最初の穴
翌朝、第一区の門前には、いつもより少し張った空気があった。
空はよく晴れている。
街道の先には、朝の光を受けた防壁が静かに立ち、その向こうで成埜の地の深い気配が息を潜めている。
今日はいよいよ、最初のダンジョン探索だった。
しかも今回は、ただ潜るだけではない。
王国法に則った正式な初回調査。
ゆえに、オルビス・ノヴァ以外にもう一人、同行者がいる。
門の脇で、細身の男が巻物と板書具を確認していた。
年は三十前後。
痩せて見えるが、立ち姿に無駄がない。
貴族の飾り気より、文官の鋭さが勝っている顔だ。
王国より派遣された、監理官兼記録官。
名を、ユリウス・セルヴァンという。
彼はリオたちが揃ったのを確認すると、一歩前へ出て、きっちりと一礼した。
「本日、王命により同行いたします」
「監理官兼記録官、ユリウス・セルヴァンです」
リオが軽く手を挙げる。
「リオです」
「よろしく」
ユリウスは、その軽い返しに少しだけ目を瞬かせたが、すぐに表情を戻した。
「こちらこそ」
「本探索において、私は監視ではなく、記録・査定・国家側への正式報告を担います」
「ただし、持ち出し物、階層情報、特級危険物の確認に関しては、必要に応じて発言いたします」
「要するに、堅い役だな」
ヴァルが笑う。
ユリウスは否定も肯定もせず答えた。
「堅くなければ、この仕事は務まりません」
「嫌いじゃない」
と、リュメリア。
ザルクスは横で面白そうに見ていた。
「で、こいつは強いのか?」
ユリウスはその問いに、少しだけ視線を上げた。
「戦闘員ではありません」
「ですが、記録官が簡単に死ぬようでは、王国の制度は回りません」
「なるほど」
と、ラルラゴが短く言う。
その一言で、ユリウスの立ち位置は十分に伝わった。
守られるだけの文官ではない。
だが前線を張るつもりもない。
きちんと仕事をし、きちんと持ち帰るための人間だ。
今日の探索メンバーは、オルビス・ノヴァから六人。
リオ。
ラルラゴ。
リュメリア。
ノア。
ヴァル。
ザルクス。
そこに、ユリウスが加わる。
外部勢力は入れない。
騎士団も、ヴェルド・クレストも、今回は見送りだ。
最初の穴は、まず内側の手で触る。
ラルラゴが前を向いた。
「行くぞ」
⸻
ダンジョンの入口は、第二区のさらに外れ、小さく切り立った岩場の奥にあった。
見た目だけなら、ただの割れ目に近い。
だが近づくにつれ、空気が変わる。
風が、少しだけ冷たい。
岩肌に触れる光が、妙に鈍い。
そして何より、入口の周囲だけが、自然にしては静かすぎた。
鳥の声が少ない。
虫もいない。
草木はあるのに、その場だけが世界から切り離されているみたいだ。
ユリウスが、入口の前で一度立ち止まる。
巻物を開き、王印の入った薄板に指をかざした。
淡い光が走る。
「王国法に基づき、本探索を第一次正式確認と記録する」
「入口識別仮称、成埜外縁第一穴」
「管理権、現時点では王国仮押さえ。ただし実務探索はオルビス・ノヴァへ一任」
「持ち出し物は、すべて帰還後に確認します」
「毎回それやるの?」
と、リオ。
「初回は特に」
ユリウスが答える。
「国は“何が入口か”をまず定義しなければなりません」
「穴が穴のままなら、法は届きません」
ヴァルがにやっとする。
「いい言葉だな」
「役人らしい」
「褒め言葉として受け取ります」
ユリウスは真顔で返した。
ザルクスが入口を覗き込む。
「さて、最初の穴とやらだ」
「あなたが言うと、妙に軽くて腹が立つのよ」
と、リュメリア。
ノアの光が入口へ滑り込むように先行する。
