リオの剣が届く場所”だけを避けているみたいに散る。
「くっ……!」
右腕に、微かな痺れ。
その瞬間、頭の奥で何かが揺れた。
――前に、あった。
レインが、みんなに内緒で自分に《接続》を試した時。
あの一瞬だけ、扉みたいな感覚があった。
あの時は、不完全だと思った。
深くは届いていないと思っていた。
でも。
今、戦っているこの瞬間に分かる。
違う。
「あれ……」
剣を受けながら、リオの目が揺れる。
「……あの時」
魔虫が横から来る。
反射で避ける。
獣が踏み込む。
剣を合わせる。
だがその刃を受けた瞬間、さらに奥から別の感覚が浮かび上がる。
剣じゃない。
もっと広い。
もっと多い。
術式。
魔術。
豪技。
この世界での、本来の自分の戦い方。
剣一本でどうにかする前の、もっと異質で、もっと自由で、もっと暴力的な戦い方。
「……そうか」
リオの口から、自然に声が漏れた。
ヴァルが横目で見る。
「何だ?」
リオは獣を見たまま、低く言った。
「前に、レインが俺に接続を試した時」
「不完全だと思ってた」
獣が吠え、魔虫が襲いかかる。
リオは、そこで初めて剣から力を抜いた。
「でも……少しだけ」
「少しだけ、あいつが」
「過去の俺の異能を、接続してくれてたのかもしれない」
その言葉に、ヴァルの目が少しだけ見開かれる。
「おいおい……」
ユリウスは、後方で記録しながら動きを止めた。
剣を抜いている。
でも筆はまだ手放していない。
とんでもなく面倒な有能さだ。
リオは、獣を見たまま、ゆっくり剣を下ろした。
「リオ!?」
ユリウスが声を上げる。
「下げた!?」
「え」
「剣を!?」
ヴァルだけが、口元をつり上げる。
「……ああ」
「そういう顔か」
リオの指先に、微かな光ではない何かが滲む。
それは魔法陣でもなければ、属性魔術の起点でもない。
もっと曖昧で、もっと暴力的な“術の前の術”みたいなもの。
リオは、自分でも名前を思い出しきれていなかった。
でも身体は知っていた。
一歩。
ただ前へ出る。
その瞬間、魔虫の一体が真横から飛びかかった。
リオは剣を使わない。
代わりに、左手を軽く振る。
空間が、斜めに沈んだ。
「――!?」
魔虫の軌道がねじれる。
壁へ叩きつけられ、音もなく潰れる。
ユリウスの筆が止まる。
ヴァルが、低く笑った。
「はは……」
「出たな」
獣が吠える。
今度は真正面から来る。
速い。
知能が高い。
しかも恐れていない。
リオは右手を前へ出した。
指先の先に、いくつもの線が浮かぶ。
術式。
記憶の底から、まだ完全じゃない形で這い上がってくる。
名前は分からない。
でも、感覚が知っている。
「……行ける」
次の瞬間、獣の足元の床が、何の前触れもなく折れた。
砕けたのではない。
床の“在り方”だけがずれたように、一瞬だけ支えを失った。
獣の重心が沈む。
そこへ。
リオが、剣ではなく、拳のように握った右手を振り下ろした。
見えない圧が落ちる。
どんっ!!
獣の巨体が床へ叩きつけられる。
部屋そのものが震える。
ヴァルが、楽しそうに肩を揺らした。
「いい」
「やっぱりお前、それだよ」
残った魔虫たちが一斉に退こうとする。
だがリオは止まらない。
今度は両手を軽く開いた。
部屋の空気が、わずかに張る。
魔虫たちの動きが、そこで止まった。
ユリウスの目には、それが何で止まったのか理解できなかった。
結界でもない。
重力でもない。
拘束魔法とも違う。
ただ、“進んではいけない場所に入った”みたいに、魔虫たちの身体が強張ったのだ。
「……っ」
リオ自身も、少し驚いていた。
分かる。
これは自分のものだ。
でも、まだ全部じゃない。
思い出したというより、
接続された断片が、今になって身体の奥で噛み合い始めた感じだった。
「レイン……」
と、思わず小さく呟く。
次の瞬間、ヴァルが白い息を一吹きした。
凍気が走り、残った魔虫を一気に白く染める。
「今はそのくらいでいい」
「全部思い出すには、まだ酒が足りん」
「基準がおかしいんだよ」
と、リオが笑う。
最後に、床へ叩きつけられていた獣がまだ動こうとした。
リオは一歩近づく。
剣は、使わない。
ただ、獣の額へ手を向ける。
「眠れ」
それは命令というより、術式の完成に近かった。
獣の眼光が、そこでふっと薄れる。
黒銀の巨体が、重く床へ沈んだ。
完全な死ではない。
だが、戦いは終わった。
部屋の魔気が、ようやく少しだけほどける。
沈黙。
ユリウスが、数秒遅れて息を吐いた。
「……いまのは」
「知らん」
と、ヴァルが即答する。
「知らないんですか!?」
「細かくはな」
ヴァルは笑う。
「だが、いいものを見た」
「剣もいいが、やはりお前の本来はそっちだ、リオ」
リオは、自分の手を見た。
まだ少し熱い。
でも、怖くはない。
前にレインがこっそり接続を試した時。
あれは失敗じゃなかった。
未完成だっただけだ。
不完全だっただけで、
ちゃんと何かは届いていた。
そして今、その断片が戦いの中で噛み合った。
「……やっぱり」
リオは、少しだけ笑った。
「レイン、すごいな」
ヴァルが肩をすくめる。
「今さらか」
「今さらだね」
ユリウスは、震える手で記録を書き始めた。
第二次浅層確認にて、リオ・レヴァンス、剣を用いず高位不明術式を行使。
内容は空間干渉、重圧操作、行動阻害、強制沈静に類似。
既存王国分類に該当しない可能性あり。
書きながら、自分で頭が痛くなった。
分類不能の記録ほど、役人泣かせなものはない。
ヴァルが部屋を見渡す。
「さて」
「今日はここまでか?」
リオは頷いた。
「うん」
「これ以上行くと、今の感覚まで散りそう」
「正解」
ヴァルが言う。
「思い出しかけたものは、欲張ると逃げる」
ユリウスも、珍しくすぐ同意した。
「帰還を提案します」
「本日の収穫は十分すぎます」
リオは最後に、部屋の奥を一度だけ見た。
まだ先がある。
まだ深い。
そしてきっと、この下にも何かが続いている。
けれど今日は、それよりもっと大きいものを持ち帰ることになった。
自分の戦い方の断片。
剣だけじゃない。
この世界で、本来の自分が立っていた場所の片鱗。
それが、ようやく指先に戻り始めたのだ。
「帰ろう」
と、リオが言う。
ヴァルが笑う。
「おう」
「帰って、その顔を皆に見せてやれ」
「どんな顔?」
「面白くなってきた顔だ」
その言葉に、リオは少しだけ笑った。
三人は、魔気の濃い一室を後にした。
ダンジョンの奥は、まだ何も語らない。
だが、今度はリオの方が、少しだけ思い出し始めていた。