淡く照らされた先は、石段だった。
人工物のようでもあり、そうとも言い切れない。
削られている。
だが削った道具が想像できない。
人の手で整えたというより、**何かの戦いの余波で“通れる形になってしまった”**ような階段だった。
リオが一歩目を踏み入れる。
その瞬間、皮膚の表面を薄く何かが撫でた。
「……うわ」
「感じた?」
と、リュメリア。
「うん」
「嫌な感じではないけど、普通じゃない」
ラルラゴが続く。
「普通のダンジョンなら、その感想で正しい」
「ここはたぶん、もっと悪い」
ユリウスが、そのやりとりを聞きながら淡々と記録していた。
入口接触時、体感圧あり。
明確な敵意ではなく、識別ないし測定の可能性。
字が速い。
かなり有能そうである。
嫌な仕事ほど、できる人が来る。世の中は妙に整っていて腹立たしい。
⸻
中は、思ったより広かった。
最初の通路はなだらかに下っている。
壁面は灰色。
ところどころ黒ずみ、ところどころに白い筋のようなものが走る。
リオは、壁の近くで足を止めた。
「これ、傷?」
ラルラゴも目を向ける。
そこには、ただの亀裂ではないものがあった。
斜めに走る、深く鋭い線。
一本ではない。
いくつも重なっている。
剣傷に見える。
だが、人の剣にしては大きすぎる。
魔獣の爪痕にしては整いすぎている。
「戦ったものの残りね」
リュメリアが静かに言う。
「かなり古い」
「でも、完全には死んでない」
ユリウスの筆が止まる。
「完全には、死んでいない?」
「ダンジョンの中では、昔の傷も記録の一部になる」
リュメリアが壁に指先を近づける。
「時間が経っても、“そこで何が起きたか”だけが沈殿して残ることがあるの」
ヴァルが軽く壁を叩く。
「死んだもの、戦ったもの、封じられた術式、壊れた理」
「そういうのが積もる場所だ」
「だから、深いダンジョンほど“昔の続き”みたいな顔をする」
リオが、少しだけ息を呑む。
その言葉は、昨日会議で聞いたばかりだった。
だがこうして実物を前にすると、意味が違う。
ここは空洞じゃない。
過去が沈殿して、まだ消えていない場所だ。
「……嫌だな」
と、リオが本音を漏らす。
「嫌で正しい」
ラルラゴが言う。
「嫌だと思えぬ者ほど、深層で死ぬ」
⸻
浅層の魔物も出た。
ただし、それも“普通”ではなかった。
最初に現れたのは、石肌の魔獣――三体。
狼に似ている。
だが、足音が不自然に軽い。
身体の重さに対して、床を踏む感触がずれている。
ヴァルが鼻を鳴らす。
「軽いな」
「逆」
と、リュメリアが言った。
「重さの位置が合ってない」
「記録の残骸が混じってる」
魔獣たちは飛びかかってきた。
だが、その瞬間にはもう遅い。
ラルラゴの一歩。
リオの剣筋。
ヴァルの横薙ぎ。
三つの影が交差し、魔獣は形を崩す。
斬った感触はあった。
でも、肉を裂いた感じとは少し違う。
石を斬ったようでいて、途中から霧を断ったような軽さが混ざる。
リオが剣を引く。
「……変だ」
「ええ」
リュメリアが屈み込み、崩れた残骸を見る。
「生き物だけじゃない」
「戦った“記録”の方が混ざってる」
ユリウスが、そこにまでしゃがみこんだ。
「素材化はしますか」
「浅い」
ラルラゴが即答する。
「価値は低い」
「だが記録しておけ」
「“実体と記録の混合型”だ」
「記録済み」
ユリウスの返答も速い。
ザルクスは、そのやりとりを見ながら壁の向こうを眺めていた。
「入口にしては、だいぶ出来すぎてるな」
「あなたが言うと、余計に不穏なのよ」
リュメリアが刺す。
「だって本当だろ」
ザルクスは笑った。
「ここ、自然発生の迷宮っていうより、何かの残り方が妙に綺麗だ」
その“綺麗”という言葉が、逆に全員の背筋を少しだけ冷やした。
⸻
さらに進むと、通路は三つに分かれた。
右。
中央。
左。
どれも同じくらい浅く見える。
だが、同じではない。
ノアの光がそれぞれへ薄く伸びる。
「反応が違います」
「右は、圧が強い」
「中央は、揺らぎが深い」
「左は……」
「左は嫌」
と、リュメリア。
ユリウスが、珍しく顔を上げた。
「嫌、とは」
「記録官殿」
ヴァルが笑う。
「深い場所では“嫌”が一番信用できることもある」
ユリウスは数秒黙ったあと、素直に記録した。
左ルート、解析者二名が明確な忌避感を示す。
理由は未特定。以後優先警戒。
リオがその記録ぶりを見て、小さく感心した。
「本当に全部書くんだね」
「後で生きる者のために残すのが、私の仕事です」
ユリウスが答える。
ラルラゴが中央を見る。
「今日はここで引く」
「まだ浅いぞ」
ザルクスが言う。
「だからだ」
ラルラゴは短く返す。
「浅いのに、すでに違和感が多い」
「入口構造の比較が先だ」
リオも頷いた。
「うん」
「一回目で潜りすぎるの、たぶん違う気がする」
リュメリアが通路を見比べる。
「入口が一つの顔をしていない」
「これは分類しながら進むべきね」
ノアも静かに言う。
「帰還に賛成です」
「今の時点でも、十分“普通ではない”と分かりました」
ヴァルが大げさに肩をすくめる。
「残念」
「もう少し面白いものが見られるかと思ったが」
「あなたは深いものを見すぎてるのよ」
と、リュメリア。
「それはそう」
⸻
帰り道、リオは何度か振り返った。
入口に近い。
まだ浅い。
なのに、背中へ視線のようなものが残る。
敵意ではない。
歓迎でもない。
「……見られてる気がする」
と、ぽつりと言う。
ラルラゴが答える。
「見ているのだろう」
「何が?」
「まだ決めるな」
「分からぬうちに名前をつけるな」
リオは、それ以上は言わなかった。
ダンジョンの外へ出ると、空気が全然違った。
地上の風。
草の匂い。
ちゃんとした昼の明るさ。
肺が、妙に軽い。
ユリウスは、入口を振り返ってからゆっくり巻物を閉じた。
「……これは」
「王国にどう書く?」
と、ヴァル。
ユリウスは少し考えて、真面目に答えた。
「浅層確認」
「だが、通常型ではない」
「構造、敵性、残留記録、分岐、すべてにおいて再調査が必要」
「安易な解放は不可」
ラルラゴが頷く。
「その認識でいい」
ザルクスは、入口の岩肌を軽く撫でた。
「一つ目でこれか」
「下はもっと面白いぞ」
「面白いで済ますな」
と、リオ。
「じゃあ、厄介だ」
「それも嫌だな」
小さな笑いが起きた。
だが、その笑いの裏で全員が同じことを考えていた。
これはただの第一歩だ。
しかも、その第一歩の時点で、すでに異常ははっきりしている。
複数の入口。
混ざる記録。
残る戦い。
生きていないはずの傷。
そして、浅層のくせに“選んでいる”ような違和感。
成埜の地の地下もまた、地上と同じく一筋縄ではいかない。
リオは、入口をもう一度見た。
「……最初の穴」
「だな」
と、ラルラゴ。
「でも、たぶん」
リオは少しだけ目を細める。
「これ、一つじゃない」
ラルラゴも、否定しなかった。
オルビス・ノヴァは、その日、最初のダンジョンから戻った。
持ち帰ったものは少ない。
素材も、情報も、まだ断片だ。
けれど、その断片だけで十分だった。
地下にもまた、領土がある。
その事実を、全員が同じ重さで受け取り始めていた。




